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我慢の限界

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 あれからずっとエイベルを避け続けている。テラスに出ることもせず、風に当たりたいときは窓を開けるだけにした。光が見えると辛くなるから。
 静寂が漂う夜、クラリッサの楽しみはなくなってしまった。
 だが、孤独というわけではない。

「眠れないのか?」

 彼がいる。クラリッサに初めてできた友人だ。

「私、もともと眠りがとても浅いの」
「オイラはいつもぐっすりだぞ」
「ふふっ、羨ましい」

 泣き腫らした目で家族を驚かせた日からクラリッサは精神安定剤と睡眠薬を処方された。父親は余計な物を入れたくないと言っていたが、飲ませずにまた泣かれても困る。最も困るのは泣き腫らした瞳ではパーティーに出席できないことだ。
 皆がクラリッサを見に、鑑賞用王女の美しさを見に足を運ぶ。主役をリズやデイジーに変えてもクラリッサほどの集客は期待できないだろう。父親にとってクラリッサが完璧でなくなることは最大限避けなければならなかった。
 十日ほど試して三日止める。それで問題がなければ薬はナシとなり、今日から飲まなくて良くなったのだが、案の定眠れなくなった。
 大したことではない。人のテリトリーに勝手に入ったのだから怒られて当然だ。恋人ではなかったのだから周りに他に女性がいて当然だ。鑑賞用王女なのだから鑑賞されてお当然だ。
 その言葉を何百回繰り返しただろう。自分を納得させるために自分に言い聞かせ続けても辛さが消えない。

「エイベルが呼んでる」
「聞こえるの?」
「うん」
「そう、じゃあ行ってあげて」
「オイラじゃなくてクラリッサのこと。呼んでくれって」

 そう、じゃあ行くわ。とは言えない。エイベルの顔を見て笑える自信がないのだ。だからクラリッサは黙って首を振るだけ。アイレはそれを察してくれる。
 エイベルにはもう会わない。彼に出会う前の日常に戻ればこの胸の痛みも消え、泣くこともなくなるはずだと考えた。
 きっとこの会話も聞こえているだろうが、エイベルは直接部屋を訪れることはしない。だから安心して断れる。もう一度怒られるようならクラリッサはまた泣くことになってしまう。

「オイラ、この部屋好きだな。風の通りが気持ちいいや」
「私もよ。風が気持ちよくて大好きよ。景色もいいし」
「花がたくさん咲いてるけど、クラリッサは花が好きなのか?」
「ええ、大好き。花を見てると癒される。だから部屋にも花を飾ってもらってるの」

 デイジーやリズのように本棚がない分、余っているスペースに花台と花瓶を置いて、贈り物で受け取った花や朝摘みの花を飾ってもらうとその日一日の気分が良くなる。

「じゃあ明日はオイラが花を持ってきてやるよ! あの森の奥には夜にだけ咲く花があるんだぜ! クラリッサに持ってきてやる!」
「大丈夫? ダークエルフの道を通らない?」
「大丈夫!」

 大きな声で返事をしたが、ふわふわと浮いて耳元までやってきたアイレがこっそり耳打ちする。

「オイラ、ダークエルフにバレずに行く方法知ってるんだ」

 エイベルに聞かれないようにするためだとすぐにわかった。偉いのはダークエルフばかりではないと言いたげに胸を張る様子にクラリッサが声を抑えて笑う。

「アイレが花を持ってきてくれるなんて嬉しい。楽しみに待ってるわ」
「すげーキレイだから驚くぞ」

 約束だと差し出した小指にアイレが手を触れさせる。
 ダークエルフの森には幻想的な灯りがあった。炎とはまた違った淡い光。蝋燭があるようには見えなかったが、アイレも夜になると淡い光を纏うため妖精でもいたのだろうかと思っている。
 そんな妖精がキレイだという花はどういったものだろうかと期待が高まる。

「う~……」

 急に耳を押さえて唸り始めるアイレにクラリッサが手を伸ばす。

「どうしたの?」
「……なんでもない……」

 なんでもないという感じではない。明らかに様子がおかしい。

「アイレ?」
「うるさい!」

 怒声を上げたアイレに目を見開くもアイレが慌ててクラリッサの手に乗る。

「違う! クラリッサに言ったんじゃない! エイベルに……!」

 ハッと口を押さえたアイレはエイベルがまだクラリッサを呼び続けていることを黙っておこうと思っていた。だが、無視すればするほどエイベルもムキになって呼びかけ続ける。クラリッサには聞こえないだけでアイレにはずっと聞こえ続けていた。

「アイレ、私が行くわ」
「行かなくていいよ! うるさい! クラリッサを傷つけたくせに調子のいいこと言うな!」
「アイレ、ムリしないで。大丈夫だから」
「いいんだよ! 俺平気だから!」

 どういう原理で繋がっているのかはわからないが、エイベルの声はアイレに届いている。クラリッサがここでエイベルに呼びかけることはできても返事が聞こえない。
 立ち上がり、避けていたテラスに出ようとするのを止められると困った顔で振り向くクラリッサにアイレは何度も首を振った。

「エイベルやめて。アイレを怒らないで」

 再び椅子に腰掛けたクラリッサがエイベルに声をかける。どういう返事をしているのかはアイレにしかわからず、顔を向けると不服そうに頬を膨らませて拗ねた顔をしていた。

「話をさせろって言ってる」

 話はしたくない。話すことなんてもうない。あの笑顔が見られないのでは世間話などできるはずもないのにエイベルは何を話すというのか。

「誤解しているなら解きたいって」
「……誤解なんてしてない。私たちはただの知り合いで、恋人でも婚約者でもない。あなたが誰とどこにいようと私にそれを説明する義理はないし、何人の女性といようと関係ない。誤解はないわ」
「お前に放った言葉の意味を説明したいってさ。あんなひどいこと言っといて説明だって。言い訳の間違いだろ」
「アイレ、怒られるようなこと言わなくていいの」

 アイレの嫌味の言い方はまるでダニエルのようで、思わずダニエルにする注意の仕方でテーブルを爪で軽く叩いた。

「ごめんなさい、エイベル。人間の私がダークエルフの森に足を踏み込んだのが間違いだったの。行くべきじゃなかった」
「……そんなこと言うなよ。オイラ、クラリッサに会えて嬉しかったのに」
「ああ、そうね、ごめんなさい」

 全ての出会いが間違いだったとは思わない。エイベルと出会って勘違いさえしなければこんなにも傷つくことはなかったのだ。気持ちが通じ合っているようにテラスに出れば彼に会えたから彼が気にかけてくれていると勘違いしてしまった。彼の特別な存在になれた気がして。
 だが、行かなければアイレには出会えなかった。突然現れた妖精だが、彼曰くクラリッサを知ったのはクラリッサが森に来たことで森の空気が変わり様子を見に行ったとき。人間が入れば空気が変わる。妖精は街に出て食べ物を漁るため人間を珍しがることはなくとも森の中に入ってきてダークエルフと話をする姿は一度も見たことがない。ましてや長であるエイベルが気に入ったように話をするのものだから余計にどんな人間なのか気になった。そして姿が見えないのを良いことに部屋まで突撃したのだ。
 クラリッサにとっては初めての友達。かけがえのない小さな友達。

「私はもう森には行かない。あなたたちの領域には踏み込まないって彼女たちにも伝えて」

 ここで過ごしていてもアイレには会える。アイレ専用の家もあって、毎日お茶の時間を共にする。だから森に行く必要はないと断った。
 これでいい。これが最善なのだと自分に言い聞かせた。

「何も言わなくなった」

 耳を押さえていた手を離したアイレは笑顔ではなく不思議そうな顔。エイベルの性格はクラリッサよりアイレのほうが知っているだけに不思議そうな顔につられてクラリッサも同じ表情を浮かべるが、それでいいとすぐに頷いた。

「オイラ、今日は帰るよ」
「もう帰っちゃうの?」
「人間の仲間になったのかってうるさいんだ、アイツら。お土産持って帰ってやってんのにさ」
「ふふっ、入り浸りだものね」

 今日もお土産の飴を渡す。最近、使用人に毎日飴をねだるようになった。飴もクッキーも両方食べるから用意してほしいと。それを聞いたのだろう父親が食べ過ぎになるんじゃないかと心配という名の警告をしてきたが、クラリッサは「毎日は食べていません。ただ、不安になったときに食べると安心するんです」と言って飴の獲得に成功した。
 飴を手に持ってふわりと浮けば瞬きをする間に消えてしまった。今ではすっかり慣れたものだが、出会ったばかりの頃は何度見ても驚いていた。
 紅茶のカップやクッキーが乗っていた皿はそのままに、朝露を入れている小瓶だけ自分の手で片付ける。いつアイレが来ても出せるようにしているのだ。

 エイベルが何を言おうとしていたのか気にならなかったわけではない。誤解という言葉に含まれる意味を探りたかったが、自分の無知さは自分が一番よく知っているからと話を長引かせることはしなかった。
 夜になり、テラスの窓を閉めようとしたとき、クラリッサの頭上に影が差した。一体なんだと顔を上げるとエイベルがいた。

「エイベ──ッ!?」

 身体がふわりと宙に浮き、瞬きをする間に見覚えのある場所に到着した。
 ダークエルフの森の中。いつもエイベルと一緒に過ごした場所だ。

「そうやって死ぬまで俺を無視するつもりか!?」

 開口一番の怒声に思わず肩が跳ねた。

「お前からやってきておいて俺が注意をしたら逃げて、俺が何度呼んでもお前はそれを無視する!」
「だってエイベルが怒って──」
「怒らないと思ったか!?」

 怒って当然だと何百回も思った。だからクラリッサは首を振ってエイベルを見上げると急に抱きしめられたことに目を見開いた。

「エイ、ベル……?」
「頼むから話ぐらいさせてくれ……」

 なぜ怒っているほうがそんなにも辛そうな声を出すのかと戸惑ってしまう。
 
「俺とは話もしたくないか?」

 燃える炎のように強い瞳が今日ばかりは今にも消えしまいそうなほど弱々しかった。
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