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深夜の逃避行

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 急降下で、ビュンビュンと風が痛いくらいに肌を刺す。
 耳触りな滑車の軋む音。
 足元では、どよめきが次第に広がりをみせる。
 それが次第に遠退いて、とうとう雪森は青蜥蜴の逃亡を許してしまった。
「お父様!雪森さんが連れ去られてしまいましたわ!もうこうなっては、本物を出すしかありませんわ!」
 開いた窓から、甲高い美登理の切迫が塀の外まで届く。
 雪森の読み通り、電柱に縄の先が括りつけられており、滑車から手を離した青蜥蜴は、ひょいっと地面に着地する。
 桂木邸と隣家のコンクリート塀との境にある路地には、一台のオートバイが停められていた。
 一瞬を逃さずに雪森は青蜥蜴の腕を振り払い、土埃の立つ路面に一回転した。すぐさま体勢を立て直す。
 腕力では雲泥の差がある。
 まずは逃走手段を破壊してしまうに限る。
 雪森はオートバイのタイヤの空気を抜こうと間髪入れずに駆け寄ったが、相手の方が一枚上手だった。背後から腋の下に手を入れられ、まるで子供を抱えるように軽々と爪先が浮いた。
「わっ、何をする!やめろ!」
 じたばたと足が宙空を蹴る。
「しっかり掴まっていないと、振り落としますよ」
 子供を宥めるときと同じ口調で告げると、青蜥蜴は素早く雪森に縄を巻き付け、己の背に括りつけた。
「やめろ!僕は赤ん坊じゃないぞ!」
 おぶされる形となった雪森は、著しく自尊心を破壊された。このようなみっともない姿を誰かに見られでもしたら。
 そう考えると、これから先の不安よりも、恥辱の方が膨らみ、青蜥蜴の後頭部を容赦なく殴りつけた。勢いで、中折れ帽が飛んだ。
 青蜥蜴は苦笑いで済ませ、オートバイに跨るとアクセルを捻った。直後の急発進。
 猛スピードで、軒並み連なるコンクリート塀を過ぎていく。
 邸宅の集中する町から、繁華街に出た。
 時間が遅く、路面電車はとうに運行をやめている。
 線路を蛇行しながら、巧みに行き交う車を避け、直進する。急ブレーキ音。鳴りやまないクラクション。男の野太い怒鳴り声。
 全く意に介さず、オートバイはひたすらネオンの輝く町を駆ける。
 遥か彼方からエンジン音が一つ。また一つ。どんどん増える。
「もう来たか」
 チラリと背後に目をやった青蜥蜴は、さらに速度を上げた。
「お、おい。無茶はやめろよ!」
 まともに前方からの風を受けた雪森は、目を開けることも出来ないわ、口の中に髪が何筋も入るわで、抵抗している場合ではなかった。青蜥蜴の腰に手を回し、力を込めていないと、振り落とされかねない状況だ。
 オートバイは荒川の堤防まで来ていた。
 なおも追手は止まない。そればかりか、数は増える一方だ。
 クラクションが響き渡る。前照灯が夜の漆黒を白く塗り替えた。
「あの間抜けめ。段取りを間違えたな。全然、警察を撒いていないじゃないか」
 青蜥蜴は忌々しそうに口中でぶつぶつ呟いている。
「この手は使いたくなかったが」
 青蜥蜴は懐からピストルを出す。
 ぎょっと雪森の目が見開いた。
 銃声が耳障りな排気音を裂いた。
 まさかの青蜥蜴の反撃に、先頭を走っていた車両が急ブレーキを踏んで、後続車が停まり切れずにぶち当たった。それが引き金となって、横を向いた車両に次々に追手の車がぶつかる。
「馬鹿!何をやってるんだ、お前は!」
「私も今、掴まるわけにはいかないんでね。黙ってないと、舌を噛みますよ」
 車から降りて地団駄踏む警察を尻目に、オートバイは夜の闇に消えた。
 だが、攻防はまだ終わってはいなかった。
 最後尾の車両は事故渋滞をいち早く察し、先回りしたのだ。
 いきなり目の前に黒塗りの乗用車が躍り出て、青蜥蜴は驚いてブレーキを掛けた。 
 バランスを崩し、車体が横に滑る。
 拘束さえなければ、雪森には受け身をとる自信があった。だが、身動きが取れないので、青蜥蜴の動きに添うしかない。
「そこまでだ!」
 警官は車を降りるなり、ピストルを構える。上から生け捕りを命じられているので、命こそ奪わないものの、致命傷を与えてくるのは確実だ。
「人質をこっちによこせ」
 警官は声を張り上げた。
 ちゃんと雪森の存在を認識した上での阻止だ。わかっているなら、もっと配慮してくれてもいいのに。路面で擦った皮膚は剥け、血が滲み、ひりひりと痛む。
 じりじりと警察は獲物との狭間を埋めていく。
 オートバイを放り捨てた青蜥蜴は、立ち上がるなり、チラリと脇の川の流れに目線を向ける。
 まさか、と雪森は息を呑んだ。
 大きく高く水飛沫が纏まって柱となる。
「しまった!」
 警官らは慌てて欄干から身を乗り出して、暗い川の流れに食い入った。電灯の光が到達しない川底で、真っ黒の衣装を身につけた賊の姿は最早判別不可能だ。
「畜生! 逃げられた!」
「青蜥蜴の野郎!」
「人質は無事か!」
「追いかけろ!」
「早く捜せ!」
 悔しがる怒号は、雪森まで届かない。
 青蜥蜴は雪森ごと、荒川の流れの中へと引き摺り込んだ。
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