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第11話 勇者、忘れたものを思い出す

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 俺は前世で過労死したが、治安の悪くて住民のレベルが低いとはいえ市役所勤務の公務員だ。
 長時間労働だの休日出勤だのはともかく、そこそこ良い職場環境だった。本物のブラック企業に勤めていたら毎日のように取引相手の靴を舐めることになっていただろうが、大抵の事は頭を下げれば許された。

 例外的に、後輩がとんでもないミスをして相手を怒らせているのに上司が煙草休憩に逃げ出して相手をするのがヒラの俺しかいない時や、業務後の飲み屋で先輩が喧嘩を始めて場を治める時には、込み上げて来る怒りと屈辱を堪えて膝を付いて頭を地面に擦り付けた経験もある。

 異世界で2度目の人生。俺は勇者になったのに。

 しかし、異世界でも土下座が通用すると判明した。これも一種の成功体験だ。
 今度エルカに教えてあげよう。


 +++++


 色々あったけれど、俺の首と胴体は繋がっているし、手足はちゃんと2本ずつ付いているし、皮膚を剥がされていないし、腹に穴は空いていないし、内臓は溶けていない。

 奇跡的にオグオンが事務所から帰って行くのを五体満足で見送ることができた翌日、俺は穏やかな心持ちで馬車で揺られていた。

 ホーリアからアウビリスまでは移動魔法で一瞬で着くが、そこから首都の端にある勇者養成校へは、下手に魔法を使って近付くと敵襲と間違われて生徒に返り討ちにされる。
 特に街付の勇者になるつもりの生徒達は、卒業後にいい街に配属されるように、授業の成績以外でも教師へ媚びを売る機会を逃さない。侵入者など猫の巣にヒヨコを放り込むようなものだ。
 今更後悔しても遅いけれど、俺もそういう所でポイントを稼いでおけば、ホーリアなどに飛ばされなかっただろうか。

「ニーア、アウビリス様って神様とか妖精とか、そういう存在だと思っていたんですよ。でも、実際に会ったら、人じゃないですか。まさかと思っていたんですけど、アウビリス様は……人間だったんですよ……」

 そうだな、と魔術書のページを捲りながら答えた。
 馬車で俺と向き合って座るニーアは、頭を抱えながら静かに語っていた。しかし、次の瞬間には顔を上げて俺のマントを引っ張りながら、震える声を漏らす。

「神様とかだったら、泣きながら拝んでも全然普通じゃないですか。でも、人間だったから、ちゃんとしなきゃって思って……ニーア、挨拶するつもりだったのに……アウビリス様にちゃんと魔法剣士してるところ、見てほしかったのに、全然出来なくてぇ……」

 ニーアの大きな緑の目がみるみる潤んで行く。
 残念だったな、と俺がハンカチを差し出すと、顔を埋めて肩を震わせて泣き出した。

 昨日、オグオンが帰ってから、ニーアはずっとこの調子だ。


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 必ず明日、養成校にライセンス証を取りに来い。
 オグオンにそう言われて、俺は残像が見えるくらいの速さで頷いた。
 腕を切り落とされてその手で取りに行けとか言われる可能性もあったから、足を使って遠足気分で行けるなんて、まるで奇跡のような、慈愛に満ちた提案だ。
 俺が広間の床に直に座っているというのに、その横で椅子に腰かけていたニーアは、オグオンの言葉を聞くと鞄から手帳を取り出してぺらぺらと捲った。そして、下手な演技で驚いたように立ち上がった。

「あ、あれー!?ニーア、偶然にも明日すっごく暇です!お休みもらおうかと思ってたくらい暇で、あーどうしようかなぁ……勇者様、良ければ、お供しますけど……?」

「明日は、魔法剣士の会合があるって言ってただろ」

「いえ、無いです」

「抜けられないから、絶対に呼ぶなって」

「嘘です」

 俺がニーアの手帳を覗こうとすると、ニーアは腰の双剣に手を掛けた。勇者の話になると、ニーアは手段を選ばない。
 俺は怪我をする前にニーアから離れた。

「いいじゃないか。一緒に来れば」

 いつでも女に甘いオグオンは、俺が平謝りしている間にニーアが淹れ直した紅茶に口を付けた。

「日帰りだし、2人が出かけても大丈夫だろう。そんなに不安なら、私がホーリアの代わりにこの街にいるか?」

 オグオンがカップの縁から射貫くような視線で俺を見下ろした。
 1日事務所にいられると、リリーナとコルダの化けの皮が剥がれて、俺の報告書がオグオンに読まれてしまう。
 そうなると俺はオグオンに両手足を縛られて谷底に落とされるかもしれない。養成校の時にオグオンを怒らせて、2回くらいそういう目に遭った。


 +++++


「あんなにびーびー泣いちゃって……本当に、恥ずかしい……絶対、気持ち悪がられるとか思ったんですけど……でも!アウビリス様、すごく優しくて、泣かないでって言ってくれたんですよ!」

 ハンカチから顔を上げたニーアは、今度は頬を赤くして俺の腕を掴んで振り回す。手に持った魔術書が飛ばされないように握り締めながら、良かったなと俺は頷いた。

「それに、ニーアの紅茶も飲んでいただけたし、ニーアの淹れた紅茶が、少しでもアウビリス様の血肉になれば……!いえ、そんな身の程知らずの事は望みませんけど!ああ……あのボロ事務所にいるのに、アウビリス様の周りだけ良い匂いがした……」

 ニーアは紅く染まった頬を両手で抑えて、恋する少女のようにアンニュイな溜息を吐く。気のせいだろうな、と俺は魔術書に目を向けたまま答えた。

「本当は、本当はサイン貰いたかったんですけど、頼めなくて……一生に一度のチャンスだったのに……でも、サイン貰ったら、何か、二度と会えないみたいじゃないですか……これが最初で最後みたいな気がしちゃって……!」

 ニーアは声を上げて泣き出して、ハンカチと間違えているのか掴んでいた俺のマントで涙を拭う。
 情緒不安定過ぎて、昨日からリリーナとコルダが遠巻きにしているくらいだ。本当はこんな危険な状態のニーアを連れて行きたくなかったが、俺が起きた時にはすでに俺の部屋にいて、出掛ける準備を終わらせていた。

「でも!首都にいるってことは、アウビリス様と同じ空気を吸ってるってことですよね……!あぁ、でもでも!事務所の空気もしばらくはアウビリス様の成分が残ってますよね?よね?!勇者様!!」

 そうかもな、と俺は興奮したニーアに揺すぶられたせいで馬車の外に吹っ飛んで行った本の代わりに、新しい魔術書をマントの下から取り出して開いた。

 俺は、恐ろしい事に気付いていた。
 養成校まであと数時間。2人きりで逃げ場はない。
 このテンションのニーアに、到着まで1人で付き合わなくてならない。
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