彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 口を開けば小言か若君の話しかしない中年男の困惑に極彩も怪訝さを露わにした。
「失礼したします。熱がおありでは」
 分厚い掌が下から伸ばされ、額に当たる。四六時中寄った眉間の皺が普段とは異なるものを帯びて蠢いた。
「最近夏風邪が……いや、この話は以前しましたな。いつも雰囲気が違って見えたゆえ。何卒無作法をお許しくだされ」
 数度適当に頷き、藤黄の脇を抜け廊下を進む。曲がり角で伸びてきた手に捕まれ引き摺り込まれる。扉が閉まった。
「素敵だよ。すごく綺麗だ」
 乱暴な力で両肩を鷲掴まれ強かに背を打つ。朽葉だ。朽葉が目の前に広がった。だが無機質な。無理矢理に感情を乗せようとした必死さがある。虚ろな双眸が光った。色町や先程声をかけてきた男たちと同じ、粘りついた光を差している。極彩であり、だが彼女ではないものを見据え、尋常ではない形相で覗き込まれた。よこしまな内面に侵されていくように口の端が吊り上がっている。
「天藍様?」
 若い権力者は肩を震わせた。驚いたらしかった。澄んだ瞳が女を映す。油断していたところを抱き寄せられ、身を包んだ他人の体温に強張る。宥めるつもりで慎重に天藍のしなやかな肉体から身体を離す。
「彩ちゃん」
「はい」
「……彩ちゃんだよね?」
「間違いなく」
「…はは…っオレの部屋、来なよ」
 何か誤魔化す笑いを伴い、片頬に冷たい掌が添えられた。意思に反し冷たい手の上に己の手を重ねた。肯定と受け取りかねない行動に極彩は自身の手を睨んだ。
「オレと寝られるの?」
 違う。言語ではない同意を撤回しようと美しい手の上から自身を引っ込めようとしたが遅かった。頬に添えられていた冷たく湿った手が擦り抜けられ、細く白い女の手を掴んだ。振り払うことも出来た。紅や紫暗のことが脳裏を過り、動きが止まる。
「他の男の匂いがするけど、誰だろうね?」
 襟巻を剥がされ、端整な顔面が胸元や首筋に近付いた。鼻を鳴らし、上目遣いで問う。「薄荷の匂いだ?」と愉快でいる。
「消してあげる。似合わないよ」
 上体を伸ばした青年に眉間の傷を舐められる。舌が辿ったところから疼き、痛みと化していく。もう一度皮膚を刃で抉られたのかと思うほどだった。身を捩るたび壁に強く押さえつけられまた身を捩る。傷が開いた、というよりも裂ける感じがあった。濡れているのか湿っているのかも分からない。
「自分は血生臭さで十分でございます」
 血飛沫を浴びた群青と並び愉悦に浸っていた光景が頭の中を駆け巡った。視界が明滅する。固唾を飲んだ。叫び出しそうだった。運ばれていった小さな身体も思い出し、それから腰にしがみついた少女の感触を覚え、咆哮の吐瀉を耐える。
「そうだね、おいで」
 後頭部を抱かれ、撫でられ、素肌や髪に唇が当てられる。啄まれ、食まれた。拒絶にのたうつだろう身体を抑えるのに必死だった。
「オレも血生臭くなっちゃったよ。毎日香を焚いてるんだ。少しは消えたかな?」
 囁きが耳元や項を彷徨う。柔らかく耳朶を口に含まれる。
「ねぇ、もう離れていかないだろ?」
 腰を引き寄せられ、転びそうになった。逃げ出す機会を狙って身を預けたが力強く支えられていた。泣きそうな顔と唇が近付く。顎を引く。
 仇みたいな人って、この人でしょ?
 制御の利かなくなった腕が反射的に天藍を突き飛ばす。紅はどうなる。紫暗は。縹のことも。この権力者に逆らうのは賢明ではない。屈しなければならない。即座に謝らねばならない。両の膝を折る。両手を床に付け頭を下げたが謝罪の言葉が出てこない。
 寝床まで走ったら?頑張りなよ。わたしいつでもしまってたでしょ?
 口を開くが声が出てこない。並べる決まりきった文句は分かっているというのに。喉が発声を拒んでいる。純白の短剣が眠る布団を敷いている畳の下。あそこまで走れば。追って来ることはないだろう。
 逃げるの?やっちゃいなよ。あのお人の仇を討った気にはなるんじゃない?
 顎を掬われる。軽蔑が見てとれた。床に爪を立てる。師を滅多刺しにしたのは紛れもなくこの男だ。
「その目、もっとちょうだいよ」
 黙っているしかなかった。言語は許されなかった。悲鳴だけしか。
「ほら立って。行こう?」
 床に着いた手を取り天藍は屈んで立ち上がらせる。誘いながら腕を引き、無防備な後姿を晒す。
 首の折り方は知ってるでしょ?
 実戦経験はない。殺意を煽られ芽生えていく。
 あのお人を酷い目に遭わせたのは誰?
 この男だ。間違いない。仇だ。死なせていい。殺していい。
「やっぱりその匂い、好きだよ」
 白梅だよね、季節外れだけど。ねぇ―
「―藍銅らんどう?」
 見返って女を見る、飄々とした普段の色が消え失せた幼い顔は朽葉との区別が難しかった。互いに虚をつかれた。掴んでいた腕が放される。恩人に酷似した唇が動いた。聞いたことがあるような、馴染みのない名を口にした。
「………なんてね。びっくりした?」
 嘘らしい笑みを貼り付けていた。
「貴人と婚前交渉はマズイよ。オレがバカだった」
 襟巻を拾うと扉を開いて退室を促す。
「晩夏だから…」
 そう呟いて天藍は極彩の前を塞ぎ、翡翠の襟巻を掛けられた、両端の長さを合わせ終えると肩を叩いた。
「彩ちゃんその浴衣、あんまり似合ってないよ」
 

 浴衣を脱ぎ、箱ごと洗濯場に届け、その足で地下牢へ寄った。暗く湿った通路に明かりが漏れている。空の椀が乗った膳が置かれ、紫暗はいなかった。紅は寝台の上に座り、極彩を見ると表情を曇らせる。驚かさないように、警戒されないように少しずつ歩み寄り、寝台の前に膝を着く。
「もう少しだけ待って。どうにかここから出せるようにするから」
 柔らかな頬に手を伸ばす。小さな身体は足を寝台から降ろして揺らしていた。無抵抗に極彩の指を受け入れる。その静けさは疑った。豹変し噛まれてしまいそうだった。噛まれても何ひとつ文句は言えない。
「もう少しで秋が来て、冬が来るから………花火、聞こえた?」
 少しずつ膝を伸ばし、抱き締めていく。肩に細い顎が乗り、首肯したのが感じられた。
「ごめんね。こんなところに押し込めて」
 金魚掬いで獲った金魚たちが紅と重なった。祭りの熱に中てられた気紛れに掬われ、小さな袋に押し込められ、どうなるのかも分からないまま連れていかれる。恐ろしかった。上手く育てられる気がしないでいた。幼い子供は喜んでいた。
 跳ねた髪を梳いて、背中を鼓動に合わせて叩いた。もう彼は幾つも年上の男ではないのだ。ずっと幼い子を寝かしつけるように接しなければならない。
「もう怖い目に遭わせないから」
 肉刺まめの痕と胼胝たこだらけの固い掌を弄んだ。
 きっと汚れていくよ、間違うよ。それでもいい?
「わたしが全部ぶち壊したんだから……だから待ってて。離れないでね。紅…」
 少し硬さのある毛先が頬や耳を叩いた。
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