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番外編
ユリアナ(3)
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その後女性によって医者――実際に診察を受けたことはなかったけれど、母がよく医者を呼んで薬を処方してもらっていたので存在は知っていた――が呼ばれ、ユリアナは一ヶ月の安静を命じられた。骨が折れているところはないものの傷が多くあり、癒す必要があるとかないとか。正直別のことに気を取られていて、それどころではなかった。彼と結婚できる、という事実が嬉しくて、幸せで、それ以外のことはどうでもよかったのだ。
そういうことで、ユリアナは大人しくベッドの上で過ごした。けれどそれではあまりにも暇であるから、「未来の奥様なのですから!」と、女性――ヘレナと名乗った――に言われ、多くの知識を教えられることになった。たとえばここはユリアナの家よりも大きい〝屋敷〟で、彼女は侍女で、屋敷の主人であるリナを支えるのが仕事だとか、この部屋には入ってこないけれども他にも使用人という存在がいて、屋敷の掃除をしたりしているのだとか。その使用人を束ね、主がいないとき屋敷を取り仕切る存在を執事といい、この屋敷ではブルーノと呼ばれる初老の男性らしい。どうやらユリアナがここに来る前に見たブライアン――ちなみに彼はリナ様の従者で、身の回りの世話をする人物だと言っていた――の父親だとのこと。
それらをユリアナは必死に吸収した。リナの未来の妻になるために必要なことなら、いくらでも頑張れた。
けれど、そのやる気も二週間しか続かなかった。別に、覚えることが苦痛になったとか、そういうわけではない。
ただ、リナのためにやっていることなのに、その彼に一切会うことができず、寂しかったのだ。
会ったのは、ここに連れて来たときの一回きり。彼のことが好きで、頑張っているのに……会えないのは辛かった。
だから、ヘレナに、リナに会わせてほしいと頼んだのだが。
「旦那様はお忙しい方なので……」
そう言って、彼女は作り笑いを浮かべた。眉が下がっていたから、おそらく何か不都合なことがあるのだろう。ではそれは何? もしかして彼が私のことを嫌ってしまった? それとも彼の身になにか? そんな不安が日に日に膨らんでいく。そしてそれは常に心の片隅を占めていて、いつの間にかよくうわの空でいることが多くなった。教えてもらうことにも身が入らず、ただぼうっと話を聞き流すだけ。
そんなころだった。かの人物が訪れたのは。
ある日、ヘレナが食事をとりに部屋から出ていくと――どうやら使用人は主人の前でご飯を食べてはいけないのだとか。ユリアナは気にしないと言ったのだが、彼女は頑なに拒否して頷いてくれなかった――、コンコン、と扉が叩かれた。ユリアナの頭は途端に混乱に包まれる。今までヘレナがいないときに誰かが訪れたことなど一度もなく、しかも誰かが訪れると決まって彼女はその人物を部屋に入れず、自らが外に出て対応していた。まるでユリアナのことを知られてはまずい、とでも言うように。だから今ここで返事でもしたら、ヘレナの意にそぐわないことをしてしまうのではないだろうか。だけど、もしそんな必要なかったら、訪ねてきた人物を廊下で待たせたままにするのは申し訳ないような気がする。
どうするのが正しいのか分からず、困惑していると、突然扉が開けられた。入って来たのは背の高い、黒髪の男性――ユリアナがここに連れてこられた夜にもいた、ブライアンだった。彼はあの夜と同じように、こちらに視線を向けた途端、蔑むような色を見せた。母によく向けられていた瞳。体が強ばる。
ピン、と張りつめたような緊張感が部屋に満ちた。ブライアンは後ろ手に扉を閉めると、じっとこちらを見つめてくる。一瞬たりとも視線を逸らさない、というような固い意志を感じた。
ふと、思う。
(どうして、こんなにも嫌われているのかしら……?)
彼はまるで路地裏に落ちた汚泥でも見るような目で見てくるが、ユリアナには、そんな目で見られる理由が全く分からなかった。ただ言われた通りにしているだけ。何か嫌われる要素があるのだろうか?
そんなことを考えている間もブライアンは目を逸らさず、こちらを見つめ、時間が過ぎる。果たしてどれだけ経っただろうか。長く、重たい沈黙を破ったのは、二人のどちらでもなく、扉の開く音だった。
「奥様、ただいま戻り――まぁ! ブライアン! どうしてここにいるのよ! この部屋には私以外誰も入ってはならないと――」
食事から戻ってきたヘレナが扉を開け、叫んだ。どうやらこの部屋にはヘレナ以外入ってはいけなかったらしい。だから彼女は誰も入れなかったのね、とユリアナが納得していると、ブライアンが怒りを露わにして叫んだ。
「ヘレナ、今すぐこの女を追い出せ! 何が〝奥様〟だ! こんな、平民が、リウカマー侯爵夫人になるだと? そんなのあってはならない!」
――平民。その言葉は、ここに来てからヘレナに教えられていた。この国では大まかに分けて三つの階級があり、上から王族、貴族、平民となっているらしい。そしてリナことリウカマー侯爵は貴族階級のほぼ頂点に位置するのだとか。そのときヘレナに「私って何の身分だったか分かる?」と尋ねると、曖昧な微笑みしか返ってこなかったから、少なくとも彼につりあう身分ではないと思っていたが……どうやらユリアナは平民らしかった。それならブライアンが蔑んだ目で見てくるのにも頷ける。平民が貴族と関わることなど許されることではないからだ。ましてや、侯爵夫人だなんて。
ヘレナが口を開いた。
「でも旦那様が――」
すると、ブライアンは目をよりいっそう吊り上げた。関わりの薄いユリアナでも、彼の逆鱗に触れてしまったことが分かった。思わず体を縮こまらせる。
そして、彼は叫んだ。
「あんな頭のイカれたやつを、俺はリウカマー侯爵だなんて認めない! あいつはただの中継ぎだ。侯爵家の恥さらしめ」
「ブライアン!」
ヘレナが咎めるように怒鳴った。けれども彼自身は全く悪びれる様子なく、ふんっ、と鼻を鳴らし、ユリアナの方を見て嘲笑する。
「そもそもこんな平民に夫人の仕事を教えたところで、理解できないのがオチだ。ヘレナ、おまえもあんな〝できそこない〟の命令に従う必要はない。いつまで幻想に浸っているんだ」
その言葉を聞いて、彼女が息を呑んだのが分かった。表情を窺えば、心なしか青白く、目が泳いでいる。ユリアナには何が何だか分からないが、ブライアンの放った言葉が、彼女の心を動揺させたらしい。首を傾げた。分からないことだらけ。
そんな彼女の様子に、ブライアンは満足げに笑うとさっさと歩き始めた。彼女の横を通り過ぎ、扉から部屋を出る。キィ、と、扉の軋む音がやけに大きく聞こえた。
……沈黙が訪れる。「ヘレナ」と呼びかけた。
「大丈夫?」
のろのろと首を動かして、彼女がこちらを向いた。そしてぎこちない笑みを浮かべ、「ええ」と頷く。だけどその顔色は青白く、本当ではないのは明らかだった。
どうしよう、と考える。ヘレナは今までずっと傍にいてくれた。色々なことを教えてくれたりした。だからどうにかして元気づけたいけれど、彼女のことをあまり多くは知らないから、いったい何をすればいいのか分からなかった。
うんうんと心の中で唸っていると、ふと、気づいた。先ほど、ブライアンはユリアナに侯爵夫人の仕事を教えたところで意味ないと言っていた。だったら、ユリアナがきちんとすれば、彼女も喜んでくれるのではないだろうか。
「ヘレナ」と呼びかける。
「私、もっとちゃんと勉強頑張るわ。それこそ、ちゃんと侯爵夫人になれるくらい。だから、ね、元気出して?」
すると、彼女はくしゃ、と顔を歪めた。嬉しそうで、悲しそうで、よく分からない表情だった。
――そして、五年の月日が経った。
***
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そういうことで、ユリアナは大人しくベッドの上で過ごした。けれどそれではあまりにも暇であるから、「未来の奥様なのですから!」と、女性――ヘレナと名乗った――に言われ、多くの知識を教えられることになった。たとえばここはユリアナの家よりも大きい〝屋敷〟で、彼女は侍女で、屋敷の主人であるリナを支えるのが仕事だとか、この部屋には入ってこないけれども他にも使用人という存在がいて、屋敷の掃除をしたりしているのだとか。その使用人を束ね、主がいないとき屋敷を取り仕切る存在を執事といい、この屋敷ではブルーノと呼ばれる初老の男性らしい。どうやらユリアナがここに来る前に見たブライアン――ちなみに彼はリナ様の従者で、身の回りの世話をする人物だと言っていた――の父親だとのこと。
それらをユリアナは必死に吸収した。リナの未来の妻になるために必要なことなら、いくらでも頑張れた。
けれど、そのやる気も二週間しか続かなかった。別に、覚えることが苦痛になったとか、そういうわけではない。
ただ、リナのためにやっていることなのに、その彼に一切会うことができず、寂しかったのだ。
会ったのは、ここに連れて来たときの一回きり。彼のことが好きで、頑張っているのに……会えないのは辛かった。
だから、ヘレナに、リナに会わせてほしいと頼んだのだが。
「旦那様はお忙しい方なので……」
そう言って、彼女は作り笑いを浮かべた。眉が下がっていたから、おそらく何か不都合なことがあるのだろう。ではそれは何? もしかして彼が私のことを嫌ってしまった? それとも彼の身になにか? そんな不安が日に日に膨らんでいく。そしてそれは常に心の片隅を占めていて、いつの間にかよくうわの空でいることが多くなった。教えてもらうことにも身が入らず、ただぼうっと話を聞き流すだけ。
そんなころだった。かの人物が訪れたのは。
ある日、ヘレナが食事をとりに部屋から出ていくと――どうやら使用人は主人の前でご飯を食べてはいけないのだとか。ユリアナは気にしないと言ったのだが、彼女は頑なに拒否して頷いてくれなかった――、コンコン、と扉が叩かれた。ユリアナの頭は途端に混乱に包まれる。今までヘレナがいないときに誰かが訪れたことなど一度もなく、しかも誰かが訪れると決まって彼女はその人物を部屋に入れず、自らが外に出て対応していた。まるでユリアナのことを知られてはまずい、とでも言うように。だから今ここで返事でもしたら、ヘレナの意にそぐわないことをしてしまうのではないだろうか。だけど、もしそんな必要なかったら、訪ねてきた人物を廊下で待たせたままにするのは申し訳ないような気がする。
どうするのが正しいのか分からず、困惑していると、突然扉が開けられた。入って来たのは背の高い、黒髪の男性――ユリアナがここに連れてこられた夜にもいた、ブライアンだった。彼はあの夜と同じように、こちらに視線を向けた途端、蔑むような色を見せた。母によく向けられていた瞳。体が強ばる。
ピン、と張りつめたような緊張感が部屋に満ちた。ブライアンは後ろ手に扉を閉めると、じっとこちらを見つめてくる。一瞬たりとも視線を逸らさない、というような固い意志を感じた。
ふと、思う。
(どうして、こんなにも嫌われているのかしら……?)
彼はまるで路地裏に落ちた汚泥でも見るような目で見てくるが、ユリアナには、そんな目で見られる理由が全く分からなかった。ただ言われた通りにしているだけ。何か嫌われる要素があるのだろうか?
そんなことを考えている間もブライアンは目を逸らさず、こちらを見つめ、時間が過ぎる。果たしてどれだけ経っただろうか。長く、重たい沈黙を破ったのは、二人のどちらでもなく、扉の開く音だった。
「奥様、ただいま戻り――まぁ! ブライアン! どうしてここにいるのよ! この部屋には私以外誰も入ってはならないと――」
食事から戻ってきたヘレナが扉を開け、叫んだ。どうやらこの部屋にはヘレナ以外入ってはいけなかったらしい。だから彼女は誰も入れなかったのね、とユリアナが納得していると、ブライアンが怒りを露わにして叫んだ。
「ヘレナ、今すぐこの女を追い出せ! 何が〝奥様〟だ! こんな、平民が、リウカマー侯爵夫人になるだと? そんなのあってはならない!」
――平民。その言葉は、ここに来てからヘレナに教えられていた。この国では大まかに分けて三つの階級があり、上から王族、貴族、平民となっているらしい。そしてリナことリウカマー侯爵は貴族階級のほぼ頂点に位置するのだとか。そのときヘレナに「私って何の身分だったか分かる?」と尋ねると、曖昧な微笑みしか返ってこなかったから、少なくとも彼につりあう身分ではないと思っていたが……どうやらユリアナは平民らしかった。それならブライアンが蔑んだ目で見てくるのにも頷ける。平民が貴族と関わることなど許されることではないからだ。ましてや、侯爵夫人だなんて。
ヘレナが口を開いた。
「でも旦那様が――」
すると、ブライアンは目をよりいっそう吊り上げた。関わりの薄いユリアナでも、彼の逆鱗に触れてしまったことが分かった。思わず体を縮こまらせる。
そして、彼は叫んだ。
「あんな頭のイカれたやつを、俺はリウカマー侯爵だなんて認めない! あいつはただの中継ぎだ。侯爵家の恥さらしめ」
「ブライアン!」
ヘレナが咎めるように怒鳴った。けれども彼自身は全く悪びれる様子なく、ふんっ、と鼻を鳴らし、ユリアナの方を見て嘲笑する。
「そもそもこんな平民に夫人の仕事を教えたところで、理解できないのがオチだ。ヘレナ、おまえもあんな〝できそこない〟の命令に従う必要はない。いつまで幻想に浸っているんだ」
その言葉を聞いて、彼女が息を呑んだのが分かった。表情を窺えば、心なしか青白く、目が泳いでいる。ユリアナには何が何だか分からないが、ブライアンの放った言葉が、彼女の心を動揺させたらしい。首を傾げた。分からないことだらけ。
そんな彼女の様子に、ブライアンは満足げに笑うとさっさと歩き始めた。彼女の横を通り過ぎ、扉から部屋を出る。キィ、と、扉の軋む音がやけに大きく聞こえた。
……沈黙が訪れる。「ヘレナ」と呼びかけた。
「大丈夫?」
のろのろと首を動かして、彼女がこちらを向いた。そしてぎこちない笑みを浮かべ、「ええ」と頷く。だけどその顔色は青白く、本当ではないのは明らかだった。
どうしよう、と考える。ヘレナは今までずっと傍にいてくれた。色々なことを教えてくれたりした。だからどうにかして元気づけたいけれど、彼女のことをあまり多くは知らないから、いったい何をすればいいのか分からなかった。
うんうんと心の中で唸っていると、ふと、気づいた。先ほど、ブライアンはユリアナに侯爵夫人の仕事を教えたところで意味ないと言っていた。だったら、ユリアナがきちんとすれば、彼女も喜んでくれるのではないだろうか。
「ヘレナ」と呼びかける。
「私、もっとちゃんと勉強頑張るわ。それこそ、ちゃんと侯爵夫人になれるくらい。だから、ね、元気出して?」
すると、彼女はくしゃ、と顔を歪めた。嬉しそうで、悲しそうで、よく分からない表情だった。
――そして、五年の月日が経った。
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