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第一章
第2話
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スフィーナの実母であるサナは、使用人たちも人払いをして、スフィーナにだけこっそりと教えていた文字があった。
それがサナが生まれた国『ニホン』のカタカナという文字だった。
五十個の文字は直線ばかりで、記号みたいで覚えるのも楽しかった。
『私達の秘密の暗号にしましょう』
そう言っていたずらっぽく笑った母と共通の企みができたことが嬉しくて、スフィーナは懸命に覚えた。
それで何度か手紙をやり取りをして遊んだこともある。
だけどそれらはすぐに燃やした。
誰にも秘密の遊びだった。
もうすっかり忘れてしまったと思ったが、紙きれを手に取り眺めてみれば、おおよその意味はわかった。
『この指輪は私が見知らぬ異世界でもやっていけるようにと女神さまが加護を与えてくださったもの。きっとあなたを助けてくれるわ。
いとしいスフィーナへ、愛を込めて』
スフィーナは秘密のやり取りをしていた手紙を思い出した。
サナはここではない世界、異世界から来たのだと書いていたことがあった。
そこではココノエサナという名前で、誰もが貴族のように学校に通っていて、通学中に大きな穴に呑まれてこの世界に落ちてきたのだと。
偶然の事故であったが、女神にも世界を逆行させることはできなかった。
憐れんだ女神は、代わりに指輪を与えてくれた。
そんな話はスフィーナを楽しませるためにサナが考えた作り話なのだろうと思っていた。
ねえ、本当なの? と服の裾を掴んでわくわくと見上げたスフィーナに、いたずらっぽい目を向けて、しぃっと人差し指を立てていたから。
時折どこか寂しげに遠くを見ていたあの目は、今はもう戻れない遥か遠くの異国を懐かしんでいたのかもしれない。
本当の話なのか、サナがスフィーナのために語り聞かせてくれた物語なのかはわからないが、女神と母とに見守られているのだと思えば、心が温まっていくのを感じた。
母の形見はほとんど残されていなかった。
宝飾品の類は全て義母のものになってしまったし、背が小さく華奢だった母のドレスはサイズが合わないからとすべて処分された。
スフィーナの手元には何も残らず、胸にあるわずかな思い出だけだったから、こうして母の遺してくれたものに触れられたことが何よりも嬉しかった。
「お母様……。ありがとう」
涙を拭うスフィーナを心配そうに窺いながら、アンナが手紙と指輪とを見比べた。
「スフィーナ様。そちらはサナ様の形見だったのですか?」
「ええ。だけど、これを見たことはどうか口外しないでちょうだい。この文字は私とお母様の、秘密の暗号なの」
「わかりました。でも、偶然にも荷物に紛れて残っていて、本当によかったですね」
偶然、とはスフィーナには思えなかった。
何かを察していた母が自分の物とは別の場所にこうして隠しておいたのではないか。
敢えて木箱にぞんざいに入れることで、たいしたものではないのだと義母の興味を失わせるように。
そうして大事な指輪だからこそ、ずっと嵌めていたのにある時外しておいたのではないか。この指輪を守れるように。
スフィーナは指を広げ、右手の小指に嵌められた銀の指輪を眺めた。
それから左手でそっとそれを覆った。
きっとこの指輪ならミリーが欲しがることもないだろう。
スフィーナ以外には何の価値もない、ただの傷ついた指輪にしか見えないだろうから。
その時、窓をコンコンと叩く者があった。
幼馴染であり、婚約者のグレイグだった。
「グレイグ!」
スフィーナが駆け寄り慌てて窓を開けると、グレイグはその長身を屈めてひょいっと器用に窓からその身を滑り込ませた。
床に降り立つと、銀色の髪がさらりと揺れる。
黙っていれば冷たくも見える整った顔立ちのグレイグは、外目には王子のようであったが、剣を持たせれば同年代では右に出る者はいなかった。
現在も学生の身でありながら騎士団に見習い騎士として属しており、将来は騎士団長にもなるだろうと目されている。
「グレイグ様、またそのようなところからお出でになって……! 奥様に見つかったらまた面倒なことになりますよ」
「外には今誰もいないし、誰にも見られてないから心配はいらん」
慌てるアンナにひらひらと手を振り、こげ茶色の瞳をいたずらそうに笑ませたグレイグは、無遠慮にずかずかと入り込んできた。
「グレイグ、帰ったんじゃなかったの?」
毎日学院からの帰りはグレイグが馬車で送ってくれる。
今日も馬車を降りたところで手を振って別れたはずなのだが。
「庭師のウィルとたまたま会って話してたら、何やらまた何かあったと聞いてな。どんなものかと様子を見に来たんだが」
そう言ってグレイグはまだ隅に荷物の積まれた部屋をぐるりと見回し、あっけらかんと笑った。
「まるで秘密基地だな。何か面白いものでも出てきそうだし、これは暇つぶしにいい。俺も発掘に付き合いたいくらいだな」
面白がっていることがわかる口ぶりに、アンナはむっと視線を尖らせた。
「グレイグ様。秘密基地というのは本拠地があってこそのものです。スフィーナ様はこの物置部屋を本拠地とさせられたんですよ? 何が楽しいことがありますか!」
「まあ、ごもっともだな。だが見たところスフィーナも悪い顔はしていないぞ」
言われて、慣れたやり取りを続ける二人を見守っていたスフィーナはふふっと笑った。
「ええ。もう宝物も見つけてしまったの。お義母さまには感謝しているくらいよ」
そう言って右手の小指をそっと撫でた。
「ん? 指輪か。男にもらったんじゃないだろうな」
わかりやすく嫉妬の言葉を向けるグレイグに、アンナの前でもあり気恥ずかしくなったスフィーナは、赤らみかけた頬を隠すようにやや俯いた。
「そんなわけないってわかってるくせに。この部屋の隅に、忘れられたみたいに置かれていたのよ。お母様の手紙も一緒に入っていたわ。やっと形見と呼べるものを手にできたの」
「そうか、ならよかったな。探せばまだ掘り出し物があるかもなあ」
子供かと思うほどに楽しそうなグレイグに、スフィーナは笑いが込み上げた。
寝られればいいと思っていた部屋だが、ここで過ごすことが楽しみになってくるのだからグレイグはすごい。
グレイグはずっとスフィーナの味方だ。
子供の頃からずっと。
そんなグレイグが婚約者に決まったのは、スフィーナにとっては最も幸運なことだったかもしれない。
しかしこんな楽しそうな姿を見せるのは、スフィーナの前でだけだ。
唐突に部屋のドアがノックされ、スフィーナは慌ててグレイグを外に逃がそうとした。
しかし応えるよりも前にドアはガチャリと開けられた。
使用人はこんな無礼なことはしない。
ドアからひょいっと頭を覗かせたのは、くるくるでふわふわの赤毛。
橙色の瞳をきょろきょろとさせて部屋を見回したのは、スフィーナの義妹、ミリーだった。
それがサナが生まれた国『ニホン』のカタカナという文字だった。
五十個の文字は直線ばかりで、記号みたいで覚えるのも楽しかった。
『私達の秘密の暗号にしましょう』
そう言っていたずらっぽく笑った母と共通の企みができたことが嬉しくて、スフィーナは懸命に覚えた。
それで何度か手紙をやり取りをして遊んだこともある。
だけどそれらはすぐに燃やした。
誰にも秘密の遊びだった。
もうすっかり忘れてしまったと思ったが、紙きれを手に取り眺めてみれば、おおよその意味はわかった。
『この指輪は私が見知らぬ異世界でもやっていけるようにと女神さまが加護を与えてくださったもの。きっとあなたを助けてくれるわ。
いとしいスフィーナへ、愛を込めて』
スフィーナは秘密のやり取りをしていた手紙を思い出した。
サナはここではない世界、異世界から来たのだと書いていたことがあった。
そこではココノエサナという名前で、誰もが貴族のように学校に通っていて、通学中に大きな穴に呑まれてこの世界に落ちてきたのだと。
偶然の事故であったが、女神にも世界を逆行させることはできなかった。
憐れんだ女神は、代わりに指輪を与えてくれた。
そんな話はスフィーナを楽しませるためにサナが考えた作り話なのだろうと思っていた。
ねえ、本当なの? と服の裾を掴んでわくわくと見上げたスフィーナに、いたずらっぽい目を向けて、しぃっと人差し指を立てていたから。
時折どこか寂しげに遠くを見ていたあの目は、今はもう戻れない遥か遠くの異国を懐かしんでいたのかもしれない。
本当の話なのか、サナがスフィーナのために語り聞かせてくれた物語なのかはわからないが、女神と母とに見守られているのだと思えば、心が温まっていくのを感じた。
母の形見はほとんど残されていなかった。
宝飾品の類は全て義母のものになってしまったし、背が小さく華奢だった母のドレスはサイズが合わないからとすべて処分された。
スフィーナの手元には何も残らず、胸にあるわずかな思い出だけだったから、こうして母の遺してくれたものに触れられたことが何よりも嬉しかった。
「お母様……。ありがとう」
涙を拭うスフィーナを心配そうに窺いながら、アンナが手紙と指輪とを見比べた。
「スフィーナ様。そちらはサナ様の形見だったのですか?」
「ええ。だけど、これを見たことはどうか口外しないでちょうだい。この文字は私とお母様の、秘密の暗号なの」
「わかりました。でも、偶然にも荷物に紛れて残っていて、本当によかったですね」
偶然、とはスフィーナには思えなかった。
何かを察していた母が自分の物とは別の場所にこうして隠しておいたのではないか。
敢えて木箱にぞんざいに入れることで、たいしたものではないのだと義母の興味を失わせるように。
そうして大事な指輪だからこそ、ずっと嵌めていたのにある時外しておいたのではないか。この指輪を守れるように。
スフィーナは指を広げ、右手の小指に嵌められた銀の指輪を眺めた。
それから左手でそっとそれを覆った。
きっとこの指輪ならミリーが欲しがることもないだろう。
スフィーナ以外には何の価値もない、ただの傷ついた指輪にしか見えないだろうから。
その時、窓をコンコンと叩く者があった。
幼馴染であり、婚約者のグレイグだった。
「グレイグ!」
スフィーナが駆け寄り慌てて窓を開けると、グレイグはその長身を屈めてひょいっと器用に窓からその身を滑り込ませた。
床に降り立つと、銀色の髪がさらりと揺れる。
黙っていれば冷たくも見える整った顔立ちのグレイグは、外目には王子のようであったが、剣を持たせれば同年代では右に出る者はいなかった。
現在も学生の身でありながら騎士団に見習い騎士として属しており、将来は騎士団長にもなるだろうと目されている。
「グレイグ様、またそのようなところからお出でになって……! 奥様に見つかったらまた面倒なことになりますよ」
「外には今誰もいないし、誰にも見られてないから心配はいらん」
慌てるアンナにひらひらと手を振り、こげ茶色の瞳をいたずらそうに笑ませたグレイグは、無遠慮にずかずかと入り込んできた。
「グレイグ、帰ったんじゃなかったの?」
毎日学院からの帰りはグレイグが馬車で送ってくれる。
今日も馬車を降りたところで手を振って別れたはずなのだが。
「庭師のウィルとたまたま会って話してたら、何やらまた何かあったと聞いてな。どんなものかと様子を見に来たんだが」
そう言ってグレイグはまだ隅に荷物の積まれた部屋をぐるりと見回し、あっけらかんと笑った。
「まるで秘密基地だな。何か面白いものでも出てきそうだし、これは暇つぶしにいい。俺も発掘に付き合いたいくらいだな」
面白がっていることがわかる口ぶりに、アンナはむっと視線を尖らせた。
「グレイグ様。秘密基地というのは本拠地があってこそのものです。スフィーナ様はこの物置部屋を本拠地とさせられたんですよ? 何が楽しいことがありますか!」
「まあ、ごもっともだな。だが見たところスフィーナも悪い顔はしていないぞ」
言われて、慣れたやり取りを続ける二人を見守っていたスフィーナはふふっと笑った。
「ええ。もう宝物も見つけてしまったの。お義母さまには感謝しているくらいよ」
そう言って右手の小指をそっと撫でた。
「ん? 指輪か。男にもらったんじゃないだろうな」
わかりやすく嫉妬の言葉を向けるグレイグに、アンナの前でもあり気恥ずかしくなったスフィーナは、赤らみかけた頬を隠すようにやや俯いた。
「そんなわけないってわかってるくせに。この部屋の隅に、忘れられたみたいに置かれていたのよ。お母様の手紙も一緒に入っていたわ。やっと形見と呼べるものを手にできたの」
「そうか、ならよかったな。探せばまだ掘り出し物があるかもなあ」
子供かと思うほどに楽しそうなグレイグに、スフィーナは笑いが込み上げた。
寝られればいいと思っていた部屋だが、ここで過ごすことが楽しみになってくるのだからグレイグはすごい。
グレイグはずっとスフィーナの味方だ。
子供の頃からずっと。
そんなグレイグが婚約者に決まったのは、スフィーナにとっては最も幸運なことだったかもしれない。
しかしこんな楽しそうな姿を見せるのは、スフィーナの前でだけだ。
唐突に部屋のドアがノックされ、スフィーナは慌ててグレイグを外に逃がそうとした。
しかし応えるよりも前にドアはガチャリと開けられた。
使用人はこんな無礼なことはしない。
ドアからひょいっと頭を覗かせたのは、くるくるでふわふわの赤毛。
橙色の瞳をきょろきょろとさせて部屋を見回したのは、スフィーナの義妹、ミリーだった。
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