守るべきモノ

神崎

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 もう二人で通勤してもほかの店員にとがめられることはない。泉はそう思いながら、ブラウスに袖を通す。そして着替えを終えると、書店側の店長と礼二が何か話をしていた。
「人が足りないんだよな。ほら、月刊漫画雑誌の増刷もあって、俺も今日で六連謹だよ。」
「明日休みでしょ?」
「明日は休みでもさぁ、結局こっち来てるし。」
 書店側の店長の手には退職届が握られている。バイトが辞めたらしい。書店の店員というのは、呑気にしてそうに見えて案外肉体労働だ。本によっては相当重いものもあるし、人気のあるものはすぐに品切れをして店頭に置かないといけない。本は毎日のように積み込まれるし、その仕訳も大変なのだ。
 泉は当初その書店側にいて、担当はコミックだった。コミックは人気のあるものは回転して一時間で店頭から消える。だから何度も何度もバックヤードと店頭を往復していた。おかげで泉のひょろひょろの腕は、一ヶ月もしたら逞しくなりシャツのサイズがことごとく合わなくなったのを覚えている。
 今はカフェ部門でもデザートを作るのに、種を作り上げる作業で腕が更に逞しくなっていた。血管安治が浮いているのを見て、礼二は「男らしい」とからかうように言っていたのを覚えている。
「阿川さんを午前中だけでもこっちに呼べないかな。」
「阿川さんをですか?そしたらこっち一人になりますけど。」
「午前中は割とそっちゆっくりしてるんだろう?俺が休みの時だけで良いから。」
 元々泉は書店側の人間だ。ヘルプでカフェ部門にいるだけだし、それは「駄目です」とは言い辛いだろう。
「んー。」
「そりゃ、四六時中一緒にいたいのはわかるけどさ。」
 礼二と泉がつきあっているのはこの店の人なら誰でも知っている。書店の店長もそれをわかって言っているのだ。
「阿川さん。どう?午前中だけ書店に帰るの。」
 誤魔化すように礼二が聞いてくる。すると泉はうなづいた。
「かまいませんよ。店長がきつくなければ。」
「おっ。だったらそうしてくれる?」
 嬉しそうに書店側の店長が反応した。だが礼二は少し首を傾げる。
「是沢さんどうするの?」
「あぁ……。」
 午前中に来る客で毎日来るわけではない老人だった。泉の入れたコーヒーをとても気に入っていて、それが唯一の娯楽だと言っていた。
「阿川さんはどっちみちここを離れるんだろうし、そういうお客様にも店長が対応しないとね。」
 書店の店長は機嫌が良さそうに、泉の肩をぽんとたたく。
「俺が休みの時だけで良いよ。明日休みなんだ。で、社員の原口さんが昼から来るから。」
「引継をすればいいですね。」
「そう言うこと。」
 納得して二人は二階に上がっていく。泉はこもった空気を逃すように、カーテンと窓を開ける。礼二もカウンターにはいると電気をつけた。身を切るような風が吹き込んでくる。夕べの雪が嘘のように晴れ渡った空だ。だが道路は雪の影響で少し濡れている。凍らなかっただけましだろう。
「書店に行くの嬉しい?」
 カウンターに入ってきた泉に、礼二はそう聞くと泉は笑顔を押さえきれなかった。
「ずっと書店に戻りたかったんですけどね。」
「でもこれから書店は厳しいだろう。開発部でも、高柳さんの所でも、書店とは縁が遠いし。」
「最後でしょうね。きっと。」
 裏の倉庫から掃除機を取り出して表に出る。夜の間に溜まった埃を吸い取るためだ。
 泉は結局夕べのうちにどちらに行くのかということを決めきれなかった。ただ礼二は「高柳さんの所へ行っても、開発部に行っても、俺らの関係は変わらない」と言ってくれたのが嬉しいと思う。
 ただこのまま高柳鈴音の所へ行ったら、礼二の立場は危うくなるかもしれない。それだけは心残りだった。礼二は何かあれば地方にとばされる。きっと今までのように気軽に会える関係ではなくなるだろう。
 自分の決断で礼二のことも決まってしまうかもしれないと思うと、どうしても後込みをしてしまうのだ。
 掃除機をかけ終わり、テーブルを拭いていると甘い良い匂いがした。パウンドケーキが焼けてきた匂いだ。礼二はその間に、コーヒー豆を挽いている。ブレンドの味を見るためだ。
 そのとき階下から誰かあがってくる音がした。もう書店はあいている時間だが、カフェはまだ開店前だ。止めようとして泉はその階段の前で客を迎える。
「申し訳ございません。まだこちらは開店前で……。」
 その人の姿に、礼二は思わず手を止めてカウンターを出てきた。
「社長。」
 社長と呼ばれた男は、細身の中年の男だった。鼻の下に髭を蓄えている。
「川村店長。たまにはこっちに来てみたけれど、どう?調子は。」
「今のところは前年を越えてます。」
「そう……。じゃあ、コーヒーをもらえるかな。彼女が淹れて。」
 初めて会う人だった。と言うのも、泉はこの人にあってこの店に入ったわけではないので、会うこともなかったのだ。
「あ……私ですか。」
「阿川泉さんって君だろう。開発部の山崎部長が、君に本社勤務してほしいと言ってきてね。」
「はぁ……。」
「今開発部にも顔を出している?」
「言われたんで。」
 そう言って泉は、カウンターに入る。手を洗って消毒をすると、湯を沸かす為にケトルにお湯を注ぐ。いったん沸かして少し冷ましたお湯がコーヒーに適しているのだ。
 その間礼二がカウンターを出て泉が拭きかけていたテーブルを拭いていく。社長は泉のコーヒーを飲みたいと言っているのだ。礼二は黙ってそのいすやテーブルを拭いていく。
 カウンター席に座る前にトレンチコートとマフラーをいすに置くと、泉の所作をじっと社長は見ていた。その行動は、昔あのバリスタの講習の時に口添えをしたあの女性によく似ている。そう思って思わず笑みが出てくる。
「何ですか?」
「いいや。良く慣れているなと思う。ここに来て何年だろうか。」
「えっと……三年目……いや、四年目になりますか。」
「四年も淹れていたらそれは慣れるだろう。だが、ほかの所で淹れることも経験としては必要だと思う。うちのコーヒーを監修してくれた女性は、土地を買えてもその土地にあった豆、焙煎、入れ方を工夫して最高のコーヒーを淹れていた。」
「はぁ。」
「こだわりはないかな。」
「少なくとも飲み物なので、喉が潤えばいいと言うものではありませんね。コーヒーや紅茶は嗜好品です。かといってインスタントと変わりなければ、値段にあったものをみなさん選ぶでしょう。ここではないといけないものを淹れるから、対価を得られると思いますが。」
「その通りだ。」
 機嫌が良さそうに社長は泉と話をしている。割と気むずかしい人だ。それにこの人が気に入らないと言えばすぐに地方にとばされるだろう。つまり退職を促されるのだ。
 少なくとも泉は気に入られている方だ。
「どうぞ。」
 コーヒーを淹れて、カップに注ぐ。そして社長の前に置いた。まだ味見をする前のものだ。自信がないわけではないが、緊張するのは礼二の方でこのときに「作り直せ」と言われることもある。
「うん……おいしいな。若干深入りな気がするが、ここはデザートは良く出るのか。」
「注文される方は多いです。一番売れるのは、ケーキセットですね。」
「ケーキセットで六百円。文庫本なら一冊買える値段だ。」
 パウンドケーキはもう焼けて、今冷ましている。今はカップケーキを焼いているのだ。さっき入れたばかりでもう少し時間はかかるだろう。
「コーヒーと一緒にデザートに良く合うようにできています。特にチョコレートとは相性が良いようですね。」
「チョコレートは味が濃い。深入りではないと、チョコレートに負けてしまうから少し深入りにしているのか。うん……これは川村店長が?」
「はい。」
「良い舌を持っている。やはり川村店長は、ここに在籍した方が良いようだ。」
 その言葉に泉は少しほっとした。これで礼二が移動することはないだろう。
「阿川さんは移動するのか。」
「開発部へ来ないかと言われていますが……私は書店の方にまだ籍があって……。」
「これだけ淹れれるのに、もったいないものだ。」
「すいません。そのお話を正月までにしないといけなかったんですけど……伸ばしてしまって。」
「仕方ないだろう。三、四年もここにいれば愛着も沸くだろうし、何より会社を移動しないといけないと言うのはネックだろう。」
「はい。」
「阿川さん。条件を出そうか。」
 そう言って社長はバッグの中からクリアファイルを出す。
「年に四回。限定スイーツを出す。その開発に加わってほしい。その期間は本社に通勤してほしいと思う。期間は一週間から二週間。開発に遅れがあれば、もっとかかるだろう。」
「残りは?」
「今まで通り店頭にいてほしい。ただし、こっちの会社に籍を置くことが条件だ。」
 クリアファイルを見ると社員になるのに必要な書類がある。
「春からの勤務でかまわない。今すぐというわけではなくてね。」
 今までと変わらない生活ができそうだ。だが心の中で何かが引っかかる。
 それは鈴音の言葉だった。「君が必要だ」と言う言葉。
 社長はコーヒーを飲み終わると立ち上がる。そしてコートとマフラーを身につけた。
「阿川さん。」
「はい。」
「君も川村店長も、いなくてはいけない存在なんだ。それを忘れないでほしい。」
 社長はきっと何もかも知っているのだろう。そして出て行ってしまったその後ろ姿が、誰かとかぶった。
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