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「……おいしい」
「そう、よかった。まだまだ嗅覚は衰えてなかったね!」
彼女のつぶやきに反応する幼馴染。幼馴染は振り返ってうれしそうな顔をした。
依里はそのままパンを咀嚼する。さっくりしたクッキー生地の、ふんわりと漂うバターの香り、パン自体のしっとりとしたくちどけ、それらに甘さまで加わって、それでいてしつこくない。
いい物使ってるな、と思わせる味がそこにあったのだ。
その後は夢中でパンを食べて、依里は思ったよりも自分が空腹だった事に気が付いた。
そして最近は忙しさのあまり、きちんとした食事なんて、滅多にとっていなかった事まで思い出した。
残業は何時間だったか、覚えていない。
ここしばらく、忙しい事を理由に、自分はゼリー状の栄養補助食品ばかり口にしていた事も、そろそろ財布が厳しくなってきていた事も、思い出す。
ちらっと依里は幼馴染を見やった。こいつはそんな事まで察して、雑炊だの消化のいいスープだのを用意していたのだろうか。
そこまで見こされると怖いものがあるが、こいつは顔を見た相手が、どれくらい食べていないのかを、野生の勘であてる特技があった。
付き合いの長かった幼馴染の胃袋事情なんてものは、直ぐに分かったのかも、知れなかった。
「はいどうぞ」
言いつつ晴美が渡してきたのは、柔らかなクリームブラウンの色をした飲み物で、匂いからして紅茶である。こいつはミルクティーを淹れたのだ。
「ヨリちゃんストレートよりも、ミルク入れた方が好きだったじゃない。冷蔵庫に入っていないから、変だな、って思ってたけど。引っ越すんだものね、飲み切れなかったら困るから、買わなかったんでしょう?」
ちがう。食料品を買いに行く根性が出てこなかっただけなのだ。
依里はそう言う言い訳を飲み込み、彼の用意したミルクティーを口にした。
晴美はさっそくあんパンにかぶりついている。
「うわあ、重たいと思ったら、たっぷりあんこが入ってる! あそこはいいパン屋だ」
割と小さめのあんパンは、見た目に反してあんこたっぷりの重量系だったらしい。
晴美は嬉しそうな顔でそれを平らげ、次に焼きそばパンに手を出す。
「これもおいしいよ、ヨリちゃん!」
「何かおまえが皆食べちゃいそうなんだけど」
「ヨリちゃんの分は残すよ、どれが食べたい?」
「って、お前三つしかパン買ってないじゃないか」
「あ」
呟き、晴美は目を瞬かせた。やっちまった、という顔だ。どうせ財布の中に小銭がなかったとかそんな理由で、たくさん買わなかったんだろう。
目を瞬かせて、どうしよう、と言いたげな子供みたいな雰囲気を醸し出した馬鹿に、依里は言った。
「私はメロンパンだけで十分だよ。最近ろくなもの食べてなかったせいか、お腹いっぱい食べられないんだ」
「そうなんだ……だからあんまり食べなかったんだ」
「だから気にしないで食べろ」
「うん」
気にするな、と言われたからか何なのか、晴美はぺろりと焼きそばパンを食べきり、頬杖をついた。
そんなさまは絵になるほどなのに、中身これだからな、と思いつつ、依里は問いかけた。
「どうしたんだ?」
「ヨリちゃんの胃袋が回復するまで、何を食べさせようかなって思ってさあ」
「自分でご飯用意するぞ、私は」
「おれがしたいの」
「そんなものか? 家でまで料理して疲れないのか?」
「おれは趣味が料理で特技が料理で仕事が料理だから、疲れるとか思わないな」
言った後、晴美はそうだ、といった。
「しばらく、ヨリちゃんは消化のいい味噌汁とかのスープと、おにぎりにしようか。お粥でもいいよ」
「なんか病人食みたいだな」
「お粥がおいしい時は、胃が弱ってる時だよ、おれなんかそうだもの。だからヨリちゃんが、普通のご飯食べたくなるまで、お粥いろいろ作るから」
「晴美が作ると、飛び切り美味しくなりそうだな」
「でしょう。世界各国お粥みたいなものはいっぱいあるからね! 日本だって、具とかいっぱいあるし」
ヨリちゃんの具合が良くなるまで、それでいこうか、といった晴美は、いつも通りの幼馴染だった。
同居条件という物は
「同居条件を掲示しようと思う」
「なになに、だいたいの事は出来るよ!」
依里は身を乗り出した晴美に、一枚の手描きの紙を渡した。
「お前が買いに行っている間に、だいたいの条件を書いてみた。こんな感じでどうだ」
「ええっと……」
晴美は、依里の出してきた紙を見て、じっくり眺めまわしている。
ちなみに中身は、
家賃は折半
お互いの部屋に関しては関わらない。
共有部分の掃除は手の空いた方がやる
洗濯ものは別
明日の予定が分かる場合は共有部のどこかに記しておく事、もしくは共有のスケジュールアプリを使用し、記入漏れを防ぐ
夜中にいきなり騒がない
……といった、ごくごく普通の事である。これ位あった方が、意外ともめなくて済むだろう、と考えた依里の考えの元である。
さらに依里は、この住居を契約した強みがあるため、少し強気である。
晴美はと言えば、じっとそれらを読み、問いかけた。
「ヨリちゃん大事な事が抜けてるよ」
「は?」
「どっちがご飯作るのか、ルール決まってないじゃない!」
「そこかよ」
「だってそうでしょう? ヨリちゃんの方が、たまには早く帰って来ると思うし、そんな時におれが何か美味しいものもってきても、ヨリちゃん食べられなくなるかもしれないじゃない! おれの仕事場のご飯美味しいんだよ!」
「何かまともな事言ったと思ったらそっちかよ!」
依里は盛大に突っ込んだ。このご飯で世界は回っている、と言いたげな幼馴染は、そう言えば昔から、ごはんという物に重きを置いている子供時代だった。
お腹が空いていると落ち込んじゃうからだめでしょ、と言われたのは一体いつだったか。
「それにおれは朝早いけど、前の家でもそれに合わせてもらわなかったし」
元カノを気遣って、生活時間を合わせるように強要しないのは、晴美のいい所だろう。
「結構お互いに自由だったんじゃないか、お前」
「そうかなあ、彼女が先に帰ってきた時に、作り置きのおかずがないと機嫌悪くなったし、先に帰ってきた時に洗濯物がたたまれてなかったら、やっぱり不機嫌になったよ」
「自分の洗濯物くらい自分で管理しろよ……」
元カノ、なかなか晴美をこき使っていたらしい。
「おれ洗濯物たたむの、すごく苦手だったのに……一生懸命たたんだんだよ」
「お前は頑張ったんだろ、だからそこで落ち込むな」
依里は柔らかいくせ毛をよしよしと撫でた。この男は何故か、時折大型犬のような撫でたくなる感覚を産むのだ。
そして彼女がよしよしと撫でると、少し気分が上昇してきたらしい。晴美は顔をあげて問いかけてきた。
「ええと、じゃあこうしよう。朝はおれが絶対に先に起きるから、おれが作る。お弁当が必要な時は前の日までに知らせてくれれば作るよ。お夕飯は、先に帰ってきた方が作ったりする。あ、ヨリちゃんが面倒くさいって思ったら、ごはんだけあればおれ、大丈夫だからね」
「お前の甲斐甲斐しさにびっくりだよ」
こいつは甲斐甲斐しく、元カノの世話を焼く事になっていたんだろうなあ、と依里は心の中で呟いた。
その甲斐甲斐しさが、同居人に発揮されるのはどうだろうか……
「それとヨリちゃん、冷蔵庫のルールは?」
「そんなの、使ってほしくない物に、マジックペンで名前書いておけばいいだろ」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃないか。この家でがっつり何か作るのって、たぶんお前だろ」
「そうだねえ」
そう言った幼馴染は、相好を崩した。おおかた、独占していいキッチンという物に、気分がいいのだろう。たぶん食事事情では、この男に大体任せておけば問題ない。
「そう、よかった。まだまだ嗅覚は衰えてなかったね!」
彼女のつぶやきに反応する幼馴染。幼馴染は振り返ってうれしそうな顔をした。
依里はそのままパンを咀嚼する。さっくりしたクッキー生地の、ふんわりと漂うバターの香り、パン自体のしっとりとしたくちどけ、それらに甘さまで加わって、それでいてしつこくない。
いい物使ってるな、と思わせる味がそこにあったのだ。
その後は夢中でパンを食べて、依里は思ったよりも自分が空腹だった事に気が付いた。
そして最近は忙しさのあまり、きちんとした食事なんて、滅多にとっていなかった事まで思い出した。
残業は何時間だったか、覚えていない。
ここしばらく、忙しい事を理由に、自分はゼリー状の栄養補助食品ばかり口にしていた事も、そろそろ財布が厳しくなってきていた事も、思い出す。
ちらっと依里は幼馴染を見やった。こいつはそんな事まで察して、雑炊だの消化のいいスープだのを用意していたのだろうか。
そこまで見こされると怖いものがあるが、こいつは顔を見た相手が、どれくらい食べていないのかを、野生の勘であてる特技があった。
付き合いの長かった幼馴染の胃袋事情なんてものは、直ぐに分かったのかも、知れなかった。
「はいどうぞ」
言いつつ晴美が渡してきたのは、柔らかなクリームブラウンの色をした飲み物で、匂いからして紅茶である。こいつはミルクティーを淹れたのだ。
「ヨリちゃんストレートよりも、ミルク入れた方が好きだったじゃない。冷蔵庫に入っていないから、変だな、って思ってたけど。引っ越すんだものね、飲み切れなかったら困るから、買わなかったんでしょう?」
ちがう。食料品を買いに行く根性が出てこなかっただけなのだ。
依里はそう言う言い訳を飲み込み、彼の用意したミルクティーを口にした。
晴美はさっそくあんパンにかぶりついている。
「うわあ、重たいと思ったら、たっぷりあんこが入ってる! あそこはいいパン屋だ」
割と小さめのあんパンは、見た目に反してあんこたっぷりの重量系だったらしい。
晴美は嬉しそうな顔でそれを平らげ、次に焼きそばパンに手を出す。
「これもおいしいよ、ヨリちゃん!」
「何かおまえが皆食べちゃいそうなんだけど」
「ヨリちゃんの分は残すよ、どれが食べたい?」
「って、お前三つしかパン買ってないじゃないか」
「あ」
呟き、晴美は目を瞬かせた。やっちまった、という顔だ。どうせ財布の中に小銭がなかったとかそんな理由で、たくさん買わなかったんだろう。
目を瞬かせて、どうしよう、と言いたげな子供みたいな雰囲気を醸し出した馬鹿に、依里は言った。
「私はメロンパンだけで十分だよ。最近ろくなもの食べてなかったせいか、お腹いっぱい食べられないんだ」
「そうなんだ……だからあんまり食べなかったんだ」
「だから気にしないで食べろ」
「うん」
気にするな、と言われたからか何なのか、晴美はぺろりと焼きそばパンを食べきり、頬杖をついた。
そんなさまは絵になるほどなのに、中身これだからな、と思いつつ、依里は問いかけた。
「どうしたんだ?」
「ヨリちゃんの胃袋が回復するまで、何を食べさせようかなって思ってさあ」
「自分でご飯用意するぞ、私は」
「おれがしたいの」
「そんなものか? 家でまで料理して疲れないのか?」
「おれは趣味が料理で特技が料理で仕事が料理だから、疲れるとか思わないな」
言った後、晴美はそうだ、といった。
「しばらく、ヨリちゃんは消化のいい味噌汁とかのスープと、おにぎりにしようか。お粥でもいいよ」
「なんか病人食みたいだな」
「お粥がおいしい時は、胃が弱ってる時だよ、おれなんかそうだもの。だからヨリちゃんが、普通のご飯食べたくなるまで、お粥いろいろ作るから」
「晴美が作ると、飛び切り美味しくなりそうだな」
「でしょう。世界各国お粥みたいなものはいっぱいあるからね! 日本だって、具とかいっぱいあるし」
ヨリちゃんの具合が良くなるまで、それでいこうか、といった晴美は、いつも通りの幼馴染だった。
同居条件という物は
「同居条件を掲示しようと思う」
「なになに、だいたいの事は出来るよ!」
依里は身を乗り出した晴美に、一枚の手描きの紙を渡した。
「お前が買いに行っている間に、だいたいの条件を書いてみた。こんな感じでどうだ」
「ええっと……」
晴美は、依里の出してきた紙を見て、じっくり眺めまわしている。
ちなみに中身は、
家賃は折半
お互いの部屋に関しては関わらない。
共有部分の掃除は手の空いた方がやる
洗濯ものは別
明日の予定が分かる場合は共有部のどこかに記しておく事、もしくは共有のスケジュールアプリを使用し、記入漏れを防ぐ
夜中にいきなり騒がない
……といった、ごくごく普通の事である。これ位あった方が、意外ともめなくて済むだろう、と考えた依里の考えの元である。
さらに依里は、この住居を契約した強みがあるため、少し強気である。
晴美はと言えば、じっとそれらを読み、問いかけた。
「ヨリちゃん大事な事が抜けてるよ」
「は?」
「どっちがご飯作るのか、ルール決まってないじゃない!」
「そこかよ」
「だってそうでしょう? ヨリちゃんの方が、たまには早く帰って来ると思うし、そんな時におれが何か美味しいものもってきても、ヨリちゃん食べられなくなるかもしれないじゃない! おれの仕事場のご飯美味しいんだよ!」
「何かまともな事言ったと思ったらそっちかよ!」
依里は盛大に突っ込んだ。このご飯で世界は回っている、と言いたげな幼馴染は、そう言えば昔から、ごはんという物に重きを置いている子供時代だった。
お腹が空いていると落ち込んじゃうからだめでしょ、と言われたのは一体いつだったか。
「それにおれは朝早いけど、前の家でもそれに合わせてもらわなかったし」
元カノを気遣って、生活時間を合わせるように強要しないのは、晴美のいい所だろう。
「結構お互いに自由だったんじゃないか、お前」
「そうかなあ、彼女が先に帰ってきた時に、作り置きのおかずがないと機嫌悪くなったし、先に帰ってきた時に洗濯物がたたまれてなかったら、やっぱり不機嫌になったよ」
「自分の洗濯物くらい自分で管理しろよ……」
元カノ、なかなか晴美をこき使っていたらしい。
「おれ洗濯物たたむの、すごく苦手だったのに……一生懸命たたんだんだよ」
「お前は頑張ったんだろ、だからそこで落ち込むな」
依里は柔らかいくせ毛をよしよしと撫でた。この男は何故か、時折大型犬のような撫でたくなる感覚を産むのだ。
そして彼女がよしよしと撫でると、少し気分が上昇してきたらしい。晴美は顔をあげて問いかけてきた。
「ええと、じゃあこうしよう。朝はおれが絶対に先に起きるから、おれが作る。お弁当が必要な時は前の日までに知らせてくれれば作るよ。お夕飯は、先に帰ってきた方が作ったりする。あ、ヨリちゃんが面倒くさいって思ったら、ごはんだけあればおれ、大丈夫だからね」
「お前の甲斐甲斐しさにびっくりだよ」
こいつは甲斐甲斐しく、元カノの世話を焼く事になっていたんだろうなあ、と依里は心の中で呟いた。
その甲斐甲斐しさが、同居人に発揮されるのはどうだろうか……
「それとヨリちゃん、冷蔵庫のルールは?」
「そんなの、使ってほしくない物に、マジックペンで名前書いておけばいいだろ」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃないか。この家でがっつり何か作るのって、たぶんお前だろ」
「そうだねえ」
そう言った幼馴染は、相好を崩した。おおかた、独占していいキッチンという物に、気分がいいのだろう。たぶん食事事情では、この男に大体任せておけば問題ない。
応援ありがとうございます!
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