手繋ぎ蝶

楠丸

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ペーパー初段

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 村瀬豊文むらせとよふみの勤務する「マスオマート」の支店は、その日、休みの従業員が多く、レジ、品出しともに人数が限られていた。店のいたる所にハロウィンの飾りつけがされている。三台設置されたレジキャッシャーには一人の店員しかおらず、慌てて駆けつける別の店員がレジに立っても、売り場まで続く行列が解消されることはない。並んでいる客達の平均年齢は高かった。インスタント食品の品出しを行っていると、陳腐な店内BGⅯに混じって、十円から三十円で買える駄菓子の売場から、聞きまごうことのない人が人を叩く音、尋常ではない泣き声が聞こえた。幼いものだった。カップ麵などのインスタント食品のコーナーでラベルを打っていた村瀬の心には、躊躇の思いが起こっていた。だが、立場というものがある。
 村瀬は戸惑いながら、駄菓子を陳列する一角へ移動した。小さな袋の味付乾麵や笛キャンディ、酢漬けイカ、掌に載る正方形のチョコレートなどが陳列されたコーナーの前で、一人の少年が、床に倒れた幼い女の子に、いささかの容赦もなく、ばすばすと立て続けに蹴りを入れている。   
 少年は、トップとサイドを刈り、束数の少ない後ろ髪だけが背中まで垂れた髪型をし、繊維が傷んでよれた黒のナイロンジャージ上下を着た姿だった。体のサイズを見る限り、小学三年生らしい。少年に蹴られている女の子は見た感じでは四つくらいで、やはりお金のかかっていない服装をし、ブラシもろくに入っていない乱れた髪をしていた。
 ラベラーを片手に持った村瀬は、胃が縮こまるような思いを抑えて、ねえ、君…という 言葉を絞った。少年はそれが聞こえているのかいないのか、今度は女の子の背中を踏みつけはじめた。その音と泣き声を聞いて、誰かがやってくる様子が、まだない。これは第一発見者の村瀬がまず収めるしかない状況だった。眠たくなるようなBGⅯに、汚れた安物のキッズスニーカーを履いた足が、小さな背中に執拗に打ち下ろされる陰惨な音、より激しくなった泣く声が重なる。きつい煙草の臭いがしたが、それは少年の着ている服から立ち昇っているものだった
 「君、駄目だよ。やめなさい…」村瀬は聞こえる声で、はっきりと言った。だが、自分でも間抜けな声、ずれた声かけだと思った。おどついた自分の顔も、鏡を見るように思い浮かんだ。
少年はゆっくりと振り返った。青黒い顔の皮膚と落ち窪んだ眼窩が、食事の栄養が行き渡っていないことを表している。その目の奥の光は、明らかに村瀬を威嚇している。その姿は、さながらミニチュアのやくざか、第三国の子どもギャングそのものだった。先まで少年に蹴られ、踏みつけられていた妹で間違いないと見える女の子は泣き続けていた。 
「おらあ、拳刀けんと! 拳刀!」そこへ巻き舌の、故意に潰したような声の呼び声がした。コーナーの角から、グリーンの籠を下げた男が現れた。籠からは、何本ものビールの瓶が覗いている。
「てめえ、いつまでちんたらやってんだ、この野郎! 帰んぞ、おら!」
 齢の頃三十代半ば、短く刈って技巧をこなした髪、龍虎が刺繡されたトレーナーに、紫のツータックパンツという出で立ちをした男は、周りを憚らない下品な言葉の怒声を吐き散らし、けんと、というらしい少年の髪を掴み、引き寄せて、突き飛ばした。身長は村瀬よりも少し下回るが、わりとがっちりした体格をしている。突き飛ばされた息子は、レジ側へよろめいた。
「こらあ、樹里亜じゅりあ! てめえもいつまでも調子こいてっと承知しねえぞ、この野郎!」床に這って泣く幼い娘を男は怒鳴ったが、男の吐く言葉には意味の繋がりも筋道も何もなく、兄から暴力を振るわれていた娘を心配するような様子が微塵もない。ついさっきまでここで何が行われていたかを分からないわけでもないはずなのに、ただ自分の子供が「ちんたら」している、「調子こいてる」こととかが、この男が怒っている理由のようだ。息子による、妹への暴行を咎めるような素振りもない。他の客は、その光景にちらりと目を留めるだけで、あとはいそいそといなくなり、コーナーを去っていく。
「大丈夫? 立てる?」人が引いた駄菓子コーナーで、村瀬は声をかけて、男の娘の手を引いて立たせた。やっと立った娘は乱雑に伸びた前髪の下の顔に涙と鼻水を流し、啜り上げている。コーナーの向こうから、村瀬の女同僚が、心配げに見ている。   
龍虎のトレーナーの男は、村瀬が娘を介助して立たせたことに礼も言わず、革靴の踵で息子の背中を蹴るように押し、買い物籠を揺らしてレジへと歩き出した。男の背中に向かい、あの、と呼びかけたのは、村瀬自身の立場、いや、第一に良心から、このままにしておくのはどうかと思ったために他ならなかった。                     
 男は、激安奉仕品の乾物が陳列された棚の前で、何かの刺激に反応したような動作で振り返り、怪訝な視線を村瀬に向けてきた。
「今、こちらの男の子が女の子を蹴っていましたので、こういうことは、お父さんのほうから注意をされたほうが」村瀬が言うと、男の訝しげな目がたちまち威しのそれに変わった。息子も正面に向き直り、凄む顔で村瀬を見上げていた、娘はまだしゃくり上げて泣き続けている。
「あ?」男は胸を反らせて、つかつかと寄ってきた。
「何だ、てめえ。俺は今、列に並ぼうとしてんだよ」「あの、さっきみたいなことはよくないですよ」「客がレジに並ぶの邪魔すんのか?」 「いや、そういうわけではないのですが、ただ、今、息子さんのやっていたことは…」
顔を突き出した男に、村瀬は、奥歯に物が挟まったようなしどろもどろな説明を試みていた。幼くして風格さえある息子の睨み上げる顔と、泣き続ける娘に、この子供達が行き着く人生の道筋までが、村瀬には視える思いがした。
レジに並ぶ、主に年配者の客が視線を集中させているが、関わろうとする者は誰もいない。村瀬にはこういうことは初めてではない。地銀の行員として働いていた頃にはやくざにも絡まれたし、十四年前にこのスーパーに再就職して以来、この手の男やクレーマーの類いには何度もバッティングしている。だが、いつまでも対処法が身につかない。少し前も、吠えたてるダックスフンドの仔犬を二匹も腕に抱いて入店した水商売風にも風俗嬢風にも見える女を優しく注意したところ、逆にこってり嚇され、侮辱され、その女のマナー不正は結局正せずに終わった。このスーパーは北総から茨城の南部にかけて三店舗ばかりに小規模展開しているチェーンで、反社や防災のマニュアルもあるにはあるが、働く者の意識にはよく浸透しているとは言えない。この支店の店長も、責任感をというものまるで携えていない五十代の小男だ。だから従業員はみんな、一辺倒の自己責任で対応するしかない。
「他人のことだろうが。てめえに関係あんのか?」「ですが、今のは一方的な、かなり酷い暴力ですよ。この子は、いつもこうしてお兄ちゃんに殴られたり蹴られたりしてるんですか?」「下が筋通らねえことやった時は、上が焼き入れんのがうちの決まりなんだよ。てめえ、他人の家の決まりに口出すほど偉えのか?」ニコチン臭い息と、唾液の飛沫がぴっぴと村瀬の顔にかかった。よくあることで、この類いの男の口癖になりがちな筋、けじめなどの言葉は、日本語として破綻している場合がほとんどだ。何故なら、それらの言葉の意味、用法が実は分かっていないからだ。暴力の雰囲気に免疫のない相手を萎縮させるには、正しい、間違い、意味や用法の誤用も関係なく、言葉の手数がものを言う。それらを繰り出して、徹底的に居直り、相手が怯えるのを待ち、完全に制したと思った時には、金でも取るのがいい。そういうとことん狡い処世術が、骨の髄まで身についている。そういう人間性を持つような無職の男女が、利己的な理由で幼い我が子や連れ子を虐待死させ、「泣き止まないことに腹を立ててやった」と開き直り、「躾のつもりでやった」などと量刑の軽減、またはあわよくば無罪放免を狙うように陳述する。
 レジ待ちの人数は減らない。息子は村瀬を睨み続けている。娘はまだ啜り上げている。「こういうことは、親御さんが注意しないと駄目ですよ」「だからてめえが口出すことじゃねえんだよ、この馬鹿! おら、見ろよ! てめえがごちゃごちゃ抜かしてる間にめっちゃ並ばれてんだろうがよ!」「そのことは、申し訳ございません」村瀬は屈辱を胸で嚙みながら、同時礼で頭を下げた
「申し訳ありませんだと?」男は村瀬の顔に口吻を近づけた。並んでいる客はみんな目を伏せ、またはそっぽを向き、関わらないようにしている。店員も、出勤人数が少ないため、今は村瀬一人での対処を余儀なくされている。目の前の男が小物だということは分かっている。だが、村瀬はこういう人間から、自分を守れない。勿論、他人も守れない。子供の時から、ずっとそうだった。今も、じゅりあという、まだ泣いている女の子を助けたうちに入るのか、自分でも分からなかった。児童虐待のホットラインに通報しようにも、父親の氏名、住む所番地が、ここからそう遠くない所に住むということしか分からない。また、親権者による暴力を日常的に受けているかどうかも、まだ分からない。
「じゃ、おめえ、これ俺に買ってくんねえ?」男は籠から税込千百五十一円の、船盛仕様の刺身盛り合わせを出し、指でとんとんと叩いた。「今からレジにおめえの金入れてこいよ。そんで俺がこれもらってくからさ」どや顔だ。こういうことが世の中で通用すると本気で思っているらしい。
「誠に申し訳ございませんが、それは出来かねます」村瀬が先よりいくらか毅然と言った時、女性同僚の小谷(こたに)真由美(まゆみ)が店長と一緒にやってきた。店長の増本(ますもと)は、村瀬の同僚の後ろに続いて、いかにも厭々な足取りと顔で、のろのろとついてきた。手には何枚かのチケットが持たれているが、それがビール券だということが村上には分かった。
「店長の増本と申します。お客様、何か無調法がありましたでしょうか」増本がおもねるように訊ねると、男は体を反転させて村瀬を指差した。
「この馬鹿、人が並ぼうとしたら、捕まえてわけ分かんねえ説教垂れてよ、離さねえんだよ。このスーパーじゃ、客の買い物邪魔しろって教育してんの?」
男が言うと、増本は非難の顔で村瀬を見た。理由があってこの事案が発生したことは、まさか分からないわけでもないだろう。だが、いつも休憩時間にスマホゲームのギャルゲーにやにさがっているこの小男は、我が身ばかりを守ろうとする利己主義者だ。仕事にもルーズで、店長職としてあるまじきケアレスミスも繰り返している。
「店長、私はこちらの男の子が、女の子に暴力を振るっているのを…」村瀬は言いかけて、増本と、同僚の小谷真由美を見た。真弓は村瀬への理解を込めた表情で頷いたが、増本は苦い顔で、村瀬の事情説明を手で制した。
「口から出まかせこいてんじゃねえぞ、こら! あんなもんは、ちょっとしたうちのガキの喧嘩だろうが!」やはりこの男は、成長過程で正しい日本語を習得していない。村瀬の言っていることは出まかせなどではないし、あれは互いが対等な喧嘩ではないことは、誰の目から見ても明らかのはずだ。少なくとも真由美は、どちらに非があるかくらいは分かっている。
「不快な思いをさせてしまって、誠に申し訳ございませんでした」増本が言って、腰を深く折った。
「当たりめえだろ、この野郎! おい! こんなことやってるうちにビールがぬるくなって、刺身も鮮度が下がっちまうよ。おめえらも何年も接客やってんなら、こんな形だけの詫び入れなんか意味ねえことぐれえ分かってるはずだよな。今、俺がおめえらから受けた損失、形にして返せよ」言った男に、増本はもう一度頭を下げて、手に持ったビール券を差し出した。要は、さっさと帰って欲しいということだが、その徹底した保身の心境は村瀬にもありありと伝わっていた。だが、この五十男はそういうものだと、彼が取手店から赴任してきた時から分かりきっている。村瀬の心にも、それと限りなく似通った思いがあることを、全く否定出来ない。謝罪をし、ビール券を受け取って帰ってもらえるなら、それが一番無難なのだろう。たとえじゅりあちゃんが、これからも兄と父親から虐待を受け続け、死亡した幼児としてテレビに写真が映し出されても。あるいは命があっても、当たり前の愛、情を、まさにそれの供給がないためにそれそのものを知らずに育ち、未来の時間に、兄ともども人の道を踏み外していくことになるとしても。
「当店からの心よりのお詫びの印です。ビール券になります。来年度の六月末日まで、東日本全域の私どものようなスーパー、コンビニエンスストア各店で使えますので、もしよろしければお受け取り下さい」一層おもねって言った増本の手からビール券を受け取った男は、それをじろりと眺めた。
「千円分が三枚か。分かったよ、今日んとこはこれで勘弁してやるよ。ところで、おい、てめえ、村瀬でいいのか」男は制服ブルゾンの胸元の顔写真つき名札と村瀬の顔を見て、また距離を詰めた。「さようでございます」「俺は吉冨よしとみだ。暴走族の駒込凶悪連合で親衛隊長張っててよ、その頃の連れで、任侠だとか国士の道に行ったのが何人もいんだよ。今日のことは、今回はそいつらにはしゃべらねえどいてやっけど、しゃべったら、街宣でこの店ぶっ潰れるだけじゃ済まねえことになんだぞ。分かったら、もういっぺん頭下げて謝罪しろよ、この馬鹿! この普通の接客もろくに出来ねえ身体障害者野郎!」男の後ろの息子が笑っている。嘲笑だった。娘はようやく泣き止んでいるが、涙と鼻水の筋がまだ顔に残っている。
「申し訳ございませんでした」村瀬がもう一度同時礼をした時、ばーか、という甲高く張り潰した声が響いた。
「ばーか、ばーか、キモおっさん! 死ね!」息子が村瀬を見上げながら、声高々と侮蔑の囃しを浴びせた。増本、真由美、村瀬がお辞儀をするのを背にして、吉富は背中を揺すり立て、二人の子供とともにレジの列へと去っていった。店長の増本は、背中を丸めてスタッフルームに消えた。 
 屈辱は確かに覚えていた。だが、自分のこれまでの人生では、決して昨日今日のことではない。割りきりながら、村瀬はインスタント食品売り場でのラベリングを再開していた。そこへ真由美が来た。
「ごめんなさい、たいして助けてあげることが出来なくて…」「いや、ありがとう。店長も呼んでくれたし、助かりましたよ。ああいうのは基本、男が対応しなくちゃいけないことだから」業務用カートに積まれた「名匠 佐賀豚骨醬油」にラベルを打ちながら言ってみせたが、対応と言うほどの対応は出来ていなかったと思う。結局は怒りを鎮めるために媚びる側についてしまい、負けを認めてしまったからだ。少なくとも増本は、他の客に迷惑を及ぼす可能性を持つ人間への毅然、法的知識を、業務スキルとして持っていないが、立場上、村瀬も真由美も従うしかなかったのだ。
「あの人が来るようになったのって、つい最近ですよね」「そうだね、先々月ぐらいからだったように思えるね」「鮮魚の鴨志田さんがこの辺の内科医院でたまたま居合わせたみたいなんだけど…」二人の真横を、初老の女が二人並んで通った。そのうち一人が猛然と、料理や家事を全くやらないらしい息子の嫁の悪口をまくしたて、連れの女がそれを傾聴している。
「医療券、出してたって言うんですよ」「医療券?」村瀬が訊き返すと、真由美は頷いた。「そう、あの、生活保護の。でも、いつもビールとか、お刺身とか、ステーキとか、鰻とか高いものばっかり買ってるし、何だか自分と奥さんだけが贅沢して、子供達には、普段ろくなもの食べさせてないんじゃないかしら。確かに病災渦の中で権利として見られるようになって、震災の前後に問題になってた頃ほどはイメージも悪くないけど、今は仮の終息宣言が発表されてからそれなりに経ってて、働くことに腰を上げなさいって国も奨励してる世の中なのに」「悲しいけど、そういう人もいるよ。だけどそういうのは市役所の指導とか、児相の職域で、こちらが介入出来るようなことじゃないからね。それにここに来る人はどんな人だってお客様には変わらないから、そこが我慢のしどころだよ」  
「でも、さっきの村瀬さん、立派でしたよ」真由美は言って、眼鏡の奥の細い目を大きくした。「そうかなぁ。毎度だけど、すっかりびびっちゃって、あんなのが精一杯で、今日もだらしのないとこみせちゃったと思うよ。俺、根っからのいじめられっ子体質だから.…」「そんなことないですよ。ちゃんと諌めて、出来ないことは出来ないってはっきり言っただけでも恰好よかったです」真由美が頬を染めて言った時、3番レジお願いします、という、急いで、と込めた抑揚のアナウンスが流れた。 
「じゃ、すいません、レジ行ってきます…」真由美は笑顔を残し、小走りに、コーナー向こうのレジカウンターへと去った。
彼女は村瀬よりも幾分か年少で、中学一年生の長女と、親子で薙刀を習っているという。村瀬も過去には、分類すると同じと言っていいものを嗜んでいたが、それで何かがどうにかなった、とは、自分では到底思えないまま、長いブランクが開いていた。それでも、それそのものについての知識は、当たり前だが、何もやっていない者よりはあると自分では思いたかった。そんな自分に充てる言葉があるとすると… 
ペーパー初段、か。
 遅番勤務を終え、二十時にⅠDカードをスリットに通して、新京成線前原駅から津田沼方面行に乗った。休憩の時にかじったおにぎりだけでは食い足りないので、新津田沼で降りて何かを食べようと思いながら、左側の席に座った。
左隣にはスポーツ新聞を広げた老齢の男、右隣にはピンクのニッカーボッカーを履いた建設会社の職人といった体の若い男がだらしなく大股を開いて腰掛け、スマホをいじりながら、ピンクサイトでも観ているのか、何やらにやついているのが分かる。向かいでは、秋物カジュアルの仲睦まじげなカップルが肩を寄せ合い、その隣には、葬儀帰りらしい喪服姿の老いた男が二人座り、前田さんの奥さんも、もう脳にも転移してるって話だね、長くないよ、保険金は相当下りるだろうけど、あそこじゃみんなむしりとられちゃって残らないね、という会話を拾った。
そのまた隣は、長引いた部活の練習に、若くしてくたびれてしまったような顔、姿勢をした、ジャージ姿の男子だった。優先席の者達は、みんなスマホをいじっている。
いつもと変わらない風景の中で、つい四時間前にあの父子から受けた、あらん限りの恫喝、侮辱が脳裏に蘇った。おっさん、はしかたがないというか、どうにもなるものではない。村瀬はアラフィフで、禿げてこそいないが、これまで特に「若い」という見た目のレビューを受けたことはない。キモ、は子供にはよくあることで、頭に思い浮かんだことをぽんと出しただけに過ぎないのだろう。
だが、その父親である吉富という男から浴びた、身体障害者、という心からの蔑みを込めた罵りを思い出すと、錆びた臍を胸に打ち込まれたような気持ちになる。
汚穢のようなむかつきが胸に居座ったまま、下車して、津田沼の街に出た。天気予報通り、少し厚めの上着が必要なほどの、涼しい秋風が吹いていた。
JRのデッキに続く階段を斜め前に臨む場所にある券売制の和食屋でチキン南蛮定食を食い、交差点を渡った。
 階数の低いビルの一、二階に飲み飲食店がひしめき、奥には準風俗店が並ぶ裏通りに入った時、怒声とともに、ビル一階の店から一人の男が店員達に四肢を持たれて引きずり出されている光景が目に飛び込んできた。店員達は赤い法被に白のねじり鉢巻きの姿だった。二の腕に彫物隠しのサポーターを巻いている者もいて、口髭を生やしている者、短髪の髪に剃り込みを入れた者と、いずれも人相がいいとは言えない。男達の体格は、みんないかつかった。
 スタンド看板には「特攻拉麺 龍星」の黒い太文字と、日昇の絵が描かれている。通行人はみんな、興味半分、恐れ半分の視線を向けたのちにすぐに目を伏せ、そそくさと歩み去る。そんな中、村瀬だけが立ち止まり、時代錯誤したようなその目の前の絵を見つめていた。覚えている感情は、六割の嫌悪感と、四割の、憐憫に似た思いだった。
 店員達は、男の体を倉庫の大荷物のように、アスファルトの路上へ放った。男は背中から路上へ落ちた。後頭部が路面でバウンドし、鈍い音を立てた。被っている青のキャップが飛んで転がった。
銀縁の眼鏡をかけた四十歳前の男だが、村瀬の方向から前面が見えるキャップは、何かのアニメキャラクターのもののようだった。苦痛と衝撃に上下する布ジャンパーの胸には、目を凝らすと、アイドルの丸いワッペンがいくつもついている。店員の一人が、男が肩にかけていたらしい大きなリュックサックを彼の脇に投げた。
 男は、店員達から威圧の視線を注がれながら、路面に両手を点いて半身を起こした。横顔には諦念のようなものが刻まれている。リュックを引き寄せると、膝と腰を震わせながら立ち上がり、俯いた姿勢のまま、JRのほうへとぼとぼと歩き出した。
 道の角を曲がり際、男が振り返り、何やら、もごついた口調で大声の文句を吐いた。何と言ったのかは村瀬には聞き取れなかった。
中央にいる、茶髪の髪を後ろで丸く結った、ひときわ体格のいい若者がたちまち眦を吊り上げ、男に向かって数歩ダッシュした。同じユニフォームの法被の店員が二人追いすがり、一人が腰に腕を回し、もう一人が前に回り込んで、肩を押さえた。
「マネージャー、駄目っすよ! むかついてんのは俺らも同じだけど、手まで出して、それが広まったりしたら、この店どうなるんすか!」前の若者が懸命に説得を試みた。
「お客さんも待たしてるし、ほら、人が見てますよ。店の評判に関わりますよ…」その呼びかけに、マネージャーを務めているらしい若者は振り上げた拳を下ろしたが、目は男の消えた方角を睨み、唇は震えている。
 マネージャーの若者が諦めたように体を右へ回して、営業中という意味らしい「気合真っ最中」という和風書体の文字が太く描かれた木札が下がり、フルカウルに竹槍マフラーの単車に跨り、木刀を担いで走り去る半キャップ、特攻服の姿の男の写実的なイラストがでかでかと社風をアピールする出入口に歩き出すと、同じユニフォームの若者達も、周りを牽制の目としぐさで見回しながら、続いた。
 村瀬はマネージャーが店に消えるのを見計らって、最後尾の比較的穏やかそうな若者に、あの、と声をかけた。若者はどこかぽかんとした面持ちで振り返り、村瀬を見た。
「さっきの人、どうかしたんですか?」村瀬の問いに、若者は左へ右へ焦点を移動させ、ぽっかりと口を開いた。
「ああ、十分前ぐらい前に来たんすけど、働いてる職場だか何かの悪口、でかい声で喚き散らして、やめろっつってもやめないんすよ。そんで、帰れっつったら、カウンター、拳で殴り始めて、出てけっつったら、マネージャーに向かって胡椒の瓶投げたんで、それで…」若者は村瀬と目を合わすことなく、淡々と語った。
「そうなんですか…」「多分、ヌマだと思うんすけど」村瀬には若者の口にした名詞の意味が薄らと分かる思いがした。
 村瀬は店員の若者に軽く頭を下げて、街道のほうへ歩き出した。居酒屋をメインとする飲食店の灯りの前を、脱力した心持ちのまま通り過ぎた。笑い声とカラオケの声が、耳に入っては抜けた。
引きずり出された男が被っていた帽子、身に着けていたものは、中年の面差しが差した顔にはどう見ても不釣り合いなそれだった。
だが、「特攻拉麵」の若者達も、あの高さから生きた人間をドロップした。後頭部、背中を打つことが分からないわけでもないだろう。にも関わらず、あのアニメキャップにアイドルのワッペンの男をコンクリートの路上に放った。
 中学時代、不良グループの一員で、ルックスもアイドルはだしに良く、喧嘩もかなり強いという評判の男が同じクラスにいた。村瀬はその男から、わけもなく嚇されたり、尻を蹴られたり、胸倉を掴まれてしつこく引きずり回されて、痣が出来るか出来ないかの加減のパンチやキックを入れられたりというハラスメントをしばしば受けていた。それが周りがこぞって言うように、ただの悪ふざけ、一種の遊びというやつならそうなのだろうと自分で思うようにして、親にも教師にも相談しなかった。
親に言ったところで「そんなからかいなんか無視すればいい」とにべなく言い放たれるに決まっているし、弟ははしっこい子供だがまだ幼稚園児で、中学生相手に兄貴の仇討ちなど頼めるべくもない。担任は典型的な事なかれだった。
 腕力、身体能力というところで、村瀬は特にその男に劣っている気はしてはいなかった。だが、力で反攻するという発想は思い浮かばなかった。何故なら向こうは村瀬にはない、たぎるような血気を持っているし、もう体が喧嘩を覚えきっているから、そんなことを自分のような者が試みたところで、瞬く間に床に転がって泣いて、蹴り込まれながら敬語で謝っているという情景が容易に想像出来たからだ。第一、それをやったところで男子達が助けてくれるわけでもないし、女子はみんな向こうの味方になるのに決まっている。男は後年にそれを武勇伝、あるいは若かりし頃のやんちゃ話として、酒の肴やお茶受けにして一生涯の話ネタにする。
三年の二学期、その男は学校に来なくなった。噂では、先輩に連れられてどこかのスナックに行き、中学生の身で酒を飲み、居合わせた他の客と喧嘩になり、その相手を数発以上も殴り、「あばらを潰した」ということだった。仲間の不良達は、それをどことない羨望の口調でひそひそと話していた。やっぱ、半端じゃねえよな、やったのやくざだぜ、やくざ、という話が聞き取れた。
 兼田(かねだ)というその男がクラスにいなくなったことに関しては、村瀬は安堵を覚えた。だが、それから、黒のスモークシールドを貼り、アンテナを何本も立てた外車や高級車が、学校を包囲するように、地響きのようなアイドリングとともに回るようになった。ある下校時、校門の前に白のメルセデスが停車し、若いやくざが二人降りて立ち、村瀬と兼田の担任と、もう一人の体育教師が応対していた。勿論、村瀬も他の生徒達もちらりと見やって通り過ぎるだけだったが、剣道部の顧問で、校則検査で違反者にいつもびんたを食らわせているその体育教師が、自分よりも年若のやくざからの、語彙も豊富で巧みに言葉尻を捕らえるような恫喝の詰め寄りに遭い、平身低頭で謝り倒している様を見て、自分がこれまで兼田にやられていたことも相俟って、不条理だけが現実という動かざる真実を噛んだ。
その後、学校側とどういうやり取りがなされたのかは村瀬には全く分からないが、やくざが来ることはなくなった。兼田も、担任からも何の説明もされることなく不登校状態が続き、ついに卒業式にも出席しなかった。
 その二年後、兼田は死んだ。初夏の夕方、シンナーをオーバードーズした状態で国道の車道にふらふらと歩み出て、六十キロ超で走るタンクローリーに跳ね飛ばされたのだ。中学を中退同然に飛び出してから、定職にも就かず、食事もろくに摂らず、入浴もせずにシンナーと煙草に溺れる暮らしを送っていたとどこかから聞いたが、彼を破滅へ一瀉千里のシンナー漬けの生活へ追いやったものが、やはりあの暴行沙汰でやくざと因縁を持ってしまったからなのか、それとも別の理由があってのことなのか。
それでも確かに言えることは、中学時代にはスクールカースト上位の座にいた兼田には、凡人並みの物事の想像力が備わっていなかったということだ。それはついさっき、コンクリートの路面に人を投げた赤い法被の若者達も、見るからに血の気が多い男達がやっている店で感情を爆散させた男も同じだ。だから、いずれも自分のような者がどんなになりたいと望んだところでなれるはずもなく、むしろ天敵で、空手の初段取得にこぎつけてもなることが出来なかった、うんと旧いものでは「ナウい」、そのだいぶ以後の「半端じゃねえ」暴力面での「根性入ってる」「怒らせると怖い」「切れると何するか分からない」というものも、所詮は、と考えを張り巡らせつつ、パルコから生まれ変わった百貨店の脇に差しかかった。
壁際に若い男が一人立ち、短い言葉を発しティッシュを配っている。中性的な顔立ちに、白のセーターがよく似合う男が、左手にいくつか握ったティッシュを右手で抜いて村瀬に差し出す際、「おてつなぎです」と言ったが、その商業的意味を、疲弊した村瀬の頭は拾わなかった。彼はティッシュを受け取ると、その若い男を振り返ることもなく、まっすぐ、新京成に向かって歩いた。ありがとうございます、という礼を背中で聞きつつ、どこへも向けるべくもない汚辱と、はっきりと憎しみの色を帯びた怒りを胸の中に持て余していた。行き交う人達の、みんな一様に疲れて苛立った、自分のことだけで精一杯という顔が、その感情をより増幅させた。左手にはティッシュが持たれているが、右手は拳を握りしめていた。

 京成実籾で降り、徒歩五分の家路をたどった。クイックカットの角を曲がり、幅のある道を歩き、小さな看板工務店を左に曲がった所だった。黒の板張り切妻屋根の二階建て木造モルタルで、築年代は昭和後期、村瀬は乳児の時からこの家に育ち、二十六歳で結婚した時に新京成二和向台を最寄りとする八木ヶ谷の家を妻の身内から譲り受け、そちらに所帯を構えたが、子供も二人設けながらその結婚生活を九年で破綻させて、まだ母親が存命だったこの家に舞い戻った。なお父親はその四年前に、咽喉ガンですでに他界していた。
 十歳離れた弟は、その二年前に親に無断で大学を中退、家を出奔してから何の連絡もよこさず、今や生死すらも分からない。ただ、気風が自分とは全く柄違いな男であることもあり、突然訪問してくるとかで今後会うことがあるかないかはさておき、どこかで要領よくやっていればいいと思う。母親のほうは、一昨年、急性多臓器不全で逝った。
だいぶ錆ついて、所々、黒の塗装が剥げた片開きのアコーディオン門扉を開け、郵便受けをチェックすると、不動産会社のチラシが一枚と、茶封筒の手紙が一通入っていた。自分の名前が敬称付きで記されたそれを裏返し、差出人を確認すると、住所は隣の八千代市の、緑が丘を最寄りとする公団で、差出人が作山美咲さくやまみさきとあった。
 胸に渦巻く暗い不快の中に、ぱっと赤い花がパッシングしたような気持ちになった。その花は、美しい色ではなく、神経を逆立てるような毒々しい刺激をもよおす濁った赤、と形容出来るものだった。
 家に入ると灯りを点け、苦い衝撃を胸に覚えた元妻の手紙を食卓に置くと、いつものように、両親の遺影の下に置かれた仏壇に線香を一本あげ、合掌した。写真の中で、母親は気に入っていたピンクのチューリップハットを被って微笑み、隣の父親は白のワイシャツ姿で威厳ある表情で中から見つめている。職業は、父親が市の土木課に務め、母親は自宅でピアノ教室を開いていた。そのピアノは、母が亡くなったあとで売却した。
椅子に腰を下ろし、白のビニールクロスが敷かれたテーブルに肘をつき、茶封筒の手紙を開封した。不快の中に不意に緊張が挿したような心持ちだった。
 長い間ご無沙汰しています。元気でやっていますでしょうか。あの時、私が勝手な行いをしたことで離婚になったことは、本当に申し訳なく思います。謝って済むことではないですが、私なりに謝罪させていただきたいです。あの人とは、六年前に再離婚して、今は、恵梨香、博人と三人で公団に暮らしています。私はクリーニング店のパートをしています。そこでお願いがあります。もしできたら、お金を少し助けていただけますでしょうか。私も頑張っているのですが、ここ何年か、苦しい生活が続いています。生活のために借りたお金が返せないで、負債額がふくらんでいます。団地の家賃も三か月払えていなくて、今、管理事務所と話し合っているところです。できれば会って話をしたいので、連絡先を書いておきます。電話番号は090…メールアドレスは…
 村瀬は手紙を置き、両手を礼拝するように組んで、テーブルの卓上を睨んだ。
あの時の離婚で一つ幸いなことがあったとすれば、慰謝料、子供の養育費が発生しなかったことだった。何故なら、あれは妻の一存で家の主がトレードした形の離婚だったことだ。美咲が深い仲になり、堂々と家に出入りするようになった男に負けた恰好で、村瀬は夫、父親の立場を追われたことになるが、屈辱であると同時に、後悔した結婚と、無知で自己中心的な妻からの解放でもある離婚だった。子供への愛情は確かにあったが、交尾のあとでオスを食ってしまうメスのカマキリのように、自分を組み敷いて使ってきた女との間に出来た子供というところで、割りきりは早かったかもしれない。まさにそれが重い罪の意識を抱かせていた。
あれからどんな見た目をし、他者に対してどういう態度を取り、どういう言葉つきをする人間に成長していったかの推測、想像は、村瀬自身が見てきた世の中の「そういうもの」に忠実なものに留まっていた。お伽話めいた物事の奇跡などありはしないと思って生きることが、正しい人生の在り方だと思ってやってきたからだ。
つまりこの手紙で美咲が訴えている窮状は、現在数えて二十一の娘と二十歳の息子が、当たり前に経済的なあてになっていないということだ。
江中(えなか)という氏名の三十前半で職業不詳、ダンベルでせっせと鍛えたような筋肉質の体をし、顔の造りもそれなりにいいその男は、美咲の友達と称して家に上がり込み、毎晩家の飯を食い、あの時ばかりは家の前に連れ出し、どういうつもりなんだ、ここは俺の家で美咲は俺の妻だ、と、それなりに雄々しく問い詰めた村瀬に対し、何をそんなに感情的になってるのかが分からないです、と、しゃあしゃあと答えた。
“俺と美咲さんは友達です。あなたが妬くようなことは何もないですよ。彼女が自分以外の異性と話してるだけで妬けるっていうなら、何かの修繕に来る業者から出前持ちまで女性限定にしなくちゃいけないはずだし、彼女を一生家に軟禁しておかなきゃいけないとかじゃないんじゃありませんか? もしも仮に美咲さんがあなたよりもこちらに魅力を感じてるとすれば、それは条件闘争に過ぎませんよ。本当のところは彼女の心でも覗かなくちゃ分りませんけどね。あなたもお分かりでしょうけれど、男も女も、自分を真に幸せにしてくれる相手ってものは、順番は関係ないんですよ。子供にしたって、ずっと信頼を置くのは血縁者ばかりとは限らないものです。この際ばっさり言っちゃえば、俺は自信ありますね。もしあれなら、妻妾同居の男版やりませんか? 俺は全然構わないですけど”
それは本気で言ってるのかと声を荒らげた村瀬に、江中は身を反り返らせた。
“俺のことを図々しくていやらしい間男みたいな呼ばわりするんだったら、その前に、あなたもご自分の甲斐性とか、器みたいなものを省みてみたらどうでしょうか。俺は彼女の友達の裕美子(ゆみこ)さんの男友達です。その裕美子さんから、家庭生活がつまらないって美咲さんがぼやいてるっての聞いて、子供もいるなら遊び相手になってやって、美咲さんの気持ちも明るくしてやるつもりで、今の間柄になったんですよ。銀行の渉外担当の主任とかがどれぐらいの高給が保証されてんのかは分からないですけど、金、ってところでも、こっちは別に負けてないんですけどね”
“ふざけるな! どういう常識の感覚してるんだ!”村瀬が怒りに体を震わせて詰め寄ると、江中はさっと間合を取った。左前気味に構えた両拳を軽く握っていた。
“カルチャーセンターでやってる空手で、初段をお取りになってるそうですね。こっちは総合かじってます。殴りたきゃ殴ってもいいですよ。こっちもきっちり護身するまでですから。そうなりゃ、こちらは身を守っただけで、あなたは鼻を折られて前歯がなくなる上に暴行の罪状がつきます。今、俺がこの家に出入りしてることには、何の違法性もありませんからね。裁判所の接近中止命令だって、美咲さんが申し立てでもしない限り受理されませんよ。何なら出るとこ出ましょうか? 奥さんの男友達が妬ましい、とかだけじゃ、そこそこ出来る弁護士つけたって勝訴なんか勝ち取りようがないはずですよ。それぐらい分かったらどうかな、ちいとばかし世間様に体裁のいい仕事で、役職なんぞに就いてんだったらさ‥”
江中は語尾に嗤いを含めた。
村瀬は江中から顔を背け、肩を落とした。敬語を外した江中に言い知れぬ恐怖を感じ、言葉が出なくなった。江中は村瀬を馬鹿にしきった笑いを口許に薄く浮かせ、悠然と家に入った。
 その日、江中は村瀬の娘の恵(え)梨(り)香(か)と風呂に入った。美咲がバスタオルを運び、江中が恵梨香の裸の体を拭いた。村瀬はそれに怒りの目を向けた。江中の視線がそれを迎え撃った。その目には、まだ文句があるなら言ったらどうだ、という色があった。村瀬の中の怒りはたちまち萎え、代わって恐怖が込み上げた。蛇に睨まれた蛙のように顔を伏せた村瀬は、江中の嘲りを確かに感じていた。こんな時に弟がいたら、と思ったが、その弟はすでに実家を飛び出して何年も経っており、連絡先も何も分からない。
村瀬がお互い合意した上で市役所から取ってきた離婚届と家の合鍵を美咲の前に置いたのは、それから一ヶ月が経った土曜の午後のことだった。村瀬は荷物類と自分の身柄を実籾の実家に移し、別居していた。子供は二階の部屋でアニメのDⅤDを観せていた。
“今、君はどう思う?” 表情もなく用紙にサインし、印鑑を捺した美咲に、村瀬は問うた。美咲は部屋の隅に目を投げながら、煙草に火を点けた。
“俺はこれまでの八年、ずっと自分を殺して、君のわがまま放題を受け入れてきた。それはその勝手気ままな性格を、お義父さんもお義母さんも大雑把に考えすぎていて、俺がその方針に抗えなかったからというのもある。だけど、それは今さらどうにもなりはしない。俺が君と、これ以上一緒に歩んでいくことは、もうどんなに努力しても不可能だとはっきり分かったからだ。今回のことで、君はどの程度責任を感じてる? 俺の妻として、恵梨香と博人の親としての良心はあったのか”
 “良心はともかく、責任っていうのは、広く考えれば私だけの問題じゃないと思うけどね”美咲は一寸思案したのち、煙草の煙を吐きながら逆の問いを村瀬に投げかけた。
“あなたはどう思ってるの? 結婚するまで二年付き合ったけど、そもそも私のどこがよくて交際を続けたの? 実家がテーラーやっててそこそこお金があるから、セミ逆玉でも狙ったつもりだったの? それとも、私だったらやらせてくれるから?” 
 その時の、冷水を浴びせられたような心地のことは、昨日のことのように覚えている。美咲は人の負い目を突くのが上手い。村瀬は返答に窮した
“佐由美ちゃんと結婚してやれよ“大学の学友達に「将来はチェリー王国の長老」「大丈夫だよ、なかよし学級卒業して、菜の花作業所で働いてる、鼻くそが大好物のみゆきちゃんならお前と結婚してくれるよ」「千葉駅のベンチでお人形に話しかけてるあの有名な乞食婆あ、あれ、処女だって噂だぜ。お前、行けよ」などと悪乗りのからかいを受けて悩んでいる頃に、その悩みをしまい込んでいたことで、それを知るはずもない、小学生の弟が、いつもに増してませた口調でぽつりと言ったことを思い出したのもその時だった。
それが警告的な要素を帯びた提言だったことに、その時になって気づいた村瀬は、心を搔きむしりたくなる思いに駆られたが、覚えている感情は表に出さないようにした。
“二人で尾道に行った時、本当に私で大丈夫なのって私が訊いて、あなたは頷いたでしょ? それでお互い結婚を決めたわけだけど、あなたは男として、胸の中に何を準備して結婚したの? 私はあなたもよく知っての通り、一般的に言えば性格がいい女とは言えないと思うよ。そもそも、どこかが不自由な奴とか、、しわくちゃの汚い年寄りに親切にしてやれとかっていう考え方にも、高見の目線からの押しつけに感じてる人間だしね…”
美咲は言って、頬をすぼめて煙草を吸いこんだ。
“離婚っていうのは、片方だけに非があるものじゃないんだよ。あなたが人生、生活の中心に考えてるのは、奥さん、子供よりも仕事だよね。それでいて、これといった趣味もない人があなたよね。空手だって、何だか楽しくてやってるようには見えないし。それでいて、新聞の拡張も追っ払えなかった。それなりに覚悟して私と一緒になったんだろうけれど、私はあなたから何一つ与えてもらった気がしなかった。私に言わせれば当然よ。明るくて、人を笑わせるセンスがあって、話が面白い人に惹かれていくのは…”
美咲は、両親、特に母親との関係が悪い身の上だった。その母親に対し、自分が溜めてきたものを晴らすように、村瀬と同じ大学の学部に在籍していた頃から、奔放な男関係を紡いでいた。すぐに抱ける女が欲しかったのかという問いかけは、当たらずといえ遠からずだった。
村瀬は美咲の目を見ることも出来ないまま、座布団から腰を上げた。二人の署名と捺印を済ませた離婚届の用紙だけを一瞥すると、座っている美咲に背を向け、そっちで出しておいてくれ、と残して玄関へ向かった。生涯の別れ、という悲愴の思いは、さほど激しくはなかった。覚えていたものは、一生涯背負うはずだった荷物が自分の背中から勝手に降りてくれたような、これまた勝手な解放感めいた感情だった。
階段前に立ち止まると、自分の顔の一部をちぎって、飢えて倒れている人に分け与える、食べ物をモチーフにしたヒーローが活躍するアニメの音声が流れていた。階段を一段昇りかけたが、情が自分の足許に藻のように絡みつく前にという思いで、足を降ろした。美咲が追ってくることはなかった。靴を履き、玄関の外に出た時、かすかというよりはいくらか勢いのある悲しみの火が胸に点いた。三ヶ月後にリーマンショックが待ち構えている、肌寒く、薄手の上着が要る、梅雨の日だった。
それからは実家で母と暮らし、妻子との別れから一年ほど経ったのち、村瀬は銀行を退職した。製造業の派遣切りが社会問題化し、清掃、倉庫業、警備業などの産業に人が殺到していた。退職の理由は、元々自分の性格に合わず、無理をして選んだ職種だったこともあったが、打撃を受けて経済的に追い詰められた小売業者や小口の商売を営む人達からの回収の話が融資課の連中から入ってくること、さして将来性のないデリバティブを勧める自らの業務に精神的な負担を感じつつあったこと、また、離婚をした身で職場に居続けることにも耐えられなかったからだった。
退職金では年金受給者の母親にだいぶ孝行し、それから一年弱、失業保険をもらって暮らしたのち、今のスーパーに再就職した。面接の時、定年間際といった年恰好をした当時の店長代理は村瀬の学歴と職歴が記された履歴書の書面をまじまじと見て、「何故、あなたのような人がうちみたいな所に…」と言って苦笑したが、少なくとも銀行よりは合うだろうと思っていた。
それから震災と原発事故、病災禍とその五類分類、仮収息の政令発表、ウクライナ情勢とそれに伴うインフレのさなかに母が逝去し、その間、さしたる楽しみも持つことなく働き続けてきた。稼いだ金は、みんな貯金に回した。
再婚に至る恋愛などをしてみようという意思は起こらなかった。女に興味がないはずもなく、セックスの快感も勿論分かるが、自分は生涯寄り添う相手の人選に失敗し、未来の時間に幸せになる可能性が薄い人間を二人も作り、その人間達をおそらく一生に渡るだろう別れの際に最後の挨拶もすることなく置いてきた経緯を持つ以上、そんな資格などない、という思いを仕事に叩きつけるようにして、今日までの道を走ってきた。その時間の中で、見た目も年相応に老けた。唯一の救いは、家系のおかげで禿げるのを免れており、ごく少量の白髪はありながらもふさふさした髪をしていることだった。
いろいろなそんなことを思い出して短い溜息をついでから、元妻の手紙を封筒に戻した村瀬は、丸い壁掛け時計に目をやった。形だけの詫びなどをもらったところで、美咲に経済的な援助などする気はさらさらない。時刻は九時半を過ぎていた。腰を上げて、居間に移り、折り畳み式の円卓に載っているリモコンを取ってテレビをつけると、若手の大学教授や新進気鋭の社会派作家、ここのところ露出の増えている元与党議員の秘書で、リベラル寄りの発言をするコメンテーターの男など十名あまりが丸いテーブルを囲んで、口角泡を飛ばして上げ足を取り合う討論番組が映し出された。今回の議論テーマは、「定住権を得た難民の参政権について」というもののようだった。
「それは国家の乗っ取りを容認するということですよ!」という誰かの声を、「落ち着きましょうよ」と元秘書が穏やかに制する声を聞きながら、村瀬はハンガーに掛けたジャンパーのポケットから、津田沼で男から受け取ったティッシュを出した。
出来すぎているまでに端正なルックスに値の張るメンズファッションがよく載った男が発していた、おてつなぎ、という言葉が気になり始めていた。声かけがシンプルなだけにある種のミステリアスさに吸いつけられる感じがした。
ティッシュには光沢紙の広告が挿されており、「手繋ぎ式でときめきをシェア」という赤い字が白地の紙に印字され、年齢不問、五十名定員、と記され、その脇には繋いだ男女の手とハートの無色のイラスト、QRコードが印刷されている。
「そんなものを認めたら、どんなに恐ろしいことになるのか、想像がつきますか? これはあなたが戦争難民問題というものを、他人事だと考えているということですよ!」テレビからのがなり声を聞きながら、村瀬はスマホでコードを読み込んだ。
 すぐに応募フォームが表示され、村瀬は氏名と生年月日と住所を打ち込んだ。素性の分からないその集まりに、自分の個人情報をさらすことの危機意識が作動しなかった。ただただ、つまらないことに厭なことが挿入されるばかりの、三十幾年間続いてきた日常に楔を打ち込むような刺激が欲しい思いだけがあった。
「次へ」のボタンをクリックすると、開催日時と場所が表示された。今週日曜、午後二時より、津田沼文化ホールにて、とあった。今なら有給の申請も間に合う。なお、参加料金は当日払いで三千円だという。エントリーを済ませた村瀬はスマホを握りしめ、深い息をついだ。テレビからは、これを愛という感情だけでやるというなら命懸けになります、自分も血を流さなければ、という誰かの声が流れている。その言葉が一瞬、どこかからの暗示のように思えたが、今日の午後にあの親子から受けた辱しめと、変わらない厚かましさを維持している美咲の手紙へのうんざりする思いから逃避したい思いが優勢だった。
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