手繋ぎ蝶

楠丸

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最期の伝言

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~最期の伝言~
 午前の時間だった。江戸川区の「パンダ作業所」の玄関前で、施設長の木島と、職員扱いで雇われている長身の多田が、何かを吞み込みかねた顔で煙草を燻らせている。
 「ここらでやるか」脊柱側彎の木島が、口に当てた煙草の煙を吸い吐きしながら言い、多田は家並の向こうに広がる曇り空に目を張っている。
 「あれから半年近く経つがな、追跡も出して、商売の場所と、腹ぼての女房と一緒の家(やさ)も掴んでる」木島は吸い終えた煙草を携帯灰皿になすると、忌々しげな舌打ちを響かせた。
 「生かしときゃ、生かしとく分だけ、俺達東京の情報が漏れるリスクが増すんだ。あん時、あのまま帰したのは、俺の手落ちだったよ」木島の述べに、隣の多田が、次の言葉を期待するように、元締を見た。
 「人選と指揮はお前に任せるよ」「なら、うってつけのがいます。平井んとこに出入りしてる、あいつです」「あいつが生爪で助命嘆願した、あの亮(りょう)ってガキだな」「はい。いかにもな奴を使えば、あれが相手じゃ手こずります。あいつは女装も様んなるし、女の声真似って特技も持ってます。その上‥」多田は煙草をなすり消した。
 「消し勝手がいいと来りゃ、いませんよ、あいつ以外には」多田の頬に冷気を帯びた笑いが刻まれた。
 「分かった。そいつで行こう。お前が言うなら間違いねえ」木島は雲の張った空に目を馳せ見た。
 「また引っ張り戻す算段も打ってたんだがな‥」木島の声が空に吸われるように消えた。
 「決行は、早きゃ今日の晩だ。張りつきと、処理役を送れ」木島が言い、多田が肩ごとの頷きを返した。
 十七時過ぎの時刻だった。義毅とまどかの所帯のワイドサイズのテレビには、赤い背景処理が施された男の写真が大写しになっていた。画像は粗いが、異常な細さの形をした、吊り上がった目を擁する平たい顔がよく分かる一枚で、「捜査特別報奨金七百万円 尊教純法による大規模詐欺及び人身略取取引、殺人事件の捜査に協力する会懸賞金」とテロップ表示がされている。
「どのような些細な情報でも」と男のキャスターが読み、ニュースは、サッカーのベネズエラ戦で日本が勝利したというものに変わった。
「ビートル、行くか?」テレビの前でまどかの肩を抱いた義毅が言った店名は、先月、三咲駅近くにオープンしたバーだった。BGMにオールディーズが流れ、フード、酒の種類が充実した店で、義毅と同年代の年齢恰好をした店主が冗談好きで、よく客を笑わせる好軒だ。
「俺、今日、酒が飲みてえ」「私は今日は、静かなほうがいいかな。胎教の上でも」「そうか」義毅はまどかの肩から腕を外して立ち上がった。
「閉めのパスタ、作っといてくれ。ちょいと一人で行ってくる。飲みすぎねえようにはする‥」「分かった。ボンゴレでいい?」「何でもいいよ」言って、ハンガーに掛かるジャケットを突っかけた義毅の首に、まどかがちょこちょことした手つきでマフラーを巻いた。
まどかが義毅のために編んだ、クリーム色をした毛糸のマフラーだった。
「九時かそこらには戻るよ」玄関前に立つまどかにさっと挙手した義毅は、ゆっくりと、咲が丘二丁目の路地を歩き始めた。道の途中には、知的障害者のグループホームがあり、言葉にはなっていないが何かの意思表示をしているらしい声が、いつも漏れている。義毅は、玄関前で煙草の一服をしている職員の男に「こんばんは」と声をかけ、男も同じ言葉を返した。その職員のジャンパーの裾を、背の小さな利用者の男子が掴んで、人や車の行き交う道を眺めている。義毅はその男子の頭をさっと撫でて、ドラッグストアや各種飲食店、スーパーの並ぶ57号へ出、三咲方面へ進んだ。
三咲駅から伸びる通りに面した、カブト虫のイラストが入った木看板を掲げる「ビートル」は、今日も席の埋まり具合は良かったが、義毅はカウンターの角を確保した。ウォッカソーダを飲みながら、チョリソー盛り合わせ、海鮮のマリネ、サラダをつまみながら、店主、スタッフと軽妙なジョーク、ギャグを交わし、程よく、というところをだいぶ過ぎた酔い方をした辺りで会計を済ませた。ウォッカソーダは六杯飲んだ。使った額は、カード決済で六千円超だった。店の席は、「尊教純法」問題の話題で持ち切りだったが、客の一人が、残党が何をするか分からないから怖いよ、と言っていた。その客はさらに、逮捕を免れた連中がいつか看板をすげ替えて、また再興する可能性にも言及していた。
店を出、駅舎と駐輪場に挟まれる細い路地に入り、道の半ばに差しかかった時、その道の端にうずくまっている少女を見つけた。
膝上スカートの下にタイツを履いているが、上着を着ていないセーラー服の背中が寒々とした、いたいけな女の子だった。
少女は両掌で顔を覆い、細い声の泣き声を立てていた。身の丈、二本の三つ編みをした髪のセンスなどを見る限りでは、高校というよりは中学生に見える。
「お姉さん、どうした?」義毅が肩に手を添えて声かけしたが、少女は泣くばかりだった。
「何か困ったことがあったんだったら‥」と、酔ってもつれた舌の口調で言いかけた時、少女がすっくと立ち上がった。
酔っている義毅は、自分の目の下に銀色に光ったものが何を意味するかを認識しなかった。
裂くような痛みとともに、腹腔がどわっと一挙に熱くなった。腹の中で猛火が起こった、という感じだった。
その時になり、刃渡り17センチの柳刃包丁が自分の腹に突き立っていることが理解出来た。
筋状の血鉄砲が噴き、少女の着ている黒地のセーラー服を赤く濡らした。少女の顔を見ると、それは可愛い造りをした若い男の顔だった。
まぎれもない、去年秋、東京グループの本部であるパンダ作業所で、義毅が自分の生爪を剥ぐことで、その命を救った若者。年齢というより、自閉の傾向によって、世の中のことを何も知らず、浅く薄い考えから、憧れだけで詰所に出入りしていた男。名前は、亮、というらしい。
   「てめえ!」義毅はロリータ女装の亮の胸倉を両手で掴み上げ、体重の軽いその体を下から持ち上げ、浮かせた。
   烈しく憤慨しながら死を目前にした者の、ごう、という風鳴きに似た吐息と、その憤りの感情すらも識知しない、平然とした鼻呼吸が、駐輪場の灯りに照らされる小路に被さり、如月終わりの夜の空気を鞣した。
   亮は義毅のジャケット襟を掴み、肘を大きく引き、さらに、ざくり、ざくりと、二回、三回と刺突した。
   「‥てめえ、この野郎‥」気道にまでせり上がって溢れた血に声を枯れさせて怒号した義毅は、涼の髪を掴んだ。髪が丸ごと抜け、長めのスポーツ刈りをした頭が現れた。毟り剥がされたウィッグが投げ捨てられた。
次に亮の刃は、義毅の肋骨の間から肺にぬめり込んだ。義毅は、自分の腹と胸から流れ出した血溜まりの上に膝から崩れた。血鉄砲は、脈拍の動きに合わせて、複数本の筋を作って盛大に撒かれていた。
 「‥待てよ‥聞いてけよ‥俺の話を‥」柄まで血に濡れた包丁を握ったまま走り出した、亮のセーラー服の裾を、赤鬼のそれのようになった義毅の手が掴み、引いた。
 「‥お前みたいな奴は‥この世界で‥てめえがなりてえって望むようには‥どんだけ望んでもなれねえようになってんだよ‥散々泣いて喚いて‥こうなりてえって‥神様にねだってもな‥第一‥お前が東京で‥何の役に立ってるっつうんだ‥何の役に立つって見込みがあったんだよ‥そいつを弁えねえで‥分相応‥てめえが持ってる‥取柄相応の夢を見ようとしなかったことが‥お前の人生の失敗だったんだよ‥心を‥素直にして‥心がある人間につこうとしなかったことが‥な‥」義毅の手が裾からずるりと下がり、亮の足首を掴み、顎が血溜まりの路面に着いた。
 「‥今なら遅くねえ‥警察に‥自首しろ‥お前だったら‥知能検査の結果のいかんで‥情状酌量の余地があると見なされるぜ‥利用する側がちらつかせる餌の‥金の話なんか‥始めからねえものと思えよ‥でなきゃ‥お前‥お前は‥死‥」義毅の鼻と口から噴いた肺出血が、言葉を塞いだ。
 亮の眉が吊り上がり、大きく開いた口から言葉を成さない叫びが上がった。すでに全身が血にまみれている義毅の体を跨ぎ、逆手に握った包丁で、その背中に幾度もの刺し下しを入れた。
 義毅の体が、刺突の一回ごとに反った。ひと刺しごとに、短い声が義毅の口から漏れた。動きを止めた義毅を、亮はその命の所在を確かめるように見下ろし、包丁を握ったまま、八木ヶ谷方面へと走り出した。
 義毅は、路地一面に撒かれた血に頬を着けたまま、プラチナの結婚指輪が薬指に光る左手で、懐のイタリア製煙草とジッポライターをまさぐって、震える手で点火しようとした。ライターから伸びた火は、赤く濡れた煙草に点くことはなかった。やがて、真っ赤に充血した、見開かれたままの目から、磯の潮が引くように、生命の光が消えていった。
 クリーム色のマフラーは血溜まりに浸され、赤く染まっていた。
 煙草を歯に挟んだ義毅の骸は、セットの乱れたリーゼントの髪を夜風にそよがれながら、血の沼に四肢を落として地に着いていた。
 飲食店と医院が建つ踏切前の一角に停車している黒のワゴン車の前に、男が立っていた。見て特に変わった所のない、ビジネススーツ姿の男だった。血濡れのセーラー服姿で包丁片手に息せき切って走ってやってきた亮を、男はスライドドアを開けて乗せ、すぐに自分も乗り込んだ。
 「あの、金は‥」「あとでくれてやる。その時に、お前の昇格の話もしよう」「本当すか」亮は血の飛沫が飛び散った顔に、にちゃりとした笑いを浮かべた。
 車は、白井を過ぎた、鬱蒼と雑木が立ち、雑草が茂る地点に入り、それほど高くない煙突を擁する建物の前に停まった。
 「さあ、ここだ」男が言って指した建物には、「斎場」の看板が掛かっている。亮の顔にかすかな不安の色が浮かんだ。
「お金、いくらもらえるんすか?」左右を男達に挟まれて降りた亮は、にやついた顔を作り直して問うた。
「まあ、そんなに急っつくな。慌てる乞食は何とやらだ。中で話をしようじゃないか」言った男は、南京錠の鍵を開け、亮を促して入った。後ろに二人の男が続いた。
八十坪ほどの空間に、三台の分骨台が置かれ、四つの竈の扉が並んでいる。亮は、はっとなった顔持ちでそれらを見回し、先からやり取りを仕切っている男の顔を見た。
「あの、金は」「いい仕事をしたな。ありがとさん」男が言い、さっと亮の頸を手で固定し、鳩尾に膝を打ち上げた。潰れた声で呻いた亮の髪を後ろの男が引き、脇の男が、瞬きのうちに小さなブレードを手の中に光らせた。その一瞬に、亮の喉は横真一文字に割れ、食道の内壁部が露出し、血がしぶいた。
男達が手を離した亮の体は膝から力を失い、コンクリート床に額を打ちつけるように、前にのめって倒れた。
他人の血に濡れたセーラー服を、さらに自らの血に汚した亮は、斎場のコンクリート床の上に、命の消えた体を蛙のように貼りつかせていた。
「焼け」仕切りの男が亮の死体を顎で指して命じ、二人の男が亮の死体を手分けして、焼き台に載せた。見開かれたままの死体の目は、死んでもなお、判断力が及んでいない人間のそれをしていた。
焼き台は竈に入れられ、男の一人がスイッチを押し、火力調整のレバーをフルにした。火の燃え盛る音が、重い扉の中から響きを増した。
「俺は今から小金井の詰所だ。お前ら、厄介事は完全に消えたって報告を、元締に入れることを忘れんなよ」男は竈の扉の中から立つ火の音を流すようにして、煙草を口端脇に咥え、呟き放った。
話には聞いているが、まだ面識は持っていないまどかからの電話を受けた村瀬は、来るべき時が来たと思い、取り乱すことはなかった。何が起こったかは、まだ博人には伏せて、身の回りの物だけを持って、船橋市内の病院へ向かった。
安置室には、着衣がなく、肩から入墨を覗かせた状態で白いシーツを体に、覆い打ちの白布を顔に被せられ、ストレッチャーに横たわった義毅の遺骸があり、その前に、顔半分を伸ばした前髪で隠した女と、それよりも一回り若い年齢程をした、スーツの姿をした男が立ち、村瀬に頭を下げた。
「船橋署の鴨下と申します」男は言い、顔写真と記章の入った手帳を見せた。
「結論から言いますと、事件になります。これから検視と捜査になりますが、弟さんの身辺を調査させていただくことも職務に含まれることをご了承いただけますでしょうか」鴨下の承諾要請に頷いた村瀬は、まどかに向き直った。
「義毅の兄で、豊文と言います」「妻のまどかと申します。博人君、恵梨香さんと面識を持っております」村瀬とまどかは、初対面の挨拶を省き、互いに釈を交わした。
村瀬は義毅の顔に掛かる覆い打ちをめくった。布の下から現れた弟の顔は、何かに怒った表情をしているように村瀬には見えた。仮に自分の命を奪った相手への怒りもあるとしても、言ってみれば、その相手が背負ったものへの憤激が込められているようにも思える。だが、命の尽きる瞬間に彼が何を思ったかは、今、本人が物言わぬ亡骸となってしまった以上、残された人間達には掴みようがない。
「こいつが裏の渡世を歩んできたことは、私は去年に再会した時から察していました‥」村瀬は低く落とした声で、まどか、鴨下という私服の巡査、どちらのみというわけでもない風に話し始めた。
「だけど、それはこいつの人間的な根っこが悪人だからというわけじゃありません。子供の頃から、私とは性格向きが真逆で、常識理屈に嵌まってこじんまりと生きていくことは、こいつにとっては窮屈で退屈極まりなかったからだと思います。だけど、だいたいどういった稼業か想像がついてるなりに言えば、人が抱える疚しさを飯の種にしてたってところで、やはりどう考えても、少なくとも、生き方そのものは、私には相容れませんでした。それでも、こいつのお陰で助かったことがあります。私の子供達のこと、それに、私の恋人のこと‥」「まだご存じないでしょうか」述べた村瀬に、涙の目をしたまどかが挿した。
「合同会社を設立して、福祉事業所をやっておりました。従業員数は、彼を含めて三名でした」「そうなんですか‥」
顔に小さな驚きを浮かせた村瀬に、まどかは続けた。
「場所は、鎌ヶ谷の道野辺で、成人の知的・精神・身体の三障害を持つ人達の日中一時支援で、一般の子供達が来て触れ合うっていう内容の、幼障統合事業所です」「そうですか。それは何というか、こいつの柄にもない‥」村瀬は義毅の遺骸を目で指して、呆れたように呟いた。
「でも、十二月に開所してから、成人の利用者さん方と、子供達の保護者さん方から、絶大な信頼を寄せられていたんです。あの船橋のNPOのことを始めとする福祉施設の不祥事が相次いでいて、誰を信用していいのか分からなくなってる世の中で。子供達の中に一人、虐待のトラウマで、最初は怯えていて、誰にも心を開かなかった女の子がいたそうなんですけど、その子が、打って変わって明るくなったって言ってました」
村瀬は、憤ったような表情を刻む義毅の死顔をもう一度見た。まどかが述べたことに、間違いはないと強く思った。
今、その亡骸を横たえている弟は、確かに一般社会の枠外に身を置く生き方を長く送ってきた。あの大雨の夕方、走って追う兄の目の先から、傘も点さずに黄色いTシャツの背中を遠ざけた時から始まった、越法人生。
それでも彼は、単なる屑とは大きく異なる人間だったのだ。
「彼の事業は、私が継ぎます」まどかは凛と言って、すん、と鼻を啜った。
「お話にはお聞きになっていたことと思いますが、私は請負型の形態で働く社会福祉士です。これからスタッフの人達にこの件をお知らせして、自主的に産休を摂って、出産が終わり次第、すぐに再開するつもりです」まどかが述べ、村瀬がまた義毅の顔に目を遣った時、「あの‥」と鴨下が切り出した。
 「事件の場合、検視には数日ほどかかってしまうことをご了承下さい。葬儀などをなるべく早く行われて、お別れを執り行いたいというお気持ちは、私も充分に察しております。そして、これは捜査が進み次第、改めてお教えする義務のあることですが、現場近くの駐輪場に設置された防犯カメラに、学校の、女子生徒の制服のようなものを着た若い男が、刃物のような物を持って走り去る様子が映っているということです」鴨下が言った時、どこかに身を潜めている李の命を受けた者による報復かと思っていた村瀬は、自分のその推測に違和感を覚え始めた。
 これは内ゲバだ。弟が所属していた、社会に背く組織の。それを村瀬の思考が巡り捉えた時、彼の中に仇討ちを望む念が燃えた。
 だが、自分には、菜実がいる。それを行えば、これから彼女と紡いでいきたいと念じる幸せが灰燼に帰することになり、恵梨香、博人は母親のみならず、父親までが罪人となった身の上になる。そうなれば、義毅、まどかの働きが取っ掛かりになって更生した、その二人の子供にはまた絶望を与え、以前のような、在りながら無く、亡いことも同然の人生へ流してしまう。村瀬の葛藤は、残った人間達を守る方向へ針を傾けた。
 「時間がかかることは構いません。生前には、自分にもしものことがあったら、通夜も葬儀も行わず、直葬にしてくれ、と言っていましたので」「分かりました。なるべく早くにご遺体をお返しするように努めます」まどかと鴨下がやり取りを交わし、村瀬は踵を安置室の扉へ向けた。
 その時、不意にどろどろと、目と鼻から熱いものが流れ出し、肩が震え始めた。村瀬は扉のほうを向いたまま、咽びを圧した。
 村瀬が泣いていることを察したまどかが、小刻みに鼻を鳴らしている音も、彼の背後からも聞こえ始めた。
 村瀬は、拳で涙を拭いながら、動かざる弟の亡骸をもう一度見て、覆い打ちをその顔に戻した。
 「今日は行きます。子供が待っていますので」村瀬が言った時、まどかが彼の前に進み出、顔の右半分を覆う前髪を、手袋の右手でたくし上げた。
 水分の蒸発した白い眼球と、頬が焼け落ちて、顎骨と、奥歯の歯列が剥き出しになった、赤紫色をしたケロイドの顔が露わになり、村瀬の呼吸が一瞬止まった。
 「私と義毅さんが出会った時、彼が一般世間の常識からかけ離れた世界に棲む人だということは、私も分かっていました。それでも私が彼に惹かれて、彼が私を女として認めてくれたことの背景には、職業の後ろ暗さと、その人の人間的な素が一致しないことも時としてあるという、知る人は知ってる世の中の真実と、彼が人としての大きさを持ってたことにあるんです」
 言って前髪を下ろしたまどかの片目からも涙が溢れ出していた。村瀬は、圧そうにも圧せない嗚咽を腹から断続していた。
 「同じ警察官である、僕の父が今も言っていることですが」鴨下が顔を上げ、二人に語りかけるように切り出した。
 「昔にはシンプルに見た目などで判別されていた、一般社会とアウトロー社会の棲み分けが、これからもボーダーレス化していくことは、もう打つ手がないということです。人の悲しみが分からない、それでいて、大人なのに欲望を抑えられないような人間が、人を助ける側、善を行う側の職業に就いて、平然と業務を営んで、名声を得ていて、その一方で、本来的に虫も殺せないような性格をした人が、犯罪側に組み込まれていって、またはやむなく犯罪に手を染めなくてはいけなくなる、という流れです。それは、まだ経験が浅い僕も、警察の業務の中でつぶさに感じてることです。酷い内容の捜査資料などを嫌でも見なければいけないし、物凄く怖くて、悲しい話も聞かなくてはいけないから‥」きらきらとした若い光を宿す鴨下の目に、言葉のフェイドとともに悲しみが湛えられた。
 「不法行為には妥協しちゃいけない。だけど、いわゆる、社会に背くような生き方をしてる人達の中にも、心のどこかに優しい部分を持ってる人間はいるから、犯罪は厳しく取り締まっても、そこに更生の余地を見出して、生きる道を探してやるっていう在り方を社会はするべきだって言うのが父の考えです。福祉の言葉でいうソーシャルインクルージョンですね。誰も排除されない社会‥」
 村瀬は義毅の顔にもう一度目を留めた。感謝の思いがさらなる惜別の念を起こし、また、咽びが腹から搾り出された。
 弟が自分達を助けてくれたことを、決して無にはしないという誓いがもたげ、涙の顔を上げた。
 「検視が終わったあとで、私の携帯に連絡を下さい。その時に、火葬の段取りなどをお話したいので‥」まどかに向けた村瀬の語尾が涙に消えた。
 「義毅さんは、いつも言ってました‥」まどかが言い、村瀬は彼女に顔を向けた。
 「箸棒者は、本当は、怒る時にゃきっちり怒るって厳しさを含む本当の愛に飢えてる。生まれつきの糞野郎は、見た目や社会的な肩書だけじゃ分からねえことがたくさんある。だから、まだ可愛げを残してる箸棒を、本物の糞野郎にしねえために必要なもんは本気さだ、と」まどかの述べは、村瀬がよく知る弟の言葉遣いを克明に再現していた。
 村瀬は涙を拭い切ると、まどかと鴨下に去りの釈をし、安置室を出た。
 人気のない、白い廊下に靴音を響かせながら、博人、恵梨香には、このことを何日かは伏せておこうと決めた。特に博人には、これ以上の恐怖、不安を与えるわけにはいかない。
 留守番の博人には、適当に入浴して、遅ければ先に寝ていろと言ってあるが、戻りは早いほうがいい。村瀬は北習志野駅前のロータリーからタクシーに乗り、壮年の運転手に、実籾まで、と告げた。運転手は、はい、と、村瀬の顔色、残る涙を見て、愛想の調子は抑えながらも、しっかりとした返事をした。
~修羅の常不軽~
 恵みの家に、綺麗に下ろしたコートルックのスーツを着た男が二人訪ねてきた時、応対したスタッフは、つい先日に入職した、園部亜理紗(そのべありさ)という、夕夏と同世代の年齢をした女子だった。
 「こんばんは。すみません、こちらの利用者様の池内菜実さんはいらっしゃいますでしょうか」「どちら様でしょうか」園部が問うた時、菜実が脱衣場のカーテンから顔を出した。
 「菜実、私です‥」ネグリジェタイプのスリーピングウエアの姿をした菜実が、奥から玄関前に歩み出た。菜実は夕食を食べ、入浴を終えた所だった。
 「池内さんご本人でいらっしゃいますね。急で申し訳ございません」コートルックの男達は同時礼で腰を折ると、エンブレム入りの手帳を提示した。
 「警視庁の組織犯罪対策部の者です」痩せ型の男が省庁名と所属セクションを名乗ると、亜理紗の顔が緊張に攣った。菜実の表情は洋然としたままだった。もう一人の、岩のようながっちりした体格をした男は、それを補佐するように無言で立っている。
 「先日、略取の被害に遭われて、私人的に救出されたというお話が警察のほうにも入っておりまして、今後、同様の事件が発生する可能性を踏まえて、捜査資料の採取という意味合いで、少しお話を伺いたいので、署のほうにご同行いただきたいのですが。急ですが、お時間は三十分から四十分程度で、記録が終わり次第、こちらにお送りいたしますので、よろしいでしょうか」
 警視庁員を名乗った男の見た目は常識人然としており、言葉つきも折り目正しい。
 「行く‥」緊張した面持ちをした亜理紗を前に菜実は言い、男の片方が「ご足労をおかけします」と挨拶した。
 「お着替えしてくるから、待ってて下さい」菜実は言って、二階へ昇った。人生経験上、初めてといっていいことに、うろたえ加減の亜理紗は、事の成り行きを見守るようにして立っているだけだった。
 ピンクのトレーナーの上に緑のパーカー、赤の膝下スカートという服装に着替え、色合を抑え目にした化粧をし、携帯などを入れた小さなバッグを肩から提げた菜実は、パンプスを履いて、男達のあとに着くようにしてホームを出た。
 恵みの家から数十メートル離れた路地に停まっていた車は、菜実には車種名の分からない、大きく頑丈そうな外観をした、高級なものらしい外車だった。それは菜実をしても、警察の車だと言われても違和感を感じるデザインのものだ。
 「乗れよ」警察だと名乗った男が、その外車を指して、がらりと言葉つきを変えて命じた。先までの慇懃さが消え、先までいかにも公務員然としていたその顔に、悪辣な笑いが刻まれている。
 「嫌!」菜実はそれとない摺り足で後ろへ移動し、男達と自分の体の間合を計りながら、ぴしっとした拒否の言葉を発した。痩せ型の男が潰れた笑いを短く吐いた。
 「大声でも出すか? それとも防犯ブザー、鳴らすか? いいんだぞ、どっちでも好きなほうをやりゃ。ただし、お前の大切な人間の命も尊厳も、今もまだ俺らの手の中に握られてることを忘れないほうがいいぜ」痩せ型の男が言い、岩のような男も笑った。
 「乗れ。でなきゃ、大切な村瀬さんが泣くことになるぞ。泣いた挙句に、たっぷりと苦しんで死んでいくんだ。お前が素直に従うかどうかにかかってるんだぜ。どうする。お前が従わねえなら、こっちで勝手に嬲り殺しにするまでだけどな。ゆっくり、ゆっくりとね」体格のいい男が低い迫力を込めた声で言った時、菜実はその体に忍ばせていた体勢を次第に解いた。
 恵梨香が拉致された場所は、鬼越ライラック園の塀に沿って五十メーターほどを歩いた地点だった。その日の彼女は、日勤を終えてステイ先である裕子の家に帰ろうとしていた。塀に沿って鬼越駅に向かっている時、後ろから、黒塗りのワゴン車が幅を寄せてきて、男が三人降りて、恵梨香の脇と脚を抱えて、車に押し込んだ。恵梨香は声も言葉も出すことなく口許を結び縛り、自分の脇を抱えている男を睨んだ。周囲に人通りはなかった。
 「家族に会わせてやるよ。親子で揃って死ねるんだ。その前に、親父と弟の目の前で、俺らでお前の体にたっぷり極楽見せてやっからな、感謝しな。親父のいい人にも会えるぜ」後部座席で、隣の男が囁いた。
 四人の男と、気丈な顔を崩さない恵梨香を乗せたワゴン車は、京葉道路の方面へタイヤを鳴らして発進し、ラフなハンドル操作で、飛ばし気味の速度で進んだ。
 家の前で料金を支払い、タクシーを降りた村瀬は、アコーディオン門が開いたままになっていることに違和を覚えた。
 ノブを回し、ドアを引くと、施錠がされていなかった。
 劇した不安に思考を絡められ、靴を脱ぎ捨てて家に入った。居間の灯り、テレビは点いたままだった。二階へ上がり、二つの部屋を検め、トイレ、浴室を検めたが、博人の姿はなかった。玄関をもう一度見ると、博人の靴はそのままだった。居間の円卓には、蓋を開けたままのペットボトルのコーラが気が抜けて置かれていた。 
 恐怖と絶望が塊のようになって肚からせり上がった時、携帯がバイブした。画面を見ると、「博人」という発信者の名前が表示されていた。去年、博人に買ってやったスマホからだった。
 通話ボタンを押して出た時、初めに聞こえたものは、しゃくるような呼吸だった。
 「もしもし! 博人! 今、どこにいるんだ!」村瀬が呼びかけた時、背後から複数の男の笑いが聞こえ、恐怖に瀕した呼吸は、泣き声に変わった。
 「博人!」村瀬の叫びが通話口に反響した。携帯を持つ手が震え、村瀬の呼吸も乱れた。
 「お父さん‥俺、今、山の中にいるんだ。お姉ちゃんと、こないだ、お父さんが写真見せてくれたなみさんが一緒にいるんだよ‥」
 騒然となった思考の中で、村瀬は事態を呑み込んだ。
 「どうも、村瀬さん。尊教純法の李です」通話口から、臓腑に切り込む高い声が流れた。
 「俺の子供と菜実をどこへやった!」怒りと恐怖が混じり合った震え声で、村瀬は叫んだ。
 「報道をご覧になって知っていることとは思いますが、私、この国の官憲が定める賞金首になってしまいました。逮捕の手が及べば、どれだけ控訴しても死刑台行きは免れません。法務省の執行印で命がなくなるまでの時間、もう一度だけでも、あなたといろいろとお話がしたくてね。息子さん、娘さん、池内さんも交えてね。まあ、絞首台の露となって消えていく人間の最後の頼みだと思って下さいよ。ちなみに言っておきますが、大切な三人の方は、今は丁重に扱っております。ただし、あなたが今、この場で警察に通報するようなことをする場合、その限りではありませんので。明後日辺り、家に送りつけられる体の一部が、菜実さんの生首か、息子さんのペニスか、抉り取られた娘さんの乳房かは、ご自由に想像なさって下さい」通話口向こうの李の言葉の最後尾には、短い笑いが含まれた。
 尊教純法は、その命を断たれた。罪状では、李と、その周辺者は極刑。失うものを失った者達による、行き掛けの駄賃。
 奴らは殺す気だ。自分と、娘、息子、菜実を。
 昏い霧が、まるで劇場の幕のように村瀬の思考界に降りていく。自分の生が、今日、終わりを迎える。
 だが、それならそれで、一矢でも半矢でも報いたい。それから死にたい。四肢の力が虚脱していく感覚を覚えながら、村瀬は、自分の肚が据わっていくのを感じていた。
 「使いの車が、あなたの家の近くでスタンバってます。迎えに来たら乗って下さい。会えますから、大切な人達に。それでは、のちほど‥」李は言って、通話を切った。
 それから程なくして、家前に車が停まる音がし、ゆっくりとしたノックが、二回、鳴った。
 村瀬がドアを開けると、見覚えのない顔の男と、行川が立っていた。射すくめる「の」の字の目が変わらない行川の顔には、村瀬によってつけられた傷の跡がまだ残っていた。知らない顔の男と行川に前後を囲まれ、家の前に停車したブルーバードに、村瀬は乗った。
 街道を南東部へ下る車の中で、何かの会話が交わされることはなく、吐息だけが静かに響いていたが、四十分ほどの時間を経て、スローガンめいた「反対」「粉砕」などと読み取れる仰々しい太文字が描かれた野立看板が至る所に並び、車体に「連盟」と書かれたマイクロバスが焼き捨てられた、竹林に囲まれた雑地に車は入った。
 ブルーバードが停まったのは、木造の、朽ちた小屋の前だった。灯りの中、割れた曇りガラスの向こうに人影が見えた。
 知らぬ顔の男に襟首を掴まれ、後ろを行川が歩く形で、小屋に入った。
村瀬はあっと息を呑んだ。壁沿いに、陰毛までが露わにされた全裸の恵梨香と、同じく全裸にされた博人が、男達に左右、前後を挟まれ、髪を掴まれて立たされている。二人の手首は紐のようなもので縛られているらしいことが分かった。博人は泣かんばかりだが、恵梨香は口をきりりと結び、覚悟の気迫のようなものが籠った表情をしている。
扉側の壁には、スリップとパンティの下着姿にされた菜実が、喉元に渡数の短いナイフを当てられ、座らされていた。
「よくぞいらっしゃいました、村瀬さん‥」西側の壁に立っていた李が、村瀬の前に進み出た。
男達は、李、行川を含めて六人いる。
「ご存じの通り、私は今、賞金首です。その賞金首なりに、口惜しさも味わってます。こうなる前に、是非ともあなたを取り込んで、教団を伸ばしたかった。あなたの働きで、司法、官憲も味方につける算段を思い描いていたところで、惜しいことになったわけです」「弟を殺したのは、お前らの手の奴か」「それは知りません。あなたに弟さんがいらっしゃったことは、今日、初めて知りましたよ」村瀬に問われ、答えた李の顔と口調に、嘘は覗えなかった。
 「分け前、もらっていただけませんか」李の声が低く沈んだ。
 「今、私が噛みしめてる、死の恐怖の味ですよ‥」李が言った時、村瀬の襟を掴んでいた男の膝が、彼の鳩尾に食い込んだ。息が詰まった。つんのめって倒れた村瀬の体が、男の足で仰向けにされ、胴体を数発のキックが襲った。村瀬は体を丸めて内臓を守ることしか出来なかった。
「座れよ‥」男が言って村瀬の髪を引き、正座の体勢で座らせた。目の先に立たされている恵梨香と博人の顔が恐怖に歪んでいる。脇で、李が這うような笑いを立てた。村瀬の脇腹、あばらは激しい痛みで熱をもっていた。
恵梨香が室の中央まで体を引きずられた。足をもつれさせた恵梨香の体が畳の上に倒れた。彼女を掴んでいた二人の男がベルトを外し、ズボンとパンツを下ろして抜くように足から剥いだ。勃起しきった二本の陰茎が揺れた。
「おら、見んのは赤ん坊ん時におむつ変えた時以来だろ。成長した娘の髭蛤だ。これから行くことになるあの世のみあげに、よく拝んどけよ」仰向けにされた恵梨香の脚が、村瀬の目の前で大きく広げられ、醜濁とした笑いが降った。村瀬は固く目を閉じ、目前に晒された恵梨香の性器から顔を背けた。
「お姉ちゃん!」博人が声を振り絞って叫んだ。
「やめろ!」村瀬は連呼した。
「俺はどうなってもいい! 息子と娘と、菜実だけは助けてくれ!」村瀬の叫びは、空港から飛び立った旅客機の轟音に掻き消された。
博人が恵梨香の隣に引きずり出された。その顔は歪み、涙に濡れている。
「俺はいいよ! その代わり、お父さんとお姉ちゃんと、なみさん、助けてよ!」博人は泣き叫びに訴えを混ぜた。
「殺すんだったら、俺のこと殺してよ。お願いだよ‥」博人は涙の声を撒いた。
「お前が親父と親子でシックスナインやって、親父のけつの穴を舐めずって、ちんぽこ立たせて挿れるって約束したら助けてやるよ」博人の髪を掴んだ男は、ひゃらひゃらと嗤った。李は口許に薄い笑いを浮かせながら、顔を背けている村瀬と、手で性器を玩ばれ、頬を指で掴まれて口に男根を押し込まれている恵梨香、泣いている博人を見下ろしていた。
「やりすぎんな。なるべく楽に逝かせてやれや。これでも、俺が一度、白羽の矢を立てた人間だ。いっぺんは、人例のために働いてくれたわけだしな」李の声が落ちた時、村瀬の視線は、割れた窓の下に座らされている菜実のほうへ行った。
その時、村瀬は、菜実がこれまで自分の見たことがない雰囲気を放っていることを捉えた。
ぴんと眦の決まった顔をし、かすかに開いた唇から、腹式呼吸が行われているらしいことが、腹部、胸部の動きにより分かる。
聞こえるというよりも感じる、丹田からの気合、気魄。
村瀬は、彼女の体を抱いた時、皮膚の下から押し返すよう息づいていた筋肉の張りを思い出していた。
まさか、という思いが浮かんだが、菜実がどういう人かを思えば、それは打ち消すことが妥当だ。
恵梨香の体に加えられている辱めは音で分かる。博人は、胸を裂く声で泣き叫んでいる。
その時、菜実の喉元に小さなナイフを当てていた男の体が、頭から畳の上に転がった。菜実の手が、男の二の腕に巻きついたことが、村瀬の目には捉えられていた。座ったままの一本背負いのような投げだった。
男が背中から叩きつけられた刹那、その手首を取ったまま、機敏に屈み姿勢を取った菜実の中指を突き出した右拳が、男の胸部に抉り下ろされた。肋骨が折れる音を村瀬の耳が拾い、男の口からひしゃげた号叫が上がり、その体が海老反りになった。さらに菜実は立ち上がると、苦悶するその男の顔面に踵を打ち下ろした。鼻骨の潰れる音とともに、男はぎゃっと喚いて動かなくなった。
恵梨香を玩んでいる男達の、呆気に取られた視線が菜実に向いた。今、自分達の傍らで起こった事象を呑み込めていない顔と体恰好をしていた。
村瀬の心に起こっている感情は、驚きなどというものでは言い表せないそれだった。あり得ないはずのことが目の前で起こっている。心をその場に縛りつけられたように、その光景に目を注ぐことしか、今は出来ない。
菜実の顔に怒りの色はない。代わって、しんしん、凛々とした目元、口許が形取られたまま、どの方向から敵が襲っても即応可能な足の配り方を調えていた。重心高めに浅く腰を落とし、軽く握った拳を顎の下に添えた構えだった。
菜実が前に進むと、恵梨香を凌辱していた下半身裸の男の一人が、腰が抜けた恰好で後ずさりした。その剝き出しの股間に、下から掬い上げるキックが吸い込まれた。軟体の弾ける音がし、腰を浮かせた男が顎を畳に落とすようにして這った。どろり、どろりと流れた血を畳が吸い、股間を押さえた男が異様な呻きを発し、身をよじり始めた。その顔を、菜実のキックが蹴り抜いた。男の頭が畳の上で弾み、白目が剥かれた。男はただ、倒れた体を痙攣させているだけになった。
針身のような李の目が大きく見開かれていた。行川は小さな驚きを忍ばせた目で、その様子を察視しているが、強いていえば刮目の光が、その奥にある。その行川が何の行動も起こさないことが、村瀬には不審だった。
「馬鹿野郎! 何やってんだ! やれ! 殺せ!」李が、村瀬の知るその優雅な冷静沈着さを跡形もなく失った声で檄を放った。その顔には、村瀬が初めて見る、はっきりとした恐怖の色が浮かんでいた。
博人の髪を掴んでいた男が、目にも止まらぬ早さで手に嵌め物をし、菜実の前にレンジを詰め出た。男がそのメリケンサックの一撃を菜実の顔面に殴り下すと、彼女はボクシングのウェービングに似た動きでそれを外すと同時に、左の鉤突きを男の脇腹に突き刺した。えずくような声を上げて片膝を着いた男の片目に、掌を水平に返し、四本の指を立てた貫手が、さくりという音とともに突き刺さった。男は左目から血を湧き出させ、上体全体が攣ったような体の恰好になり、うええ、と聞こえる声で呻きながら、後頭部から畳に堕ちた。
立ち上がった村瀬を、恵梨香が、最後に頼るべきものを見る目で見上げていた。涙に光る博人の顔には、純粋な驚きが刻まれていた。
村瀬は後ろの男の金的を、返した踵で蹴り上げた。男が転倒したことが分かった。前にいる男が必死で拾ったパンツを履いている。村瀬は男の襟首を掴み、鳩尾に拳をめり込ませ、後頭部に縦猿臂を落とした。男は畳に鼻を叩きつけて這った。
行川が、小走りに恵梨香の許へ走った。それを目に留めた村瀬は、彼が何をしようとしているかが皆目分からなかった。
行川は、恵梨香の手首を拘束している縄を解いて、彼女の手を自由にした。それから、博人の縄もほどいた。二人が、改めて驚いた顔で行川を見上げた。
「服を着ろ‥」行川が強く囁くように言ったが、二人はまだ唖然となっていた。「急げ!」怒鳴るような言葉が行川の口から発せられた。
村瀬はその時、行川の声を初めて聞いたことに気づいていた。小さな体躯から容易に想像がついていた、やはり高く、やや掠れ気味の声だった。恵梨香と博人は壁際へ走り、緊迫のあまりおぼつかなくなっている手つきで、下着から身に着け始めた。
「おい! 何の真似だ! 行川、てめえ!」李が恐怖と狼狽の冷めない顔で怒叫した。
行川の行動に驚く間もないままに、村瀬は菜実に駆け寄り、二人で構えを取り、互いの肩をつけて四方へ残心を取った。
村瀬は、これまで菜実に対して持っていた保護意識が根本から改められた思いを抱いていたが、その感傷に浸ることは、まだ早い。動ける人間はまだ残っている。今、壁に張りつき加減になりながら、立てかけてあった角材を取っている男、それに李だった。
壁の男が、角材を振り上げて、村瀬、菜実、どちらにという風でもなく襲いかかった。菜実がそれを沽券で捌きながら、男の下段に拳を入れ、返す手で裏拳を顔面に決めた。男の体が反り、角材が後ろに虚しく落ち、彼は、鼻からの血で顔を汚し、苦痛に顔を歪めて尻から落ちた。その顎を、菜実の前蹴りが掬った。顎骨の割れる音がした。男は手足を投げ出した恰好に崩れて臥した。
李の姿が見えなくなっていた。村瀬と菜実は、まだ周辺に目を配りながら、拳を構えていた。行川が、懐を意識するように胸に手を当て、左の拳を軽く掲げていることが、村瀬の視界に入っていた。壁際では、身繕いを終えた恵梨香と博人が、弟が腕で姉を守る恰好をし、成り行きを見ている。
その時間が三分ほど続き、不吉な足音が、開け放しの小屋の玄関から聞こえた。入ってきた李の手には、銃把の長い、通常の拳銃よりも大きな規格をした銃が握られていた。
「伏せろ!」行川が怒鳴った。村瀬、菜実、恵梨香と博人が半ば腹這いのような姿勢になった時、乾いた連射音が響き渡った。村瀬の背中に、木片が降ってきた。木片は顔にも当たった。村瀬の脳裏に死のイメージが落ちた時、単射の銃声が二回鳴った。
 どさりという、大きく重いものが倒れる音がし、見ると、李が上がり待ちに上半身を着けて、斃れ伏し、行川が片膝で回転式拳銃を構えていた。
 李の意識がまだあるのかは、村瀬には分からなかったが、その体の下からは、こんこんと血が涌き出し、玄関に沼を作っていた。イングラムともウージーとも、村瀬には判別し難い自動短機関銃の引金には、まだ李の指がかかっている。
 血沼の上に、腹這いになっている李に、行川がしずしずと歩みを詰めた。やがて、李の頭部に、回転式の銃口が押し当てられた。行川は、逡巡に見える表情を横顔に見せたのち、引金を絞った。三回目の単射音が響き、李の頭が脳漿と骨片を撒き散らして跳ねた。それから、ゆっくり、ゆっくりと、李の体は末期の痙攣を静めていった。
 長い、長い時間に思えた。先までここで繰り広げられていたことを内包する時間も、今も。
 行川は、銃口を畳に向けて下ろし、まどろむように目を閉じ、博人は、まだ乱れた着衣の恵梨香を抱きしめ、泣いている。菜実に左目を潰された男は、顔半分を押さえてのたうち回っている。その男は、極限の苦痛により、声すらも断たれているようだった。
 裸電球の灯りの下、純法人例企画部の潜伏組の男達は、一名が骸となり、あとは苦痛と衝撃に意識を飛ばされ、呻きすらも発することなく、それぞれ畳の上に斃れていた。
 放心の中、菜実が何者であるのか、整理がつきかけた思いがした。派手さはないが、瞬時に機先を制し、敵の急所をすぐさま正確に射貫く戦い方の型を持つその武術は、村瀬には漠若と、和道流空手かと思えた。これを彼女がいつからいつにかけて習い、習得したのかは、まだ訊き出していない以上分からない。それでも確実に言えることがあるなら。
 叔母の孝子が言っていた、菜実の母親が起こした刑事事件。不意打ちで霊感師の脳天をかち割ったハンマー。死の意味、刑事罰の恐ろしさを知らない母親の手によって、微塵の躊躇もなしに行われたそれと、メリケンサックの男の眼球を破壊したことは、孝子から警告されたこと確かに、人間の内容を表示する事象として同一。ただ、それに至った動機は、天地の違いを含んでいる。
 常不軽菩薩。菜実の心、脳の思考には、他者を賤しめ、軽しめるものは存在しない。在るものは、海のような慈しみのみだ。それが、守り、救う心を起こし、その心が、そのための行動をその肉体に命じ、発動させたことに過ぎなかったのだ。その慈しみの心が、何人もの重傷者を作ったという矛盾。その中には、先に加えられた攻撃を見る限りでは、不具者になったと見て間違いのない者もいる。その矛盾への問いかけは、沈んだ思考世界の底へと消えていった。
 彼女がその体に刻み込み、保有していた力は、初めから、誰かのために在った。だから、自分自身を害する者には使われ得なかったのだ。
 遠くから、少なく見積もっても三台はいると思われるパトカーのサイレンが聞こえ、激しさを増した博人の泣き声がそれに重なった。
 「大丈夫だ」村瀬は博人と恵梨香の肩を抱いて、励ましの声をかけた。
 「どうして助けた」村瀬は、二人の子供の肩を抱いたまま、深く重い何かを噛みしめるように目を閉じて立っている行川に問うた。その時にぱちりと開いた愛くるしい「の」の字の目は、村瀬にはその存在を計ることの出来ない何かを鋭く射るものになった。
「ありのままを話すんだ。起こったこと、俺の人相、特徴、全てをな」行川は高い声を低く沈めて言い、村瀬の目を見た。何故助けたのかという問いかけには答えなかった。
「彼女はどうなるんだ」村瀬は菜実を手で指した。「それと、お前は何者なんだ。警察の潜入捜査官なのか。それとも、こいつらの敵対勢力の構成員なのか。どっちなんだ」
「その人は保護される。そうなる圧力が、外部からかかってる。あんた達がここにいたことは、マスコミ発表はされない」行川は二番目の問いをスルーして答えた。
サイレンが徐々に近づき、血の飛び散ったスリップ姿で立つ菜実、その隣から惜しむような目で見つめる村瀬、泣く博人に抱きしめられる恵梨香の四人、死体一つを含む、倒れている人例研究企画部の男達に、行川は革ジャンパーの背中を向けて、自分が処理した李の亡骸を跨いだ。
「待てよ」村瀬が呼び止める声を背中に受けた行川は肩越しに振り返り、唇を開いた。
「あの時の、あんたの追い突き、効いたよ。俺は空手も少し知ってるもんでね」愛想の調子なく残した行川は、玄関口からその姿を消した。村瀬が礼を言う間は設けられなかった。
すぐ近くに迫るパトカーのサイレンを背中と肩に聞きながら、虚しく不利な人民闘争の跡が旧い姿を留めて残る大字の竹林の間を、月明りをガイドにし、行川は歩き始めていた。李を処断した回転式は、淀んで腐敗した水が溜まった池に投げた。
今日、幕は完全に降りた。落ちた肩と丸まった背中の姿が、如月の満月に引かれるように、東成田の方角へと遠ざかっていった。
行川が去るのと入れ違うようにして、けたたましいパトカーのサイレンが小屋の前で停まり、赤い回転灯が割れたガラスと開いた扉の前に見えた。
最初にシールドを携えたヘルメット姿の制服警官が三人と、私服署員が二名の五人、それから担架を持った救急隊員がどかどかと入ってきて、倒れている男達を運び出した。李の射殺死体は、青の遺体袋に収容された。
制服警官の一人が、菜実の体に毛布をかけた。
「現場当事者の方々でいらっしゃいますね」まだ若い年齢程をした、青のブルゾンを着た署員が村瀬に確認の問いかけをした。
「事情を聴取させていただきたいと存じますので、お手数ですが、署のほうでお話を伺ってもよろしいでしょうか」「はい。それと、私の子供達ですが‥」村瀬は恵梨香、博人を指した。
「心に傷を受けています‥」「女性の署員が対応いたします。その辺りは心配なさることはございません」「ありがとうございます。それと、事前に言っておきたいのですが、彼女は知的障害を持っています。それで、彼女の行動は、私達を助けるために‥」村瀬が言った時、短いスポーツ刈りの頭をし、眼鏡をかけたその青年署員が、小さく頷いたように見えた。
「菜実ちゃん、もしも話せるなら‥」村瀬が菜実の耳に囁くような問いを送ったのは、子供達も一緒に寒い屋外へ出て、それぞれ別の車両に乗せられようとしている時だった。
「菜実ちゃんの、あの武術は、いつ頃身に着けたの?」「ぶじゅつって何?」「じゃあ、あの空手は、いつからいつまで習ってたの?」「中学出てから、二十歳になる少し前ぐらいまで‥」回転灯の赤い光に顔を照らされた菜実は、土の上に目を落として、ぽそぽそと答えた。
「孝子叔母さんに言われたから。悪い奴から、自分の身は自分で守れるようにしろって。それで、柏の市民体育館でやってる教室さん、入ったの。私、みんなよりも覚えるの遅いから、私だけがお残りして、先生が怒りながら教えてくれたの。先生、怒りながら泣いてる時もあった。私、いしょけめい頑張って、黒の帯、取ったんだ。私、お仕事すぐに辞めさせられちゃうから、教室さんのお金払えなかったんだけど、みんなには内緒って言って、ある時に持ってきてくれればいいって言ってもらってたの」
過去を語るその述べに、村瀬は、菜実との関係性という所で有害無益だと思っていた、面識ある叔母の長所を見出す思いになった。孝子は確かに菜実を利用していた。だが、一面では、母親が収監されたあとの十数年の間、その性格には著しい欠陥を持つにせよ、それなりの親心を携えて、菜実を見てきたのだろう。
だが、武道を習わせるという形で発揮されたその親心の在りようが正解かだったか否やかは、菜実がそれを駆使して、生きた人間に対して一生物の障害を負わせる技を決める場面を、親子で目の当たりにした今日の時点では、村瀬にはまだ分からない。
目前で起こった人死は、二人の子供にとり、生涯、心に刻まれる傷となったことに間違いないはずだった。たとえ、行川がそれを自分達を助けるために行ったことであっても。
「それでは、行きましょう。女性は、こちらで保護して、人権には留意いたします。ご子息の方達は、警察病院で軽い手当と、心のケアを行った上で、お宅にお帰しいたします。あなた様の聴取のお時間も、三十分から四十分程度のお時間で終わると思いますので、本日中には、署員がご自宅までお送りして、お帰りになることが可能と思われます」「お世話をおかけします」村瀬は言って、毛布に体をくるまれ、署員に肩を抱かれた菜実に、「落ち着いた頃に、また会おう」と声かけした。菜実の俯いた菜実の唇から、うん、という声が洩れた。
署では、行川に言われた通り、村瀬は全てのありのままを供述した。行川については、純法と関わったことで以前から面識を持っていたが、素性、本名などは全く知らないと答えた。
聴取は、眼鏡の青年署員が言ったように、三十五分程度で終わり、村瀬は警察の車で東習志野まで送られることになった。「息子さん、娘さんは、一日から二日でお帰りすることになると思われます」と、車内の署員は言い、村瀬はその親切に心から感謝した。
「あの、私の‥」「あちらの方は、三日ほど、警察の施設で身柄をお預かりしてから、お住まいのお家、あるいはグループホームへ送られることになります」「そうですか‥」その言葉を交わしているうちに、車は習志野市に入った。
実籾の駅前に降りた時、村瀬の心は騒いでいた。子供達に対し、菜実を二人の新しい母親として迎え入れることが出来るかという問いの返事を得ることが、今日の日に一挙に遠ざかってしまったからだ。もっとも、これは子供達の心次第だが。
どのみち、ある程度以上の時間が必要になるということだけは、はっきりと言える。
それと同時に、村瀬の心には、自分の進退についてのある決心が念を起こしていた。
二十三時過ぎの実籾駅前の風景は、いつもと変わらない夜の街姿をしていた。車のライト、店の灯りを見、終電前の踏切の音を背中に聞きながら、村瀬は、気になっていた行川の正体、それが元々どういった組織、庁に属していた何者であったかが分かった思いがした。それに被さるようにして、池内孝子がしきりに強調していた「血筋」という言葉が、強い印を作って思い浮かんでいた。それでも、菜実が「不軽」の人であることを、村瀬はなおも疑わなかった。
~重い幕が下りた頃に~
 三月のカレンダーが掛かるパンダ事業所のスタッフルームのデスクにぽんと置かれた津田梅子の五千円札に、椅子に座る木島の目が細められた。その目は、やがて、デスクの前に立つ松前を向いて見上げられた。
「こいつは何だ。駄菓子銭か」「区の外れに住んでる重度心身障害者の女の子を介護して、遊び相手になってやったら、そのお父さんがくれたお礼金ですよ」「おい」木島は薄いサングラスの奥から、怒りを含んだ睨め上げを刺した。
今日の作業を終えた利用者達が帰宅し、三十分ほどが経過した時間だった。
「何の意図があって、こんなおちょくりの舐め、くれてんだ」木島は往年杵柄の唸りを発した。
「おちょくりじゃないす。元締に、これで一杯飲んでもらおうと思って出した、好意の金ですよ」松前が吐く息に言葉を乗せるように言うと、木島は拳を両手に握り、椅子のスプリングを激しく軋ませて立ち上がった。その顔は、怒りに紅潮していた。
「てめえ、命が惜しきゃ、東京の決まりに従え。いいか。明後日までに、五つ、納めろ。東京はな、東京のために功労した奴には、それに相応しい報われを俺がくれてやることになってる。だがな、俺や組織を舐めた奴には‥」木島が言いかけた時、松前はジャケットの懐へ右手を滑り込ませた。
「じゃあ、何で荒さんを殺したんすか」松前は抑揚強く言いばな、瞬きのうちに右手に握られたマカロフの引金を引いた。
弾はサングラスの右フレームに赤い花をパッシングさせ、窓のカーテンを木島の脳片で汚した。木島は着弾の衝撃を受けて尻で椅子を押し倒し、脊柱側彎の体をずるりと壁に撫でつけて崩れていった。
大柄な人間の足音が聞こえ、木製の曇りガラス入りドアが開けられた。
入ってきた多田は、脳と血漿にまみれて壁に背中をもたれている木島の死体を見遣ると、視線を松前に移し、頬を小さく吊り上げた笑いを浮かべた。
「ありがとうよ。これで目の上の何とやらが消えた。中に四つ入ってる」多田は厚い封筒を松前に差し出した。「骸はこっちで適当に始末する。お前はしばらく、沖縄辺りに隠れとけ。今日から、俺が東京を締めることになる」言った多田の額に、松前は無言でマカロフの銃口を当てた。二発目の銃声が響いた。
二つの死体を背にスタッフルームを出ると、廊下に瀧田(たきだ)というスタッフの若者が立っていた。瀧田は、ADHD系の発達障害を持っていて、仕事に迷っている時に木島に拾われ、パンダ事業所で二年ほど働いてきた。最低賃金を下回る時給の上、社保も有休もなく、ごろつきの上司や同僚スタッフからいじめられ、こき使われているが、拾ってもらったという立場で、我慢しながら身を置いている。稼業で足しげくやってくる松前とは話仲間で、松前は、彼の辛い境遇を知り尽くしている。彼は、松前を本当の兄のように慕っている。
「松さん‥」瀧田は、悲しみの目で松前を見上げた。それは別れを惜しみ、松前の行く末を案じる眼だった。
「俺はこれから日本を出る」「松さん、俺も連れてってよ!」「駄目だ。今日、俺達はもう道が分かれたんだ。いいか、お前はさっさとこんな所を飛び出して、自分が生きやすい道へ身を振るんだ」「松さん!」瀧田が松前の袖にすがりついた。胸に顔を埋めて泣く瀧田の背中をさすった松前は、優しく彼を押し離した。
「松さん、俺と約束して‥」松前の背中を、瀧田の声が追った。
「絶対に、生きててね、松さん‥」松前の肩の向こうで、涙で顔を濡らした瀧田が、訴えかけるように言い、肩を震わせた。
「生きてて、いつか、俺とまた会って。その時、夢だった幸せ掴んだ俺の姿、見せたいから」瀧田は言って、体の中にあるもの全てを振り搾り出すように哭いた。
「分かったよ。いつか、絶対会おうな」松前は残すと、瀧田の慟哭を背中に聞きながら、パンダ事業所の門を出て、木島と多田に仇討ちの銃弾を撃ち込んだマカロフを人工水路に投げた。
「えれえ強えな、風が‥」路面の砂を巻き上げて吹き荒む春風に呟いた松前は、いずこへともなく歩みを進め、その一角から姿を遠のかせ、消えた。その消え方は、これからの彼の命を暗示しているようだった。
去年末から失踪の千葉NPO法人施設長、埼玉で、万引きを重ねて逮捕。その弟の副施設長格は、杉並区のコンビニエンスストアで店員を暴行の上、反社会勢力の名前を出して脅迫、容疑否認のまま書類送検。 
スマホの速報ニュースを確認した叶恵の心には、さほどの感慨も高揚も起こらなかった。携帯を置いた叶恵は、まとめた身の回り品が収まっているリュックを背負い、間借りの自室を出て、階段を降りた。
「三年間、お世話になりました」キッチンで不動産オーナー夫妻に辞儀をすると、主人と夫人は、柔和に笑んで頷いた。
夫妻は、十二月のあらましは、全て叶恵から聞いて知り、理解している。
「叶恵ちゃんの昔のことは、僕達も知らなかった。だけど、そんなに辛くて悲しくて、やりきれない思いを子供の頃にしてたんだったら、もっと早くに話してほしかったと思うよ」主人が惜しそうに言い、何かを考えこむ顔を見せた。
「だけど、叶恵ちゃんがあそこに入職したのは、始めから、お父さん、お母さんの弔いをやるためだったんだものな。君がどんな思いで、どんなに苦しい思いに耐えながら、それを準備していたかと思うと、僕はね‥」主人の言葉が震え、詰まった。
「これから、お父さん、お母さんと暮らした大田区へ戻るのよね」「はい。新しい仕事のあても、もう決まってるので」「辛くなったら、またいつでもいらっしゃい」主人と並んで涙ぐむ夫人に、叶恵は、また小さく頭を下げた。
庭でぺスパに跨った時に玄関前を振り返ると、主人が指で涙を拭い、夫人はたっぷりとした情を込めた目で微笑していた。
エンジンをかけ、走り出したぺスパからもう一度頭を下げた。それから後ろは振り返らなかった。
 大田区には、一般道を通り、時折休憩を交えながら向かったため、到着には二時間ほどを擁した。すでに賃貸契約を結び、鍵も受け取っていた東糀谷の都営団地の部屋に荷物を置き、自分が父、母と過ごした時間に棲んだ町へ、ぶらりと出た。
 町は、あの頃と比べてかなり洗練され、至る所がクリーンアップされ、真新しい店やモールが並んでいる。様変わりした育ちの街を歩きながら、育った家のある地点へ足を向けた。
 番地を覚えていたその場所がヘルパーステーションに変わっているのを見た時、「そういうものだ」としか叶恵は思わなかった。いかにもな時代の流れだった。
 文岡兄弟は名誉を剥奪されて社会から永久的に抹消され、仇は完全に討ち晴らした。その場で両親の霊に宛てた念を送った叶恵は、静かに踵を返し、その「ケアネットたんぽぽ」なる居宅介護支援事業所前から去った。
 なお、あの一件では、猥褻物陳列に問われ、一度警察に身柄を引かれたが、数千円の過料を支払って釈放されることになった。昔に文岡兄弟とその手勢達が自分の父親に行い、母を死に追いやったことの全容を話したところ、取り調べの警察官は、余りある同情と、叶恵のその行動への、職業的な立場上、口には出せない喝采の思いを表情に見せた。
 自分の復讐に手を貸した、荒川と名乗っていた男が、三咲駅脇の路上で死んだことは知っている。ニュースによると、犯人の行方はまだ掴めず、背後関係も不明だが、どのような手段で得たのかが分からない潤沢な資金を蓄えて福祉会社を経営していたのだという。これは合法から外れた生き方をする者には、いずれ訪れる最期だと悟りながら、心からの感謝と冥福の念を送っていた。
 これから、元の鳶手元の仕事に戻り、新しい生活を、父、母の思い出に抱かれるこの町で始める。新鮮な気持ちを胸に抱き、肩から、家の跡地であるヘルパーステーションを見た。灯りの下の両親の笑顔と、繋いだ父の大きな手の感触が蘇っていた。幼かった頃の思い出だった。
 去年の秋に、最も恥ずかしい刑事事件を起こしたが故に生活保護を打ち切られ、家賃も払えなくなってアパートを失い、子供も離され、妻も実家へ逃げ帰ったがために、今、余儀なくされている無料定額宿泊所の暮らしは、退屈極まりないものだった。
 元々、建設会社の宿舎だった二階建ての木造家屋を改造した建物で、ベニヤの薄い壁に仕切られた一部屋三畳ほどの個室があてがわれ、朝は納豆に卵焼き、昼は自分で調達し、夜はレトルト物のカレーや牛丼、ましな時は一切れの焼き魚という粗末な食事が出る。トイレは和式の共同で、入浴設備はなく、屋外には三分百円のコインシャワーが三棟並ぶ。そこに、顔にまるで覇気のない、中年や高年の男達がぞろりと住んでいる。彼らの間に会話らしい会話はない。
 生活資金は、市の福祉協議会から三十万円ほどの融資を受けているが、それが宿泊所の利用費、共益費、中身に反して法外と言っていい食費などで、月ごとに目減りしていく。それを返済し、自身の生活を工面するために、きちんと働こうという気持ちは立ち上がらなかった。彼はどこまでも、汗を流すことが嫌いな男だった。
今のその境遇に自分の身が落ちた近因、遠因を省みる心は、吉富栄一は依然として持たなかった。
退屈への苛立ちを胸に持て余しながら宿泊所を出たのは、午後の夕方近くのことだった。
その無低がある滝不動から新京成に乗り、津田沼へ出た。大通り沿いに軒を持つ立ち飲み屋で、焼き鳥やレバ刺しを食いながら生ビールを数杯呷り、紙幣を叩きつけ、硬貨を投げるようにして勘定を支払って暖簾を手で跳ねのけて、足許おぼつかなく頭をぐらつかせて通りへ出たのが、空がだいぶ暗んだ時刻だった。
服装は、竜虎の刺繍がされた黒上下のジャージに、手には小さなバッグを持ち、刈り込んだ金髪の頭もそのままだった。その姿で、因縁を巻く相手を探すように、酒で据わった両目を左右に動かしながら、京成方面へふらついた足取りで進んだ。その方向に決まった宛てがあるわけではなかった。
交差点を折れ、トンネルを通り抜け、マンションに面した道にふらつき出たところで、車のヘッドライトに前から照らされた。角から車が左折して進んできて、吉富の前に、バンパーが着かんばかりの近さで、タイヤを軋ませて停まった。クラクションは鳴らされなかった。ブラウンの塗装がされたワンボックスの軽自動車で、乗っていたのは女だった。
「すみません、ここ、歩車道ですよ」吉富と同年代の三十代後半の女は運転席の窓から顔を出して、恐縮した口調で注意した。助手席には、女の子供らしい、小学校低学年に見える男児が座っている。
「関係ねえんだよ、こらあ、この糞女」吉富は呂律の回らない口調で凄んで、運転席側に回り、女に顔を詰めた。
「こういう道こそ、歩行者優先のはずじゃねえのかよ」「この道では、歩行者の方は端を歩かなくちゃいけないんですよ」「おい、ここで仲間呼んで、てめえ輪姦(まわ)して、隣のガキ、ぶっ殺してやろうか」吉富が言った時、後部座席のスライドドアが開く音がし、男が後ろに立った。
中背だが、顎ががっしりとし、頸と腕の太い、私服のセンス的に職人風の男だった。その時、吉富の腰、足つきは逃げる用意をしたものになった。
「女房の言う通りだよ。基本、道の真ん中を我が物顔で歩く奴なんか、馬鹿だぞ」降りて出てきた女の夫は、吉富の目をまっすぐに見据え、迫力に満ちた、底響きするバスを押し出した。
 「ついで言うとな、女をどうこうして、子供をどうするとかいう真似をやって、ただで済むと思ってるような野郎は、馬鹿以下だよ」夫の男が歩を詰め、吉富は後ずさった。
 「見ての通り、俺は仕事持ちの所帯持ちだ。ちなみに仕事は鳶だけど、家庭持ってる以上、ちんけな決闘なんかで柄を引かれるわけにはいかねえんだよ。けど、女房子供に危害加えるような奴とは、やるぜ。そん時は、相手が一般人だとか反社だとかの区別はねえよ。守るため、助けるためとなりゃ正当行為扱いだかんな。まだ文句があんなら、そこに車停めさせっから、その辺の裏で俺と話すっか? 手ぇは出さねえよ。お前なんか殴って、面倒臭い事情聴取とか受けんのは嫌だからさ‥」男が微塵の動揺もない低声を投げると、吉富は顔を伏せ、しばらくその場に立ったのち、とぼとぼとした足遣いで、京成津田沼の方面へと、不様に萎縮した背中を遠ざけた。
 踏切を越えた頃にまた反り返り、粋がり散らした肩と顔でアーケード通りを練り歩き、緩やかな坂沿いに建つ「欧州キッチン ぷちきゃろっと」という波型デザインのアンティークな木看板を掲げ、ヨーロッパ風の赤い三角屋根、白い壁に小さな窓のある構えの店の前で足を止めた。
 青い木枠のドアを押すと、からんからんとドアベルが鳴り、いらっしゃいませ、という女の声が出迎えた。
 見渡した店のスペースは二人掛けと四人掛けが並び、広さは多くのコンビニ程度だった。白壁には欧州調の小さな看板や絵画が飾られ、丸いテーブルには赤のクロスが敷かれている。
 顔、足つきで一目見てすでに酒が入っていると分かる柄の悪い男が入ってきたのを見た客達が、一斉に表情を固めた。
 奥のキッチンでは、白のコック服に長いコック帽を被った店主らしい男が、フライパンから火を立ち昇らせて、トングで肉を返す調理を行っている。その奥には、もう一人コック姿の従業員がおり、そちらは洗い物に勤しんでいるようだった。
 席を回ってお冷を置き、オーダーを取っている女は、店主の妻であろうことが雰囲気で分かる。
 吉富は、坂側壁の二人掛けに座った。壁を振り返って見ると、十代風の可愛い顔立ちをした少女が、両手に縫いぐるみを持って微笑している絵画が掛かり、「娘」という題名に「船橋市 二井原愛美さん寄贈」とある。それを横目で睨んだ吉富は、うるさいものを見たように小さく舌打ちした。
「いらっしゃいませ」エプロン姿の女が、吉富の前にお冷を置いた。
「ビール」吉富は欧風アンティークチェアに背中を反らして注文した。
「当店では、アサヒ、サッポロ、キリンの他、ボヘミアビール、ウィーンビール、ドイツのピルスナーなど、ヨーロッパ産のビールも揃えておりますが、いかがいたしますか?」「アサヒでいい。早くよこせよ。それと、すぐ出来るもん、何でもいいから持って来い」「おつまみでしたら、マリネがすぐにお出し出来ます。お食事でしたら、赤ワインで煮込んだチキンの入ったブリティッシュスープカレーが、一番早く席にお届け出来るかと思いますが」「それでいいよ。早く持って来い、おらぁ」「承知いたしました。アサヒのビールと、ブリティッシュスープカレーですね。ただいま、ビールと海鮮マリネをお持ちいたします。お料理のほうは、少々お待ちいただけますでしょうか‥」「ちんたらやってっと承知しねえぞ、おら」吉富の呟きを流すようにして、エプロンの女は小さなバインダーを持ってキッチンへ歩んだ。
 アサヒの中瓶が来て、吉富はそれをグラスに注ぎ、呷り飲みながら周りの席を睥睨した。キッチン側にはゴルフバッグを置いた高年の男二人、空間を挟んだ反対側の席には、セーラー服姿の中学生らしい少女と、中年の母親の母子がいる。母親は背中に不安を漂わせ、娘はお冷を前にして俯いている。
 吉富の前後は空いており、挟んで隣の四人掛けには、主婦らしい女のグループが座っており、皆、言葉には出せず、それとない態度に不安を滲ませている。
 目を合わせてはいけない人間、として、今の吉富は扱われている。
 「スープカレー、お待たせいたしました。お熱いのでお気をつけ下さい」エプロンの女が接客言葉をかけ、吉富の席に注文品を置いた。
 「何だ、このでけえじゃが芋は。これじゃ食いづれえべ、普通はよ」「あの、これがこの品の調理法でして‥」「切ってこいよ。それに、何だ、この色は。糞みてえな色だろうが。舐めやがって、この野郎」「あのですね‥」「あのですね、じゃねえよ」
 吉富の声はまだ、キッチンに届くまでには至っていないらしい。キッチンからは調理の音が聞こえ続けている。だが、頂点に達した不安と恐怖を目に込めた、他の客達の顔が、ちらちらと吉富のほうを向き始めていた。
 「何だ、こら!」巻き舌の怒声を放った吉富はテーブルのクロスを引いた。来たばかりのスープカレーと、ビールの中瓶が、赤い絨毯の床にぶちまけられ、方々から悲鳴が上がった。
 「言いてえことがあんなら聞いてやっから、言えよ。汚えもんでも見るみてえに、さっきからじろこら、じろこら見やがってよ」
 立ち上がった吉富は隣のテーブルに歩を詰め、主婦達が座る丸テーブルの壁側の縁を掴み、自分の体の側へ引き倒した。料理、ワインのボトル、チューリップグラスが音を立てて絨毯の上に撒かれ落ちた。主婦達は恐慌の顔で、椅子の上で身を縮めた。
 「駒込凶悪連合知ってっかぁ!」フロアの中央に立った吉富の大声が、店の端々にまで撒かれた。
 主婦達は身を縮め、ゴルフバッグを携えた高齢の男二人は、ちょっとした驚きを覚えているという風の顔を向けている。キッチン寄りの席では、椅子を降りた母親が、中学生の娘の肩と頭を抱き、吉富を振り向き見ながら、我が子を守ろうとしている。
 「俺はその駒凶の元親衛だぞ! 俺の仲間が関東中の裏の世界にいるんだよ。俺を怒らせた奴は、みんな嬲り殺しになるんだ! お前らも‥」吉富は、椅子の上で体を震わせている主婦達を覗き込み、次に高齢の男二人に「お前らも」と言って顔を突き出し、娘を必死で守ろうとしている母親に歩み詰め、母親のセーターの襟を両手で掴み、その体を引き倒した。娘が怯えた顔で吉富を見上げた。
 「おらぁ、パンツ脱げ! おまんこ見せろ! おめえ、処女だろ、おら!」吉富は娘の腕を取り、フロアの中央にその体を引きずり出した。
 店主の妻で間違いないと思われるホール担当の女が、意を決したように駆け寄り、吉富の腕を押さえた。
 「引っ込んでろ、おら! 俺は今日、可愛いJCとやりてえんだよ! 婆あに用はねえんだよ!」吉富の怒声が響く中、ゴルフ帰りの男の一人も席を立っていた。酸甘、辛苦の人生経験を嗅ぎ分けた肚の据わりが、その顔に見て取れた。
 その男が少女を助けんと席から進み出るのと同じくして、キッチンから、コック帽を脱ぎ払い、フライパンを置いた店主が、静かに歩み寄った。
 店主は、妻の肩を叩いて、引け、と促し、少女の腕を掴んでいる吉富の前に立った。端の切り上がった一重瞼の目をし、よく調えられた口髭を蓄えた、品がありながらも過去に身を置いていた修羅が覗える男で、年齢程は、吉富と同世代だった。
 「何だ、どけよ、おらぁ、コックなんかよ!」吉富の怒罵を受けたその男は、わずかにも動じる風でもなく、即応出来る足の置き方、手の垂らし方をし、言葉を発さず立っている。
 「邪魔だ、こらぁ!」少しの怯みの中から虚勢を作り直した吉富が、店主の顔にフック加減のパンチを飛ばした。まるきり心得のないものでもないが、せいぜい、弱い者を殴り慣れているという程度の殴撃だった。
 吉富のパンチは宙で捉えられ、手首が極められた。店主がそのまま腰を軽く落とすと、吉富の体はくたりとフロアに跪き、伏した形になり、その口から痛号が吐かれた。
 腕を捩じられて倒れた吉富の体が、店主の目下に引かれた。次に店主は、腹這いの体勢にした吉富の両腕を、背中でクロスさせた。
 「110番‥」店主は妻に言い、吉富に目を戻した。妻はキッチンカウンターの隅に置いていた携帯を取った。
 体を組み伏せられた吉富の斜め後ろでは、少女が母親に抱きしめられ、店主の妻がその肩に手を置いていた。
 「お代はいいから帰れってのは、俺は言わない主義でね」泣き声混じりの呻きを漏らす吉富に、店主は低く静かな言葉を落とした。
 「だから、払ってもらうよ。お前が今、ここで、何の落ち度も非もない人間に与えた心の傷、それの代償をね」吉富の腕がより上にひしぎ上げられ、呻きが完全に泣き声に変わった。
 「駒込の凶悪、よく知ってるよ。俺、霧島令司(きりしまれいじ)さんが率いてたリザードファミリー幕張支部の特攻で、昔、文京まで遠征してかち合ったからさ。でも、俺の印象じゃ、まるでたいしたことなかったな。凶悪、なんてチーム名倒れもいいとこで、高校生デビューの集まりみたいな感じで、中学からみっちり鍛えてきたって感じがまるでしない娑婆僧ばっかりだったよ。まあ、嘘誠かはさておいて、親衛張ってたとかなら、やって恰好いいことと、みっともねえことの区別ぐらいはつけたほうがいいんじゃねえかな。お前、弱い者にばっかり強いのが丸出しだろうが。もっともそれは、お前の抱える生きづらさで、お前も自覚がねえし、教えてくれる人間も周りにいなかったことが問題だったんだよな。お前の所帯とかは俺は知らないよ。だけど、生きづらさの整理がついてねえから、奥さんにも優しく出来ねえし、子供も世間一般並に可愛がれねえし、ろくすっぽな教育も出来ねえんじゃねえのかよ。そんなとこじゃないのか。そこにあるんだよな、お前みたいな人間の不幸は。世に言う虐待の親は、まずはその親のほうから、国が金刷っても面倒見をしなきゃいけないと思うよ、俺はね」店主は言うと、吉富の襟首を持って引き、座位にし、柔法を解いた。
 頬に本数の多い涙の筋を引き、両方の鼻孔から洟、あんぐりと大きく開いた口から涎を流し、吉富は、ひい、ああ、と泣き喚いている。その号泣が、痛みのためか、最後まで粋がり倒そうとしたところを、実力、貫禄が上の人間にあえなく制圧された口惜しさからなのか、その店主の言葉が、心の奥底に確かに在った本音を痛く刺し、実は長年分かってもらいたかったことを今、やっと分かってもらえたことの嬉しさからなのか、あるいは先までここで行っていた自分の愚行を恥じてのものなのかは、傍目には分からない。
 だが、その中には、これまで自分がどれだけ分かろうとしても分かり得なかったことが分かったという感動、感激も含まれているように見えなくもない。
 キッチンの隅から、小さな顔が覗き、やがて、小さな体がひょこっと立った。それは、髪をポンポン付きのヘアゴムでツインテールに結び、ピンクデニムのジャンパースカートを着た、五歳くらいに見える女児だった。
 フロアの中央で泣き続ける、そろそろ中年という年齢程度の年格好をし、服装に粋を張った男の口から、言葉が出る気配はなかった。
それをぽう、とした面持ちで見ている女児は、ダウン症だった。「沙(さ)友里(ゆり)‥」ホール係である店主の細君が娘の名を呼び、来ては駄目だと手で制した。
 沙友里の手にはハンカチが持たれている。アニメのイラストが描かれているらしい小さなハンカチを片手に持った沙友里は、動物柄の靴を履いた足をちょまちょまと進め、まだ号泣を撒いている吉富の前に立った。
吉富の前にハンカチが差し出されたが、つむられた彼の目は、それを捉えていない。それから、ハンカチが下げられ、沙友里の紅葉のような左手が、吉富の頭をさわさわと撫で始めた。閉じられていた吉富の目が開いた。赤く充血した目からは、涙が止まることなく流れ続けている。
「見ろ。うちの娘だよ。今、保育園だ。見りゃ分かるだろうけど、お前みたいな奴がよくシンタイだのシンショウだのと呼んで、蔑んで差別する生まれを持ってる。でも、持ってる心は、こんな具合にどこまでも優しいんだ。相手がどんな人間であってもね、差別する心がねえ」
店主の声が落ちた時、吉富はまた激しく泣き盛った。それは店主もよくは知り得ぬ何かへ向けた、深い詫びと後悔が含まれているようにも見えた。
客達の目が、沙友里と吉富、それを囲むようにして立つ店主と妻の一景に集中している。ゴルフ帰りの男二人は、なるべきことになったな、とコメントしたそうな視線を注ぎ、キッチン前では、中学生の少女が母親に抱かれ、母は成り行きを見守り、祈るような目で見ている。もう一人のコック姿をした従業員は、カウンターの前に立ってその光景に、ある種の感動を含めた目を投げていた。
沙友里のハンカチが、吉富の涙を拭い始めた。おぼつかない手つきだった。吉富の泣哭は、次第に静かなものになっていった。彼の両手が、まるで自分に近い誰かに宛てるように沙友里の肩に伸びかけた時、ノックが鳴った。
店主の妻がドアを開け、制服の警官が二人入ってきた。
「さっきまで、まあ、こんな具合に‥」店主が転倒した丸テーブルと、絨毯の上に散乱した料理類を指して説明すると、警察官は、それを行った者が誰かをすぐに理解し、「はい」と答え、二人で吉富の両脇を抱えて立たせた。次いで、もう一人の警察官が入ってきて、メモ帳を手に、店主の前に立った。
「お話を出来るだけ詳しくお聞かせ願いたいのですが‥」と言った警察官に頷いた店主の目は、力を失った脚を引きずられるようにして連行されていく吉富の後ろ姿に向いた。
吉富は、駅前交番までの道を警官二人に抱えられながら、これまでの人生で自分が気づき得なかったことに、ようやく気づき得た思いを抱いていた。これが世の中一般に言われる反省か。それとも悔恨か。彼の頭の中で、それらは語彙にはならなかったが、子供時分の昔からつい数分前に至るまで持つことのなかった感情が胸に涌き出していることが自分で分かっていた。
主に興味を込めていると分かる通行人の目がちらちらと向けられた。同情などは、その中には含まれてはいない。だが、それは構わなかった。
これから執行猶予が取り消され、どれだけの期間かは分からないが、繋がれることになることは理解している。
それが、約四十年もの間に自分が棲んできた、智の恵みのない無明の世界から、自分がせめて片足だけでも抜け出すきっかけになればいいと思いながら、緩い坂を警官に持って引かれていた。
その時、優しい笑顔の輝く青年となった拳刀と、妙齢の美しい女に成長した樹里亜の姿が頭に思い浮かんだが、それこそが警官に引かれ、足をもつれさせながら交番へ向かっている今の時間に自分が最も願い、祈っていることであることに、気づいたような、気づいていないような感じがした。それでも、その気持ちを、今の自分が何故持ち得ているかというと、あのハロウィン前の日に「身体障害者野郎」と罵り、舐めきっていた相手から言論のみならず実力でも成敗され、その相手が、あの言葉を自分の実子にくれたお陰であるということからだと、吉富ははっきりと思解していた。また涙の溢れ出した目が、曇った夜の空を見上げた。吉富は、まだ言葉として形成されていない誓いの念を空に向けて送りながら、洟を啜り上げた。
家で洗濯したユニフォームとロッカーの鍵を返却し、同僚達に短く挨拶して、裏口からマスオマート前原店を出た村瀬を、香川が小走りに追ってきた。
「今後の身の振り方はもう決まってるんですか?」「あらまし決まってるよ。落ち着いた頃、また報告させてもらうから」訊いた香川に村瀬は答えた。
「今からハローワークだよ。失業保険の申請手続きに行く。失保もらって、ゆっくり当たることにする」「村瀬さん‥」香川は唇を噛んで、俯いた顔向きを見せた。
「副店の辞令までが出てながらお辞めになるっていうことは、村瀬さんなりの深い心の事情があってのことだと思うんですけど、これは‥」「ボイラーの資格を取って、ビルメンテナンスに転職しようと思ってるところなんだ。客商売よりも時間的な余裕のある仕事がいいんだ」村瀬が笑顔で返した答えに、香川は無念の思いを呑んだ目を上げた。
「村瀬さんがいなくなるとなると、僕、自信が持てなくて」香川が言った時、ヤードに段ボール回収業者のトラックが入った。
「僕もこの職場、もう八年だけど、反省の意味も込めて言うと、だいぶのほほんとやってきちゃったと思うんですよ。でも、村瀬さんは、不特定多数の人を相手にする職業の上で、持ってなくちゃいけないものを、みんな持ってたじゃないですか。秋のあの一件だって、村瀬さんがいなかったらどうなっていたか分からなかったはずじゃないですか。不安なんですよ。一人の男としても、村瀬さんを継ぐようにして、店員の義務的な仕事が自分にちゃんとこなせるかどうかが分からなくて」
二人の背後では、バックします、バックします、ご注意下さい、というトラックからの自動音声が鳴り響いていた。
「それは香川君自身が、自分を信じきることで出来るようになることだよ」村瀬が言ったその時、「おい!」という男の怒声が聞こえた。それを発したのは、回収車のドライバーの男だった。見ると、トラックを降りた男が、台車に積まれた段ボールを指差していた。
「台車並べる位置が違えよ。直せよ、お前。これじゃ詰めねえよ」応対していた店員は、村瀬が休職を有給消化へ繋いでいる間に入ったと思われる、まだ彼が顔を知らない高齢の男性アルバイトだった。その高齢アルバイト店員に恫喝口調で命じているドライバーの男は四十代に見え、身長は190越えでたっぷりとした横幅を持つ、プロレスラー並みの体格をしていた。
高齢の店員は怯え、対応に困りきっていた。香川はその様子をちらりと見ると、短い呼吸をし、村瀬の目を見た。
香川が男に歩み寄り、後ろに村瀬が続いた。
「どうかされましたか?」平静を装った声で香川が問うと、ドライバーの男が目を剥いた。隣の村瀬には、男の口から漂う酒の臭いが届いていた。
「これ、縦二列に直せよ。こんな横に広がってたら、邪魔臭えだろうが。おい、おめえらも店員だべ? さっさとやれよ」男は顎をしゃくった。
「すみません」香川は反り立つ男に頭を下げた。
「でも、これは当店が規定した並べ方です。不自由をおかけすることはお詫びいたしますが、ご理解いただけたらと存じます。それと、こちらの方は、先日入ったばかりのアルバイトの方でして、勝手は分かりません。代わりに私がお立ち合いいたしますので‥」「てめえじゃ分かんねえよ。店長呼べよ」男は飲酒の息を吐きながら、滅茶苦茶な理屈をぶち出した。
「石田(いしだ)さん、売場戻って、笠原(かさはら)さんに指示もらって、ポップ並べやってもらえますか。店長には、香川に言われたって言えば大丈夫なので」脇で身をすくませていた、石田というらしい高齢のアルバイト店員は、はい、と弱く返事し、錠無し扉の向こうへ去った。先程簡単な退職の挨拶を交わした新任の店長も、やはり責任感に乏しい役職者らしい、と村瀬は思った。
「おい、この田舎者。俺が店長の代理で話させてもらってもいいか」「何だ、この野郎。てめえ、コンクリート詰めにして東京湾に沈めんぞ」一歩進み出て言った村瀬に、男はフロントガラスに貼られた暴走族のステッカーを指して凄んだ。香川が一瞬驚きの顔を見せたが、去年に村瀬の本性的一面を目の前で一度見ていることもあり、その驚きが静かに喉へ飲み下された表情になった。
「お前が今取ってる態度、言葉には、関係性を大切にしなきゃいけねえ取引先への誠意もなきゃ、年齢的に目上の人間に対する敬意ってもんがねえよ。さっき吐いた言葉も、ドカチンとか鳶の飯場じゃ普通に飛び交ってんだろうがな、気の荒え職工だって、力のねえ爺ちゃんをお前呼ばわりして、やれ、しろ、とかって言葉で、命令はしねえはずだぜ。回収に来るなり、でかい声張り上げて切れ散らかすことが、男を魅せることだとかって本気で思ってんのか。情報伝達の遅れ。学習心の欠如。だから、てめえは田舎者だっつうんだよ。珍しいもん見ったびに、あーっ、あーって、指差して騒ぐようなさ」おどけ顔のジェスチャーを交えた村瀬の柄言葉に、回収ドライバーの男は、目にびくりとしたものを覗かせた。
その柄言葉は、先日警察から遺体を返還され、まどか、経営していた福祉事業所のスタッフ達とともに直葬で送り出した義毅を意識したものだった。今、父、母のものと並んで、笑顔の遺影が飾られている弟。犯人の特定など、事件の捜査そのものに進展はないが、つい昨日、江戸川区の小規模福祉作業所で発生した、短銃のようなものを使用した殺人事件との関連を一部マスコミが嗅ぎ立てようとしていると、検視前の安置に立ち合った刑事の鴨下が教えてくれた。
「何だ、この野郎‥」男は目を細め、村瀬に鼻先を突き出した。
「てめえ、俺がどこと仁義契ってっか分かったら後悔すんぜ」「そんなもんがどこだか何だかは俺が知るかよ。酒の勢いだけでそんな看板語ってっと、後悔することになんのはお前のほうじゃねえのか」「やんのか、こらぁ」男は舌を巻き立てて肩を揺すった。
「やらねえよ。他人の仕事に水差して、決闘でしょっ引かれたくはねえからさ。第一、お前、今、仕事中のはずだろうが。時間内に何箇所回らなきゃ帰れねえんじゃねえのか。くだらねえ油売りしてねえで、とっとと仕事して事業所へ戻れよ。でなきゃ、所長とか主任がうるせえはずじゃねえのか」村瀬の発している声とそのイントネーション遣いは、お人好しなスーパー店員ではなく、完全に、命をやり取りする修羅を経た男のものだった。
それは村瀬の人生歴史において、全くの事実なのだ。
その時、村瀬の顔にも体勢にも力みはなく、正直な思いを自然に吐き出したという感じだった。また、彼のいつもと違う啖呵言葉も様になっていた。香川はその柄の悪い言葉の交わりを、ただ涼然とした顔で聞いていた。遣う言葉はさておいて、時に応じて強さを持った対応が必要だという社会的事実を学んだ、という風に。
回収ドライバーの男の顔から、目に見えて威勢が失せていった。やがて男は、不服そうに口を閉じ、回収ローラーのスイッチをオンにして作動させ、台車を引き寄せて、積まれた段ボールをローラー口へ投入する作業を始めた。その肩、背中は、大きな体に反して小さくすくんでいるように見えた。
「おい、それとお前、酒飲んで車転がすのも今日限りにしろよ。子供が死ぬような飲酒運転事故、今もたくさん起こってることは、お前もニュース見て知ってんだろ」村瀬は言い足した。男はしゅんとなったようにそれには答えず、作業を続けていた。
ローラーが呑み込む段ボールの潰れる音を背に、村瀬は香川の肩を押し、裏門前に移動した。
「香川君、山本店長に言え。あの業者は前からの直接契約だったけど、この辺で別業者に替えろってさ。そうでなきゃ、ここのスタッフ達の精神衛生上にも良くないよ。質の悪いごろつき客とバトルして、事実上の出禁に追い込んだ村瀬からの進言だって言えば通るさ。それに‥」村瀬は言葉を区切り、店前の車道に目を遣った。
「君はちゃんとここの仕事を、責任背負って全う出来るよ。さっきだって、あの高齢のアルバイトさん、しっかり守ったじゃないか。別にさ、俺なんかを継ぐとかいう大上段に構えた気持ちは持たなくたって、君の自然体で日々の仕事をこなしていけばいいだけだよ。俺だって、あの手の男相手に、あんな柄っ八な応対が出来るようになるまでは、仕事の上でも、私生活でも、いろいろ‥」「あの時の、あの顔の傷のこととか‥」香川は、聞き込みたくないことを聞いた風に言葉を引っ込めた。
「自信を持てよ」村瀬は香川の肩をぽんと叩いて、踵を踏み出した。
「そうだ、今日は小谷さんがいなかったけど、休みなのかな」「すいません、言い忘れてました。あの人、辞めました。村瀬さんが退職の意思をお伝えする電話を増本店長宛てにしてから、すぐです。心のほうの病気を理由に長く休んでたんですけど、一昨日、電話があって、今日付けで退職しますっていうことでした。分かりませんよ。彼女の心の中までは。僕には。ただ、いつも明るく振る舞いながら、耐え難い何かと必死で戦ってたように、僕には見えましたね」
人が普段、表に見せている顔が、その人間の心をそのまま表しているわけではない。真由美が日頃、村瀬ら同僚達に見せていた表情は、主として、内心に抱える対人不安の取り繕いだった。村瀬は彼女にとり、数少ない、不安を感じずに関わることの出来る相手だった。その不安をコントロールするために、子供と一緒に薙刀を習っていた。あの時、実は半ば腰が引けかけていた村瀬を庇うようにして吉富に立ち向かったことは、存在意義的に大切な人間を助けるためだった。その意義が、村瀬への好意に変わったのだ。それを思った時、村瀬は、あの吉富さえも何かを経ることによって、何年かあとには別人のように変わっているのでは、という不思議な予感を覚えた。そう思えるのは、彼が分かりやすい単細胞者であるということを、関わってよく知っているからこそだった。
真由美の退職理由は、しごく簡単で分かりやすいものであったことが、村瀬の胸に軽く落ちた。
「十五年間、ご苦労様でした」「あまり寂しがるなよ。たまに顔を出すし、ラインで連絡も取り合えるしな」頭を下げた香川に、村瀬は挙手して歩き出した。
駅前が近づいた時、遠目姿に懐かしさを感じる女が前から歩いてくるのが目に入った。距離が縮み、村瀬とその相手の目が丸くなり、唇が開いた。
「あ、村瀬さん‥」「小谷さん。お元気ですか」美容室の前で向かい合った村瀬と真由美は、半ば諦めかけていた再会を喜ぶ笑顔を満ちさせた。
「私、退職したんですよ」「俺もだよ。今、物品を返却して、挨拶してきたところなんだ」互いに打ち明け合ってから、その理由を話すことを憚るように、二人は黙然とした。だが、ともにその顔には、踏んぎりをつけたあとの清々しさが浮かんでいた。
「俺、お客さん商売では、やるべきことはみんなやり終えたよ。しばらく休んでから、それとはまた違う職種へ行こうと思ってるところなんだ。次は、技術系のね」「そうですか。私は、下の子がまだ小さくて、学童保育に預けてたことはお話したと思うんですけど、親として、一緒にいる時間を増やしたいことと、あと、私も、何年か休みたくて‥」「それもいいね。うちは今月から息子がグループホームに行っちゃったから、静かになって、淋しくなったよ。でも、子供の将来のためだからね。しかたない。娘は変わらず、福祉施設で頑張って働いてるよ」「そうなんですね。それが一番の安心ですよね」真由美は相槌を打ち、その間は短いながらも言葉を熟考する顔になった。
「あの時は、戸惑わせちゃって、ごめんなさい‥」真由美の詫びが、いつのことかは村瀬には分かった。
「でも、気が迷って言ったわけじゃないんです。みんなが対応に困ってたのに、お店が何も対策を考えてなかった人達相手に、村瀬さんは間違いのない、毅然とした対処をして、あの若いお母さんと赤ちゃんを助けたのよね。その時、私は、本当に強い男の人っていうのは、こういう人だって、心から思ったの。それで、私はこの人が好きだっていう気持ちを持ったんです」真由美の頬は、あの日のような朱にほんのりと染まっていた。
「結婚っていうものは、その人それぞれにちょうどいい相手が、縁の働きで与えられるものだって、私の友達も親も言ってて、私もそれを疑う由はなかったの。修行だから、その相手がどんなに自分の理想に近くても、不満を抱かせるものが必ず何かしらあるものなんですよね。だけど、あの日、私は、もしも村瀬さんと結婚していたら、私が思い描くパーフェクトに限りなく近い暮らしを送ることが出来たんじゃないかって思って、その思いが、あの言葉になって出たんです」真由美は朱をもった頬の顔で、切なげな目を村瀬に向けた。
「戸惑いはしなかったよ。嬉しかったよ、普通に」村瀬の答えに、真由美は眼鏡越しの目を細めた。
「実は、俺の付き合ってる人は、わけのある人なんだ。普通の人が生まれついて20キロの重しを背負ってるとすれば、その人は40、あるいは50の重い荷物を肩にしょってるんだよ。それでも、肩に食い込むその荷物の重さは、おくびにも出さない。だから、俺は‥」「障害、ですよね」真由美の合いの手に、村瀬は俯いて頷いた。
「私には分かります。思い出すのが辛いことを、村瀬さんが私にお話しなくても‥」言った真由美は、村瀬がかい潜ったことの全容を理解している。
今、「尊教純法被害者の会」が弁護士会の音頭で結成され、物的証拠がないために逮捕を免れた教団幹部クラスの人間達を相手取って、強制献金、仏具の高額売りつけ、財産の奪取などで吸い上げられた、総額五百億円あまりの被害金の返還訴訟を起こしており、解散命令が請求されることは時間の問題だと言われている。また、教団に騙されて囲われ、事実上の売春をさせられ、猥褻写真、ビデオを撮影をされるなどの被害に遭っていた、知的障害者女性達の保護、ケアも行われ、実質的に教団組織の指揮権を握っていた最重要指名手配犯である李が、成田市三里塚の廃屋の小屋で、重傷を負った部下達とともに射殺死体で発見された件も、そのあまりの劇性をふんだんに含んだ顛末が世間の話題を独占している。その一連が、小さな組織によって引き起こされた事件であることも、巷を驚かせている。
李と、他の者達の重度負傷は、犯罪組織の実態を持つ教団の対立勢力によるもの、あるいは内紛によるものと、マスコミ各社は結論づけかけている。警察病院に収容された暴力代行部門の構成員達は、傷の治りを見計らった取り調べで、その夜に起こったことについて、「仲間が裏切ってマネージャーを殺した」という供述以外には、固く口をつぐんでいるという報道も、各社新聞、週刊誌記事で共通している。
「村瀬さんが今お持ちになっているものは、間違いのない本当の愛のはずです。その方と、この先いつまで一緒にいられるかは分からないにせよ、寄り添うことが出来る、今の時間を大切にされることがベストだと思います。だから、あの時に私が言ったことは忘れて、たとえ限られた時間であっても、今は、その人を‥」「小谷さん‥」村瀬は姿勢を改めた。
「あいつが店で脅迫の文言を吐いた時、俺は自分だけじゃ、あいつに毅然と出来る気がしなかった。スタッフの立場からあの男に立ち向かう勇気は、あの時に小谷さんがくれたんだ」  
「それは‥」真由美は顔を下げて言いかけ、このすぐ近くだという自宅のほうへ踵を向けた。
「二年前に入ってきた時から、ずっと好きだったから。必要以上に男の看板を張ろうとしないこと、話すことで、心から安らげる所が」「小谷さん、俺は。俺なんて」こぼすように言った村瀬の記憶には、己の手で、バリカンで虎刈りの坊主頭にされた老いた女の姿と、息子を助けて、と懇願する声、蹴った薄い胸の感触が蘇っていた。
次第に背中を遠ざける真由美が、後ろの村瀬に向けて手を振った。村瀬も、その背中に向かい、優しく手を振った。
船橋ハローワークで失業保険受給の手続きを済ませて庁舎を出、外壁の貼り紙が気になった村瀬は、ふと目を留めた。
貧困ビジネスの入居勧誘にご注意下さい、とあり、それによると、ここのところハローワークや市役所の付近に、実りの悪い仕事をして困窮する生活を送るよりも、一時生活保護を受けながら、私達の求職支援を受けながら高給の職を探したほうが将来のためにもなる、などという甘言で誘い、数人をアパートやワンルームマンションに押し込んで共同生活を送らせながら、支給される生活保護費を搾取する悪質業者が出没しているという。
今に始まったことでも何でもないと心に呟いて、京成船橋へ歩み進みながら、話に聞いた菜実の父親を思った。トゥゲザーハピネス、と検索をかけてみたところ、類似した名前の飲食店やフラワーアレンジメントサークルが表示されたが、福祉系NPOでそれに該当するものは出てこなかった。やはり、尋常に考えれば、その経営実態は怪しく、犯罪的な収益を得ているということで間違いはないのだろう。
今、連絡を控えている菜実と入籍した場合、父親のその身柄を引き取り、一緒に暮らすことについては、彼女の父親であるから、人間性は間違った所はないと見ていいと思え、抵抗感はない。そこで、もしも探す術があるとすれば、やはり、まどかを頼る以外にないのだろう。
大通りを歩きながら、思いは子供達に馳せられた。
心の内は分からない。それでも、あの夜を経ても、恵梨香、博人が、自分の意思の力をもって生きる道は失われてはいない。恵梨香はあの日からたったの二日で仕事に復帰し、博人もグループホームに入居しながら、就労継続支援A型の仕事を頑張っており、電話で話す声も明るい。
目の前で人間が死ぬなどということは、尋常なら、計り知れない心的外傷を負う。自身達も凌辱され、銃の標的にまでされるという、まるで何かの劇中の出来事のような体験をすることになった。
だが、父親が家と家族を明け渡して逃げたことにより、幼い時分からその体と心に、一生涯背負わなくてはいけない傷を負い、若くして、それを人間的な強さに変えたのが、村瀬の二人の子供なのだ。
恵梨香は、性的凌辱というものには、子供の頃から慣れていた。その傍にいた博人は、自分の命を差し出しても家族を守る心を自然と身に着けていた。二人は肚が据わっていたのだ。
それは、かつて自分達を見捨てるようにしてあの家から逃げた父親が、様々な経験から人としての強さを得て、自分達を助けられる男に変貌していたことが、子供達を補強していたのだろう。
そこへ至るまでには、長い時間がかかった。
長い時間が。
 博人がいなくなった東習志野の家に帰り着き、テレビを点けると、正午のニュースが映った。
ますます悪質化の進む貧困ビジネス業者が相次いで摘発という見出しの上に、どこかのアパートから捜査員が荷物を運び出す映像が映し出されている。
福岡で三件、大阪で五件、千葉で一件、複数人数の困窮者をアパートやワンルームマンションで同居生活をさせ、生活保護費、障害基礎年金などを不正に詐取していた疑いで、法人運営者が会わせて七十人ほど逮捕され、その中でも千葉県流山市に拠点を置き、国の認証を受けずに一般社団法人を名乗って活動していたトゥゲザーハピネスを、最も悪質な囲い込み事業を行っていたとして、同会会長で暴力団関係者の男を詐欺容疑で逮捕、職員として雇われていた数名の男も詐取の容疑で現在取り調べを進めており、アパートに住まわせられていた、身体障害、軽度の知的障害者を含む男性、女性の計四十人あまりが保護された、ということだった。
キャスターが読んだその法人名に聞き違えはなく、表示されたテロップもそのままだった。菜実は柏で父親と再会したと言っていた。流山は柏の隣接市だ。
保護され、送られる先が分かれば、つてが出来るかもしれない。村瀬は菜実の身になった希望を得た思いがした。
大塚洋一が他五人と同居するアパートの部屋にノックが鳴り響き、捜査員達が入ってきたのは、彼を始めとする入居者達がまだ布団の中にいた、早朝四時過ぎのことだった。
何が起こっているかは、叩き起こされるようにして起きた洋一にもはっきりと理解出来た。
まず、部屋に番詰めしていたスタッフの男が連れて行かれた。行先は警察署のはずだった。それから、警察官達は、洋一達入居者に着替えるように促した。また、身の回り品をまとめるように言われ、皆、それに従った。
どういうことなのか、と、分かってはいながら捜査員に訊くと、トゥゲザーハピネスは、今日摘発されたと答えた。
自分の身柄が、心までも、これまでの軟禁生活から解放されるという喜びと驚きを同時に覚えながら、同室の男達と一緒に警察車両に乗った。
警察は、洋一達入居者のほとんどが、手帳の交付された障害者であることを把握しており、三日から一週間ほどの間、警察施設に宿泊してもらい、その間に受け入れ可能なショートステイ、または入所型の福祉施設を探すという説明が、社会福祉士からなされた。なお、その女性社会福祉士が、伸ばした前髪で顔半分を隠していることなどは、洋一には全く気にならなかった。名刺が一枚づつ配られたが、村瀬まどかという名の、下腹に妊娠の膨らみのある社福士は、自分はこれから産休に入ってしまうので、別の社会福祉士の者が業務を引き継ぐ、と説明した。
「あの‥」警察施設の廊下で、洋一は社会福祉士を呼び止めた。社福士は、口許を微笑させた顔で振り向いた。
「僕、大塚洋一です。社会福祉士というのは、聞いたことはあるんですけど、どういう仕事をしてる人達なんでしょうか。僕、難しいこと分からないから、簡単に教えてほしいんです。療育手帳持ってるから」洋一が訊くと、村瀬まどかは了承いたしました、という風に頷いた。
「心身、心や体の障害ですね。身体障害であったり、精神、または知的な障害をお持ちの方や、障害やその他の事情で、生活に困っている人、介護が必要な高齢の人の相談に乗って、そういう人達を、福祉、医療の支援を受けられるようにして、サービスの提案、調整を行うことが、私達、社会福祉士の仕事になります」「そうなんですね」「今回のこと以外で、何かお困りのことがありますか?」まどかが、髪に隠れていないほうの目を丸く開いて訊ね返した。
「娘がいるんです。今、二十六で、今年七になるんですけど。娘が子供の頃に、僕、家出ちゃって、ずっと会ってなかったんですけど、去年、柏で会ったんです。僕がこうだから、娘も、障害、持ってると思うんです。どうすれば、いつも会えるように出来るのかが知りたくて」「娘さんのお名前は、何といいますか?」「妻とは、市役所に結婚の届けとか出してなかったから‥」「内縁ですね。では、苗字が違うということでよろしいでしょうか」「はい。娘は、池内菜実、っていう名前です。あの、野菜の菜に、木の実の実って書く名前なんです。去年、ちょっとだけ会えたけど、今、どこに住んでるかが分からないから‥」
 「ラインなどはおやりですか?」「ああいうのは、僕、ちょっと分からない。電話と、ショートメールだったら出来るけど‥」「そうなんですね。では、私の名刺にある電話番号に、電話でもSMSでもいいので、連絡を下さい。そうすれば連絡先が登録されます。多分、県内にお住まいだと思いますので、県北部の市役所の障害者支援課に掛け合って、療育手帳の更新、またはサービスの利用記録を調べてもらうことは可能だと思いますが、いかがいたしますか?」「何でもいいです。お願いします」洋一は願うように言い、まどかはまた微笑した。
 「では、私のほうで出来る範囲内のことをさせていただきます」「ありがとうございます」洋一は頭を下げた。
 「もしも該当がない場合、私と業務提携しているNPOに協力を仰ぐことにあると思いますので」「よろしくお願いします‥」
 互いに礼をし、施設の廊下に残った洋一がまず考えたことは、娘と一緒に住むことだった。だが、もし娘が既婚で、夫、子供のいる身だった場合、そこに自分が入っていくことが許されるだろうか、という不安も一抹ほど覚えていた。
 希望の輝く期待と、排除されはしないだろうかという不安の念を胸に抱きながら、洋一は、社福士の去った長く廊下に立っていた。
 鎌ヶ谷の駅前に、一台の軽ワゴン車が停まっていた。車の周りには、大きく深いバケツに生けられた色とりどりの花が並び、マジックで値段の書かれたプライスプレートが差されている。運転席からはカーラジオの音声が流れ、そろそろ老齢に差しかかる齢の男が車体に背中を預けていた。
 白くなったパンチパーマの頭をし、竜が刺繍されたトレーナーに黒のツータックパンツという服装をしたその男の立ち姿は傲岸で、目つき、口許に、育ち、経歴の荒みが出ていて、優しげな感じは全くない。
 禁煙区域にも関わらず、堂々と煙草を燻らせながら、売り物の花に目を遣ると、女児が二人、しゃがんで花を見ていた。
「おい、これ、売り物だ。いたずらすんな」男は煙草を口に女児達に叱咤口調を投げた。
「お花、下さい」立ち上がって言ったのは、二人のうち一人の、未就園児と思われる女児だった。
 「買うのか」男が煙草を手に、女児達に寄った。「お前らの小遣いで買えんのか?」「お小遣い、一緒に出すから」「何だ、誰にお供えすんだ」「グっちゃん」年長の女児が立ち上がって答えた。
 「あ? グっちゃん?」気だるげに問い返した男は眉をしかめた。
 「何だ、そりゃ。犬か。それとも猫か。畜生に花なんざ供える必要なんかねえぞ。そんなことすんのは、人間様だけでいいんだ」「ワンちゃんじゃないよ」「じゃあ、人間か」男はフィルターだけになった煙草を足許に落とし、革靴の踵でにじり消した。
 ラジオは、高速道路の渋滞情報を流していた。
 「幼稚園のとこで、グっちゃんのお庭っていう会社やってた、面白くて優しいおじさん。その会社、私と樹里亜ちゃんで通ってて、おやつ食べながら、障害者の人達とお話したり、ゲームしたりして、遊んでたんだ。でも、そのおじさん、天国行っちゃったから、今、会社、お休みになってるの」
 男の顔に、おおよその事情を理解した色が浮かび、目元に少しだけ優しさが挿したように見えた。
 「だから、私と樹里亜ちゃんでお小遣い出し合って、グっちゃんにあげるお花、買いに来たんだ」「そうか。ちょっと待ってろ」男は、花が差されたバケツの前にしゃがみ、白菊の束を抜いた。
 黙々と古新聞紙で茎部分を包み、ビニールを巻いて、年少の女児に差し出した。女児がそれを受け取ると、男はふっと息を吐いた。
 「やるよ。金はいいから。一番安く仕入れたやつだかんな」男が不愛想に言い、女児二人はどこか不思議そうに男の顔を見上げ、年長の女児が敬語言葉の礼を言って、年少の子も続いた。
「なるべくすぐに花瓶に差せよ。元々鮮度がよくねえやつだから、すぐ萎れちまうかんな」男が投げ言うと、振り向いた年長女児が「はい」と返事した。
小さな背中を並べ、東中沢のほうへ歩み去っていく二人の女児を目で追いながら、男は照れたような笑いを漏らした。
あの日から降りたままだったシャッターを上げ、入った「グっちゃんのお庭」の内景は、まだ義毅がいた頃の雰囲気を留めていた。子供達が座るスクエアのソファー、大きなキッズカラーボール、けん玉、畳まれた車椅子などがそのまま置かれ、夫が地域の障害者、児童達を、自分も楽しみながら楽しく盛り上げている風景が、幻影となってまどかの心の眼に映っていた。
営業時間中は来たことはないが、早く終了した日の時間外に訪れ、そのまま彼のソアラで買物へ行ったりしていたものだった。
東側の壁に掛かっている人物画の前に、まどかは立った。その額縁の中では、一羽の蝶を肩に留めた少女が首を傾げている。習志野台に住む、予備校講師の女性から贈呈された絵で、モデルは自身の娘だという。まどかは面映ゆく、絵の中の愛らしい少女を見つめ、四か月目に入っている下腹に手を添えた。
エコー検査はこれからで、性別はまだ判明していない。夫は、男児が生まれることを望んでいた。
「ごめん下さい‥」開け放しの入口扉から、可愛い声がした。少女と蝶の絵から、目を入口に移すと、女児が二人立っていた。年少のほうの女の子が、白菊の花束を両手に余らせて抱えていた。
 「いらっしゃい。入りなさい」まどかは促し、中に二人を入れた。
 「お姉さん、スタッフさん?」年長の女児が訊いた。「私は、この会社の社長だった人の奥さんよ」「グっちゃんの奥さん?」「そうよ」まどかが答えると、花束を持った年少の女児が進み出た。
 「はい。これ、グっちゃんに持ってきたの。お花屋さんのおじさんにもらったんだよ」女児が白菊の花束を下から差し出した。
 「ありがとう‥」まどかは花束を受け取ると、奥のカウンターに目を遣った。空の花瓶がちょうど一つあり、彼女はカウンターへ歩き、シンクで水を汲み、白菊をいけた。カウンターに花が咲いた。
 「グっちゃんは天国へ行ったけど、これからもみんなのこと、見守ってるからね」「うん‥」年少の女児が頷いた。その時、「馬鹿言え、今、俺がいんのは地獄だ」という夫の声を、まどかは聞いたような気がした。
 「お名前は何っていうのかしら」「中村新奈です」年長の子がしっかりした発音で名乗り、次に年少の女児が「私、中村樹里亜‥」と、音程の安定しない抑揚で答えた。
 「樹里亜ちゃん、私の本当の妹じゃないの。吉富さんっていうお家から来て、うちの子供になったんだよ」「そうなのね」まどかは新奈と名乗った女児の述べに、複雑な背景を察した。この樹里亜という子が、義毅の言っていた、虐待を受けていたという子供で間違いないと分かった思いがした。
 他人は元より、我が子にも愛情を与えられず、虐げる人間の行く末は、その人間が本気で改心しない限り、寂寞としたものになる。樹里亜の元の家の親達とて、そうだろう。まどかは面識こそないが、社福士として様々なケースを担当してきた彼女には、それが刻み込まれて、よく分かる。
 「待って」まどかは小さな冷蔵庫まで歩き、中を確認したところ、まだ開栓していない2ℓのコーラが入っていた。
 「ジュースでも飲んで、ちょっとお話していく?」「ううん、今日は祖母ちゃん達来るから、もう帰る」「分かった。まだしばらくお休みになるけど、そのうちに、新しい社長さんを立てて、また始めるから、楽しみにしててね」まどかが言うと、新奈と樹里亜は、テンポのずれた頷きを返した。
 スタッフの誰かに代表を継がせる。まどかは、手を繋いで小さな背中を遠のかせていく二人の後ろ姿を見ながら、今後のことを考え始めていた。
 予定通り、十月にお産が終わり次第、すぐにこの社屋を増築し、社会福祉士事務所を併設しよう。夫が残したこの事業所をこれからも存続させ、私は社福士として、暗がりにいる人の手を取り続ける。夫が、実兄の子を実質的に手を取ったように。
 今後のことが、まどかの中にはっきりと定まりつつあった。
~血涙から未来へ~
 「脅迫と買収です。私は元々、府中に本部を構える宗教法人である日本倫(にほんりん)修会(しゅうかい)で、若い世代の人を勧誘する教務局という部署で副主任をしておりましたところ、教団にスパイのような形で潜り込んでいた、某という男性から、こちらのほうが教義もしっかりしていて、収入面での実りも良いと言われて、倫修会にお金を積んで脱会して、尊教純法に入職いたしました」
 何本ものマイクの前で陳述する峰山の顔を、カメラのフラッシュが二回、照らした。画面左下には「中継」と出ている。
 「広報部というセクションにおられた立場から、被害に遭われた方々には、どのような気持ちをお持ちですか。責任という意味も込めて」記者陣から、少しの詰りを込めた問いの一声が飛び、峰山は隠しようもない動揺を眼鏡の顔に泳がせた。
 「それは、私自身も脅迫というものを受ける立場にいたもので、責任と言われましても、お答えしかねる部分があります。ただ、非常にお気の毒だという感情は持っております」「お気の毒に思っておられるというところで、峰山さんご自身は、今後、どういった形で責任をお取りになることを考えておりますでしょうか」先のものとは別の声が上がった。
 「尊教純法教団組織の内情的なものを、教団の一員であった者として、より広く、同様の被害が拡大することを防止するための協力を、捜査機関、民間団体に対して惜しまない所存でございます」「今後、捜査が進む過程で、峰山さんを含む、フロントに立っていた教団職員にも逮捕などの刑事的制裁が下される可能性もあると思いますが、その辺りのことは、どうお考えでしょうか」「そちらもお答えしかねます‥」峰山は眼鏡越しの目に怯えた色を滲ませた。
 「ただ一つ、何卒ご理解をいただきたいことは、私にせよ、他の広報部、会計部等に所属していた教団職員にせよ、目がくらむような高給を保証された上、命を握られた脅迫の下に教務を行っていたということであって、人としての良心は持っていたということです。ですので‥」
 画面の中の峰山が保身感情丸出しにそこまで言いかけた時、村瀬はテレビのリモコンを取り、スイッチをオフにした。手元のスマホを取り、最新情報アプリニュースを見ると、今日、釈明会見の元尊教純法広報部主任の峰山克明が、過去に女子中学生買春の逮捕歴があることが発覚、と出ていた。
 自分にはどうでもいいことが書かれた電子瓦版を閉じた村瀬は、天井近くに掛かる父母と、仏壇に置かれた義毅の遺影、位牌に目を投げた。
 一切は終わったが、またつまらない悶着が一つかそこら、降りかかりそうな予感がしている。だが、構わない。
 予感を強く覚えたまま、夕食の買い物に出た。駅近くのスーパーで、牛乳、肉と、野菜を少しと豆腐を買い、家前の路地に入った時、道の端に立つ男の姿が目に入った。セーターにチノパンの姿だが、苔のような無精の髭が口の周りに生え、髪の乱れ、汚れ具合から、何日か入浴をしていないらしいことが窺えた。まだ、若者の年齢域にある男だった。
 「村瀬豊文‥」男は村瀬の名を呼んで、尻から抜いたサバイバルナイフを腹の位置に片手で構えた。
 村瀬は買物袋をするりと置き、猫足を整え、軽く握った拳を脇腹横に垂らす構えを取った。
 摺り足でレンジを詰めた男の手のブレードが、村瀬の心臓部に向かって突き出され、それを読んでいた村瀬は、足を捌いて男の右側へ回り込み、ナイフ側腕の袖を掴み、顎に三本の指をかけ、膝裏を内から薙ぐように蹴った。男は村瀬に袖を取られたまま、尻から落ちた。村瀬は尻餅の男の腕を背中へ捩じ上げ、手首に手刀を落とした。ナイフは、金属とコンクリートのかち当たる音を立てて路面に落ちた。
「今、逃げて隠れてる奴らに点数稼ぎたくて来たんだよな。これ以上やめろ。こんな何も生み出しはしない、馬鹿げたことは‥」村瀬は男の腕をひしぎ、額を路面に着かせるようにして上体を押しながら、静かな声を落とし、サバイバルナイフを蹴り遣った。
「こんなことを何度繰り返しても無駄だと、情けねえ上役の奴らに言え。それで、お前は警察に自首しろ。お前が、何かを心から喜んだこと、嬉しかったことのない人生をこれまで歩んできたことは、お前の目を見りゃよく分かる。今からだったら、何年か身を洗えば償えて、そんな人生も変わるかもしれないぞ。嘘だと思って、俺の言うことに従ってみろ。それとついでに、あんなくだらねえ人間の屑どもに、これ以上従うな。それが、これまでお前が不幸だった、何よりもの大きな原因じゃないのか」村瀬はゆっくりと言いながら、男の体を自由にした。
 男はしばらく路面に両手を着いて苦しげな呼吸を漏らしたのち、膝をいざって立ち上がった。
 戦意、殺意の失せた後ろ姿を、村瀬は見つめた。男は肩越しに村瀬の目を見た。その口が、何かを言いたそうに開いたが、言葉は出なかった。
 「何も言うな。行け」村瀬が言葉で追うと、男は肩と顔をぐったりと落とし、気勢を失ったよろめき歩きで、振り返ることもなく歩み去った。その姿が角に消えた時、村瀬は、今しがた自分が男にかけた言葉が、自分の本当の心から出たものなのか、単なる伊達酔狂なのかを分かりかねる思いになっていた。
 白の経帷子を着た姿で、ストレッチャーの上に横たわっている、見た目が初老域の女は、全てを受け入れきった上で命終を迎えた悟りを、閉じた瞼に浮かべていた。栃木刑務所の、灰色の壁に囲まれた一室だった。
 「昨日の午前、作業中に頭痛を訴えて倒れて、救急車で病院へ搬送したのですが、開頭手術の甲斐なく亡くなりました。クモ膜下出血でした」紺の制帽、制服姿の女子刑務官が説明した。
 二十年間、引き離されていた母親、池内靖子の死顔を見つめる菜実の目は、現実から遊離したように泳いでいた。意思、それを内包する精神の所在が分からない顔だった。
 恵みの家の固定電話に刑務所から連絡が入ったのは、昨日の昼下がりだった。その時、菜実は、三月に入ってから通い始めた就労移行支援事業所「ワークサポ湊」でトレーニングを受けていた。紅美子は、事業所に直接電話を入れ、菜実に代わってもらい、その旨を伝えた。臨時早退し、ホームに帰ってきた菜実の顔からは表情が消えていた。
 喪服代わりの黒系の服を着て、紅美子を隣に立ち、母の骸を見つめる今も、喜怒も、哀も見えない顔をしている。物言わぬ人形のように。
 「葬儀を執り行うご希望をいただいていないので、ご遺体は、当方で斎場を手配して、火葬させていただくことになります。ですので、今のうちにお顔をよく拝まれて、お別れを済ませて下さい。ご愁傷様です」刑務官の言葉は、個人的感情は抑え気味だが、遺族の心中を気遣う優しさが込められていた。
 菜実が母の死顔を見つめる表情に、全く変化はなかった。全ての感情を抜き去られた者のそれで、そもそもその表情というものが無い。
 「お墓はございますでしょうか?」刑務官が菜実に尋ねた。
 「この子のお祖母さんのお骨が収められたお墓がどこかにあるそうなんですけれど、この子は、障害をお持ちで、こちらも言葉だけでは要領を掴めてへんのです」紅美子が代わって説明すると、そうですか、と返した。
 「それであれば、当刑務所指定の共同墓地がございますので、そちらへ埋葬させていただくことになります。お戒名の書かれたご位牌は、そちら様で業者に頼んで作っていただくことになりますが。その共同墓地の番地などは、後日、書面でお送りいたします」
 それでも母の遺骸のそばから、留められたように離れようとしない菜実を、数分ののち、刑務官が辞儀で、紅美子が手で促した。それを感情を喪失した顔のまま受け入れた様子を見せた菜実は、声も言葉も発することなく、踵を入口の扉へ向けた。
 紅美子がハンドルを取る軽自動車が、箱森町を経て、栃木インターに入っても、菜実の表情形は変わらなかった。二時間近くが経ち、車が千葉の一般道に入った時、変わらず感情のない目をした菜実の頬が震え始めた。それでも、彼女の口から声、言葉は出なかった。
 十六時過ぎに、ホームに到着した。ホームには夕夏がおり、通所先から帰ってきた佳代子達、他の利用者達がおやつを食べていた。紅美子は夕夏に、菜実のおやつは彼女の居室へ運ぶようにという指示を出した。
 「お風呂、好きな時に入り。ご飯も、食べたい時でいいから」部屋に運ばれた、どら焼きのおやつに手をつけず、今、母の形見となった魔法少女バトンを手に取り、撫でている菜実に紅美子は声をかけたが、反応はまるでなかった。
 食事の時間にも、菜実は階下へ降りてこなかった。入浴も、今日はする気がないようだった。
 二十二時過ぎに、テレビの消えたリビングに菜実は降りてきた。テーブルには、コロッケとプチサラダ、ハヤシライスがラップがけされて載っている。
 「食べるん?」紅美子が小声で囁いて訊くと、菜実は俯き気味の顔を縦に振った。顔には、まだ表情がない。
 紅美子がコロッケ、ハヤシライスの順番にレンジに入れ、鍋の味噌汁を加熱した。加熱の終わった夕食を菜実の前に置くと、彼女は箸を取り、味噌汁を啜り始めた。
 ハヤシライスのスプーンを口に入れた菜実の目から、涙が滴り落ちた。顔は無表情のままだった。
 紅美子は分かっていた。菜実にとって、絶対に起こってはいけないことが起こり、その現実を、彼女の精神が遮断していたのだ。それが今、受け入れられないそれを受け入れ始めている。
 無表情だった菜実の顔が歪み始めた。口に入れたコロッケの切れ端が、への字にひずんだ口から、弱い咀嚼のたびにこぼれ、テーブルの縁に落ちた。手に持った箸も、力の抜けた指から落ちた。
 菜実は口周りがソースで汚れた顔を天井に仰ぎ向け、空気を震わせるような重く低い号咽を響かせた。その号の中に、お母さん、という言葉が含まれていた。歪んで開いた口の中では、白い具材を覗かせたコロッケが歯の上に載っていた。
 紅美子は菜実を後ろから抱きしめた。紅美子の慟哭が、菜実の号に重なり、響き合った。
 階段入口に佳代子が立っていた。彼女も哭いていた。それは菜実、紅美子と心を交換し合ったための涙だった。
 仕事から自由になった村瀬は空手に浸かって費やしていた。月曜の夕方から、また、土曜の午前からの稽古に休まず出、日曜午前の型分解講習、火曜夜の武器術講座にも出席していた稽古日以外の時間にも自主練習をし、ストレッチ、ランニング、筋トレも欠かさず行っている。
 その目的は、守る力に磨きをかけるためだった。
 型と約束組手を中心に行ったその日の稽古を終え、緑萌えの、暖かな四月半ばの船橋海老川に出た。あれから、まだ菜実とは連絡を取り合ってはいないため、彼女の状況は分からないが、あの三里塚の一件のあと、本人から電話があり、事無くホームに送り届けられたことまでは知っている。
 川沿いの東屋に腰かけ、スマホを見ると、恵梨香、博人からのショートメールが入っていた。それぞれ福祉施設、就労継続支援の仕事を頑張っていることと、菜実を自分達の新しい母として迎えることに戸惑いはないと伝える内容だった。
 二人の子供は、菜実を、自分達を守るために命を張って戦ってくれた人、と認識している。そこに二人の人間的聡明さ、強さを見る思いだが、それは村瀬を複雑な心境にさせるものでもある。
 仰ぎ見た澄んだ船橋の空には、日の丸のマークが描かれたオスプレイが、二機、飛んでいた。
 忌引を含めた一ヶ月のトレーニング休みを、菜実は申請していた。ワークサポ湊の女性施設長も支援スタッフ達も、「ゆっくりと休んで、気持ちが鎮まって、癒えた時に来なさい」と言ってくれている。菜実の家族事情は、スタッフ間で共有されている。
母のことだけではない。あの雑木が生い茂る大字の小屋で、自らが行ったことに対して、罪の気持ちが湧き出している。その動機、理由を弁ずる思考機能は、彼女にはない。人の体を傷つけ、傷痍の身にした。その事実だけが罪悪の念を生じさせているのだ。
その時に、それを自分が躊躇なく行ったからこそ。
 居室の小箪笥の上には、魔法少女バトンと並んで、唯一現存する母の写真が、小さな額縁に入って飾られている。父との写真も隣に並ぶ。どこで撮影されたものか、また、はっきりとした年代は不明だが、ブラウス姿の胸から上が写っていて、わりと満ち足りた笑みの顔をしている。その顔は、今の菜実と生き写しだった。
 撮影者は、父と思われる。
 居室でそれを手に取り、見ている時、チャイムが鳴り、夕夏が応対している声が聞こえた。やがて、居室のドアがノックされ、開けると、小さな驚きの顔をした夕夏が「お父さんだって‥」と菜実に伝えた。
 玄関で、去年の柏以来に対面した父の洋一は、あの時から一層やつれた顔で、娘の名前を呼んだ。菜実は、ただ驚きだけを刻んだ顔で、父を見た。
 「身分を証明する物、持ってます」洋一は言い、背負ったリュックサックから療育手帳を出し、顔写真、氏名入りの項を提示した。
 「社会福祉士さんに助けてもらって、なあちゃんがここに住んでることが分かったんだよ」なあちゃんとは、菜実が幼い頃、祖母、今、目の前にいる父と、先日獄に繋がれたまま死んだ母という両親が用いていた彼女の呼び名だった。
 「ごめんなさい。失礼だけど‥」夕夏は菜実の耳元に口を寄せ、潜めた小声を出した。
 「本当に、池内さんのお父さんで間違いないの?」夕夏に問われた菜実が、口許を小さく笑ませて頷いた。
 それは約一ヶ月前、一見それらしく見える手帳を見せた、警察を名乗る男達が菜実を騙して連れ出したということがあっての、かすかな疑念が込められているからのようだった。
 「中に入られてお話されるのはいかがでしょうか。お茶をお出しいたしますので」「いや、ちょっと、他の人には聞かれたくない話もしなくちゃいけないから‥」洋一は夕夏に手を振り、ホームに入ることを断った。
 菜実は服を室内着からピンクのジャンパースカートに着替え、軽くメイクもし、洋一とともに出た。
 洋一とともに大久保方面へ歩き、その道中、父は自動販売機でジュースを二本買い、一本を菜実に手渡した。
 二人は、十字路を少し過ぎた所にある、赤い鳥居と祠のある公園に入り、目の前にシーソーのあるベンチに並んで座った。公園では、桜が散りかけていた。気温は、五月並みの高さだった。
 「ごめんね。本当に長かったよね、なあちゃん。お父さんは、自分の勝手でお母さんとなあちゃん、置いて出てっちゃったけれど、なあちゃんとお母さんのことは、これまで一日も忘れたことはなかったんだよ」洋一は、痩せた肩を撫でさせ、詫びと、これまでの心境を述べた。火を点け、咥えた煙草の先が、話すことに勇気の要ることを話さなくてはいけなくなる緊張に、わずかに震えていた。前髪、もみ上げの白みも、これまでの心労を表していた。
 公園には、まばらな数の親子連れと、少人数の子供達のグループがいるが、隅のベンチに座る壮年の男と、若い女が話していることにまで聞き耳を立て、関心を示す者はいない。ただ、団地側のブランコで男の子を遊ばせている若い夫婦の夫が、菜実をちらちらと見ており、そばの細君の顔が、どこか怒っているように見える。その細君は、器量よしとは呼べない顔立ちをしている。
 「お母さん、死んじゃったよ」菜実が告げると、洋一は、煙草から口を離して、さほど驚いた風でもない顔を娘に向けた。
 「いつ?」「三月。刑務所さんの中で、頭が痛いって言って倒れたんだって。きょうどうっていうお墓に入ったの。私、いっぱい泣いたよ」
 洋一は表情の動きを止め、菜実の顔をしばらく見つめてから、鳥居と祠のほうへ顔を向けて、しばらくの間、黙した。
 「お母さんが、人を殺して、お金を盗って、逮捕されたことは、お父さんは知ってたよ。お父さんも刑務所に入ってた。その刑務所の中で、自由に読める新聞を読んだことと、中のテレビで知ったんだ。どうして入ってたかっていうとね、あれからお父さんは別の県へ行って、寮に入って働いてたんだけど、その寮で、悪い人に付きまとわれて、暴力団に入れられちゃったんだ。それで、密猟っていう名前の犯罪をやらされてね、それでね」洋一は社を寂しく見つめながら、震える手に持った煙草を口に運び、煙を吸い吐きした。
 「お父さんが障害を持ってるっていうことが分かったのは、刑務所、出てからなんだ。ネットカフェとか漫画喫茶、泊まってて、そのお金がなくなって、路上で暮らしてる時に声かけてきた人達がいて、自分達が持ってるアパートに住ませてやって、ご飯も食べさせてあげるから、その代わりにって言われて、病院で検査、受けさせられて、それで知能が少し遅れてることが分かったんだよ。先月までそのアパートに、他の何人かの男の人達と一緒にいたんだけど、それやってる、トゥゲザーハピネスっていう所の会長と職員が警察に捕まって、そこ、なくなったんだ。それで今、お父さん、船橋の“まりの”っていう障害者の施設で、お部屋、貸してもらって住んでるんだよ」
 洋一の語り口調は淡々とし、説明語彙も拙いが、それがかえって、これまで自分の歩んできた黒い霧の道の闇深さを強いタッチで綴っていた。
 二人の父娘が座るベンチの斜め前に、いつの間にか、赤ラメ塗装のアコーディオンを携えた初老の男が立っていた。男はやがて蛇腹を伸ばし、流麗な指遣いでキーを押して、曲を奏で始めた。
 「私も、手帳持ってるよ。中学卒業して、ずっと普通の会社さんで働いてて、二十歳過ぎてから、病院さんで、障害あるって言われて、お手帳もらったの。それで、今の恵みの家さん入って住んで、前はダブルシービーさんっていう所でお仕事してたんだけど、そこ、施設長さんと、施設長さんの次に偉い人が、いいくないことやって、なくなっちゃったんだ。それで今、ワークサポ船橋さんっていう所で、普通の会社さんに就職するためのトレーニングしてるんだ」「そうなんだね。立派にやってきたんだな。すごく苦労してきたと思う。大変だっただろう? 今、誰か、彼氏とかはいるのか? お嫁さんにしてもらえそうな男の人は‥」菜実を隣から振り返って見た洋一の顔は、娘の将来を案じるものだった。それは、彼女に寄りつく者への懸念も含んでいた。
 「大切に思ってる人はいるよ。今、テレビでやってる、純法、知ってるよね」「勿論知ってるよ。すごく大変な事件だよね。障害持つ人たちが、売春させられたり、お金取られたりして、警察も、議員も、関わってたんだよね」「私、純法の法徒だったんだ。それで、男の人達のお相手やって、お金もらってたの。そのお金で、お母さん、刑務所さんから出す弁護士さんのお金、貯めようとしてたの。そのお金、孝子叔母さんに預けてたんだけど、叔母さん、私に嘘言って、そのお金、別のお参りさんに渡してたんだ」
 洋一の目が、到達の緩慢な衝撃を受けたという感じに、少しづつ大きく見開かれた。
 「それ、教えてくれたの、お参りの手繋ぎ式で知り合った、村瀬さんっていう人なんだ。村瀬さんが、柏の叔母さんのお家に行って、私に嘘ついてお金送らせるのやめてって言ってくれたんだよ。それで私、村瀬さんに言われて、叔母さんに、自分で、もう会えらんないって言ってきたのよ」
 菜実のほうを向いた洋一の顔に真剣味が増していった。
 「村瀬さんって、男の人だよね」洋一が確認するように訊くと、菜実は頷いた。
 「スーパーさんの店員さんしてる人で、私よりも年上なの。それで、私の所に、純法の怖い人達がもう近寄れらんなくしようとして、私、助けて、守ろうとして、お怪我もした人なんだ。その人が、私の、男の人騙してお金持ってこさせる悪いお参り、やめさせてくれたんだ。私、小さい頃にお父さん、遠く行っちゃって、ずっとお父さんいなかったから、その人、もう一人のお父さんみたい思ってたの。私のこと、いつも優しく、抱いてくれた。私のことで泣いてくれた。私、その人のお嫁さん、なってあげたかったの。でも、ホームの職員さん、将来に私の負担になるからって言って、反対されたのね」菜実は述べ、赤くなった鼻を啜り鳴らした。
 「それで、前、職員さんの紅美子さんが知ってる人の知り合いの、パン屋さんの男の子、紹介されたの。その人も私と同じ療育手帳持ってる人で、すごく優しくて、いい人。悪い人じゃ絶対ないって、私思ったよ。私がお嫁さんになったら、絶対、一生優しくしてくれるって。私、前、男の人に嘘つかれて、お腹に赤ちゃん出来させられたことあったから」
 洋一が顔を乗り出した。その目の色には、少しづつ濃度を増す怒りが見える。
 「その女の子の赤ちゃん、私、産んで育ててたんだ。だけど、一歳半の時に、事故で死んじゃったの。だけど、私、そのあとも頑張ったよ。悲しいのに負けちゃ駄目だって、心で自分に言って。どんな時でも、後ろを見ないで、前、見て生きていこうって思って。後ろ見たら、人生が止まっちゃうから。それで、今日まで来たの。私のこと、助けてくれた人、守ってくれた人が喜ぶように、頑張ろうって‥」
 斜め前の初老男がソロ演奏している曲は、フォークダンス曲のキンダーポルカだった。
 洋一の眦が下がり、肩が震え始めた。
 「パン屋さんの男の子、島崎君っていうの。間違いないんだ、彼が本当にいい人なのは。でも、今、私の中には、村瀬さんよりも大切の人、いないの。それで今、いろいろ考えてるんだ」
 洋一の喉から、小刻みな急呼吸が漏れ、充血した目から涙がこぼれ落ちた。
 「私、これから返していくんだ。いろいろな人達が、私にくれた愛とか、思いを。私に辛くした人達だって、みんな心の中に寂しいの、悲しいの、たくさん持ってる。そういう人達のことも、いっぱい助けてあげようと思ってるの。私に悪くする人達も、みんな、優しい心で包んであげるんだ。これからも、いっぱい、たくさん。村瀬さんが私のこと、包んでくれたみたいに‥」菜実は、人生経験を経た者ならではの力強い語調で述べて、こぼれた小粒の涙を小指で拭った。
 「なあちゃん、赦してくれ‥」洋一は咽びの中に詫びを混ぜた。
 「お母さんとなあちゃんから逃げたあの時、お父さんは、どうしても自由になりたかったんだ。自由になって、普通の人になりたかったんだ。勉強も運動も駄目で、喧嘩も弱くて、いじめのトラウマも持ってて、自分に自信がないから、誰でもいいから誰かに相手にしてもらいたかったんだよ。それで、付き合いだした人が、たまたま、障害者なのに手帳も持ってない、暗闇に棲んでる人だったんだ。それがお母さんの康子だったんだ」咽びを抑えて語る隣の父親を、菜実は深い情愛のみを込めた目で見ている。
 「その暗闇から逃げるために、お父さんは、お母さんとの間に生まれたなあちゃんのことも、最初から無いものだと自分で思うようにしたんだ。それで、遠くへ逃げたんだ。自分の知らないうちに、なあちゃんがこんなに辛くて悲しい目にたくさん遭ってきたことなんて、考えもしてなかったよ。自分のことで精一杯だったんだ。自分が、いつも怖い思いして、悔しさの中にいたから」洋一は菜実の手の甲を握り、五十代半ばの顔をくしゃつかせ、涙の弾を膝の上に落とした。
 どこかで発表することを目標とする練習らしいキンダーポルカの旋律は、春の暖かな空気に染み込むようにして流れ続けていた。ハンデを背負いながら、支援も医療的ケアもない世界に長く棲んできた、一組の父娘を労り、慰めるように。
 愛らしい情景を思い浮かべさせる懐かしいメロディに、老い先が見えている齢の男の号が宙で交わった。アコーディオンの初老男は、キーを叩き、蛇腹を伸縮させながらベンチの父娘に優しく流し目を遣り、その号菫に気づいた子供達は、きょとんとなった顔を向けていた。
 村瀬が須藤にライン連絡し、常盤平駅前で待ち合わせたのは、ゴールデンウイーク三日目の日だった。
 「忙しかったみたいだね」須藤は前回と同じ「別所庵」で、労りの笑顔を向けてきて、村瀬は声なく、口許を微笑させて頷いた。
 二人で同じ鴨せいろを食べ、お一人様一杯サービスのコーヒーを飲み、会計を済ませて、公園に足を伸ばし、ベンチに座った。
 村瀬は黒のTシャツ姿で、須藤も長袖Yシャツの袖をまくっていた。今週の関東は空は快晴、今日の気温は二十五度ほどで、街を行く人達は、ほとんどが夏の服装をしている。
 「これ、須藤ちゃんだから話せることなんだ。あの時から三月頃まで、さながら何かの映画みたいな体験をしていてね‥」語り始めた村瀬に、隣の須藤が耳を傾ける体勢を取った。
 「チャリティコンサートのチケット、二枚もらったから、今日、一緒に行きませんか」三ヶ月前に簡易な見合いをして知り合った島崎英才からのライン電話を受けた時、菜実の心に起こったものは、六割の嬉しさと四割のためらいを抱かせる感情だった。
 先月、大久保の神社公園で父に言った「大切な人」の比重については嘘偽りはない。だが、紅美子からの諭しも、菜実の胸には重みを持った真実のこととして響いていた。
 母が獄死して、共同墓地に埋葬されてから経過した二ヶ月の時間は、目標と呼んでもいい存在を亡くした菜実にとって、これから自分は自分の生をどうするかを真面目に考えさせる期間になった。
 先月、キンダーポルカが流れる公園で哭いた父は、「もう一度、なあちゃんの親をやり直したい。だから、いつかは一緒に住みたい」と言い、菜実は承諾の意思を態度で示した。
 自分が使うことの出来る限りの知恵を駆って、私は私の人生を開拓していく、という未語彙化の思いを巡らせながら、大久保から船橋へ流れていく窓外の景色を追った。なお、今日選んだ服装は白のレトロワンピースで、靴はいつものワインレッドのパンプス、ブラウン色をしたエルメスのショルダーバッグ、髪はサイドを編み込んで後ろでまとめたスタイルだった。ファンデーションの濃度は抑え、ルージュは朱色を選んだ。
 英才は、縞柄の半袖Yシャツにジーンズ、リュックサックという姿で、京成船橋の改札前に立ち、菜実を待っていた。近づいてくる彼女を見た彼の顔には、面一杯の笑みが浮かんだ。菜実も笑んだ。彼と笑みを合わせたことについて、菜実は、比重、順番というものを越えた、これも一つのプレシャスネスだという解釈を、また未語彙ながら心に留めた。
 「来てくれてありがとう‥」礼を述べた英才の、眼鏡奥の目は潤みを湛えていた。
 「これなんだけど」言って見せた二枚のチケットには、「かるてっとポンスケ」とあり、破顔一笑する狸の顔のイラストが描かれている。
 「バリアフリーバンドなんだ」「ばりあふる?」菜実が訊き返すと、英才は、うん、と頷いて、障害者と健常者が一緒に組んで、難しい楽器は健常者が演奏し、簡単な楽器を障害者が担当するバンド、と説明した。
 「ごめんね、あれから三ヶ月も連絡待たせちゃって」本町通りを並んで歩きながら、英才は菜実に詫びた。
 「いいよ」菜実は首を振った。自分の顔に自然な笑みが浮いていることを、彼女は認識していた。
 「私も、ごめんなさい。いろいろあって、心で整理してて、それで連絡出来なかったんだ。でも、今日、会えたから‥」菜実も、はっきりとした語体で詫びの礼を返した。英才は、それを笑顔で受けた。
 「あの、菜実さんって何だか‥」目を前方へ向けて歩きながら言いかけた英才に、菜実は顔を寄せた。
 「キタキツネみたい。動物にたとえると」「えっ? 言われたの、初めて‥」互いにはにかんだ二人の手の小指側が当たり、やがて、英才が、まず、指を取るようにして、菜実の手に自分の手を絡めてきた。
 固まった意思を交わしたように、二人の手が繋がれた。英才の掌の感触からは、若くしてかい潜ってきた苦労が伝わってきた。それは菜実の胸に直接入ってきた感じがした。
 胸から温かみが沸き、皮膚全体にそれが浮いてくる感覚を、菜実は覚えていた。それを体に感じている自分に、わずかな負い目も覚えた。自分が頬を載せた村瀬の胸の温かさが、不意に思い出されたからだった。
 「豊ちゃん。本気なのか?」ベンチの隣から向けられた須藤の目に籠っている感情が怒りのそれだと気づくまで、少しの時間を要した。
 「いや、言い換えさせてもらうよ。正気で言ってるのか!」須藤の言葉に真面目な喝が入り、村瀬は内心にびくりと来るような気持ちを覚えた。
 「起こすなよ、馬鹿な甘い考えを!」須藤は両手に握った拳を、自分の腿に打ち落とした。
 「甘い?」ややむっとして、眉に皺を浮かべた村瀬が問い返すと、怒った顔の須藤が、頭突きでも食らわすような勢いで、烈しく頷いた。
「そうだよ。判断力が自分達よりも何割も劣ってる人と、五寸の恋愛、結婚が成立することが出来るなんてことを、本気で信じてる時点で大甘だよ。豊ちゃんが、あの恐ろしい奴らと関わって、命が失われかねない目に遭って、その上、娘さん、息子さんまでが危険に晒された原因の人が、そもそも誰だと思ってるんだ」「でも、須藤ちゃん、さっきも言ったように、その子は‥」「デモもストもゲバもないぜ、本当に!」須藤の大声に、二人の前を横切って通りかかった若いカップルが、驚いた目を向けた。数メーター向こうのベンチで香箱座りをしていた三毛猫も、目を丸く見開いて反応している。
カードを持って遊んでいる少年達も、同様に、丸く剥いた目を向けていたが、須藤は唾を飲み下し、何でもないよ、というサインを、彼らを始めとする公園内の人達に挙手で送った。
「俺達みたいな、健常域にあるとされる人間達は、物事から学んで、情報を取り入れて、成長するものだよね。だけど、そうでない人は、そういう辺りで、俺達よりも格段に弱いんだ。今、尊教純法事件、貧困ビジネス摘発ドミノと一緒に、不祥事が相次いで起こってる支援の仕事っていうものは、一種の管理の業務なんだよ。利用者を、擬人化じゃない擬物化することから仕事が始まるんだ。そうでなければ、常識が通用しない人達を見ることは出来ないからだよ」
 村瀬は須藤の語勢に圧されながら、三月に恵梨香が言っていたことを思い出した。間にお金が入るから、私は今の仕事を頑張ることが出来ている。それのない面倒見など出来るものではない、という趣旨の、表現に遠慮を忍ばせた警告とも取れる言葉だった。そのあとの、抱きたい時に抱けるから? という質しも、頭に蘇っていた。それを博人がフォローしてくれ、それから三里塚の一件を経て、「自分達を助けてくれた人」として、父の再婚相手として、許可印を捺してはくれた。だが、言葉には出せない内心の思いというものもあるだろう。二人なりの遠慮、父への気遣いというものもあるのかもしれない。
 それを思うと、須藤の言葉が、より心に刺さる思いがする。村瀬はうなだれた。
 「その子には判断力がない。これは差別でも何でもない、医学的事実だ。その判断力不全のために、自分に向けられた悪意が分からない。自分を貶めて利用する人間と、そうでない人間を判別することが出来ない。だから、周囲の人間が危険に巻き込まれる。豊ちゃん、自分の心をきちんと見つめ直すんだ」
 村瀬は、うなだれた顔を上げた。今、胸にある感情は気恥ずかしさだった。
 「俺の中学時代からの親友が、今、大変なんだ。親父さんのパーキンソン病が進行しててね、施設は入所待ちで、いつ入れるか、まだ見通しが立っていないそうなんだ。それで今も在宅介護でね、週に二回程度、ヘルパーに訪問してもらってるんだけど、基本的には、お袋さんと、下の妹さんが介護してて、そいつも折を見て行って、介助に入ってるんだ。ところが、そのお袋さんまでが認知症を発症しちゃってね、それで予断のならない状況なんだよ。それで、そいつは、まだ金のかかる子供もいるのに、仕事を辞めなくちゃいけなくなるって言って、今、泣いてるんだ」村瀬には、これから須藤が言わんとしていることが理解出来た。
 「アルツハイマーにしろ、パーキンソン病にしろ、それまで健康に自信を持ってた人を突然襲うものなんだ。それが未来の俺達のことじゃないなんて言える保証はないんだ。決めつけるつもりで言うわけじゃないけど、仮に結婚したとして、もしもいつか自分がそういう病気に倒れたり、老いて虚弱になった場合、そんな負担を背負わせることが前提になるような結婚でいいのか。まだ俺達の半分の年月しか生きてない、未来があるはずの年齢をした、まして障害者の女の子に‥」須藤の声は、震えを帯びて消えた。
 村瀬はまた項を折った。脳裏に、うなだれて座っている自分の姿が、鏡を見るように浮かんだ。その姿が、無の果てへとフェイドしていく様がイメージ映像となって思考の中に映し出された。それから、自分の脳、神経、筋肉が、全ての動きを止めていく感覚に見舞われた。
 須藤への怒りもなく、悲しみもなかった。ただ、本心では、薄らと分かっていたような、分かっていなかったような気もする所を、隣の元同僚に痛く刺された感じだった。それが、村瀬の体と心から、力と呼べるものを抜き去っていた。
 「悪かったよ。感情的になっちゃって」須藤のこぼした言葉が右耳から入り、村瀬は垂れたうなじを前に直した。
 「豊ちゃんがうちの支店で渉外の主任やってた頃の苦労、いや、苦悩は、俺もそばで見てたし、豊ちゃんの家庭のことも、耳に挟んで、ある程度知ってたよ。スーパーでも大変だったはずだよな。当たり前だけど、客を選べないっていうところで同じだからね。豊ちゃんには、その苦労、苦悩の人生を、これ以上長引かせてもらいたくなかったんだ。一緒に艱難辛苦をかい潜った仲間としてね。その子に本気になっちゃったのは、豊ちゃんが持つ人間的な良さからだってことははっきりと言えるよ。これは、豊ちゃんが、本当にいい人間だからこそ起こったことだよ。だから、空手を習う資格も持ってるんだ。だからこそ‥」こぼすように言う須藤を、村瀬は振り返った。
 「人が持つもの、背負うもの、これをしっかり踏まえた関係性を築くことが大事だっていうことを分かってほしいんだ」須藤の目からは、先までの怒りは失せていた。あるものは、所属こそ違えど、支店をともにし、銀行員として同じ苦労を分け合ってきた元の同僚を想う、情の光だけだった。須藤の顔を見ず、数テンポ遅れて頷いた村瀬の耳に、カードゲームに興じる少年達のはしゃぐ声が入ってきた。野良の三毛猫は、目を細めて、香箱体勢のままの日向ぼっこを続けていた。
 菜実には、漠然と「古いテイストのロック」であることだけは分かった。ステージにはバンド名の垂れ幕が下がり、ギター類を持つメンバー、ピアノ、ドラムが健常者、二人の男女のツインボーカルが障害者だった。その周りで、数人の障害者達が、タンバリンや太鼓類を打ち鳴らして、自由に踊る。みんな、工夫したオリジナルメイドの、キッチュだが華やかな衣装を着けている。レパートリーには、菜実にも聞き覚えのあるナンバーもあった。会場の客には、支援スタッフに引率されて来ている、知的や身体の障害者達が目立っていた。
 聴かせる曲もあったが、どちらかというと、乗せる曲が中心で、客の知的障害者達は、手を打ち鳴らし、体をくねらせて乗っていた。ステージにはテープが飛んだ。
 菜実も、知らぬうちに手拍子を打って、演奏される、ユーモラスな歌詞を載せたナンバーのリズムに乗っていた。隣の英才もタップを踏んで、膝を手で叩き、菜実と笑顔を交換した。
 同じものを観、同じものを聴いて、同じ楽しさを、年代が同じ者同士、二人で共有している。これは、菜実が送る若者の時間では、ほぼ初めてと言っていいことだった。
 一時間半の公演が終わり、アンコールを求める呼び声が響き、一度降りた幕がまた開き、菜実の愛好するmaybeのLove Lakeが唄われた。ボーカルは、ツインの一人である女子のソロだった。そのボーカルは、出来るだけ原曲の雰囲気に近づけようとする、いじらしくも微笑ましいものだった。曲の良さを壊すまいと静かに鳴らされるタンバリンが、さらに感動を誘った。
 最後にギタリストが、私達、かるてっとポンスケは、これから韓国、ベトナム、香港のツアーに出ます、今後も私達の躍進をお見守り下さい、と挨拶し、コンサートは締めくくられた。
 「航平の奴、オスロで彼女作ったんだ」常盤平駅前で別れ際、須藤はスマホに保存された一枚の写真を村瀬の目の前にかざした。
 写真の中では、アベニューのカラーベンチに、移民と思われる浅黒い肌をした女の子と二人で座り、その体を抱きしめて頬にキスをしている、青年になった、須藤の長男がのろけアピールをしている。
 「見ての通り、移民の子で、通じ合うものがあって付き合い出したらしいんだ。向こうで就職して、永住権を獲得して結婚するって言って、聞かないんだよ。親の俺が何を言っても。お互い、日常会話レベルの英語でそこそこコミュニケーションが取れるったって、習慣のギャップがあって、食べ物も違う相手の家族と上手くやっていける自信がどこまであるのかね。まあ、こんな具合に気を揉んでいられるのも、親と子、お互い体力、気力が残ってるうちだけだよね」須藤がこぼし、村瀬は瞼を落とした。
 じゃあ、時間のある時に、また、と交わし、笑顔の余韻を置いて去っていく須藤の背中を見つめながら、村瀬は、今後の職業的進退が自分の中で定まった思いを抱いていた。それはマニュアルのような表面的な説明では学び得ない、自分がこれまで、イノセントな者達として保護本能を作動させてきた人間達の本質を、須藤の友情ある喝によって理解の第一歩に進めることが出来たからこそ、というものもあった。
 コンサートの終了した本町文化ホールから、二人、手を繋ぎながら出た。二人の足は、確かに菜実が引くようにして、港町の方向へ向かっていた。会話数は、極めて少なかった。
 英才を引いて、黙して進んだ菜実の足は、京葉道路前の、階数の高い「サボイア」という屋号のラブホテルの前で止まった。
 そこが何を求める、何人の人間が入る場所なのかを、英才がちゃんと分かっていることは、表情に見て取れた。
 自動ドアを潜り、菜実の指が、室内の写真が内照ライトに光る号室の、REST、のパネルをタッチし、キューブに繋がれたキーが落ちてきた。
 エレベーターの中でも、着いた七階の廊下でも、英才の表情は、いかにも成り行きに任せる気持ちを決めているという風に、動かなかった。
 二人の入った705号室は、白を基調とした壁、木目の埋め込み柱に囲まれた、落ち着いたレイアウトの部屋だった。
 「お願い‥」菜実は言いながら、くるりと英才の前に回って立ち、彼の両手を自分の手に繋いだ。
 「私には、忘れたくなくても、忘れていかなきゃいけない人がいるの。英才さんに、その人、私が忘れられるようにしてほしいんだ」菜実が握った英才の手が、彼女の乳房に導かれ、当てられた。英才に、自分の目と頬の動きに少しづつ込み上げる興奮を抑えようとする様子が見られた。
 「私、誰かのお世話から離れて、自分で、自分の人生、作りたいんだ。そのために、その人の思い出、越えないといけないの」
 目に涙を汲んだ菜実の編み上げた髪を、英才の指が撫でた。英才は、その撫でる手を止めると、眼鏡を外した。その目には、決意が見えた。
 ベッドの上で、勃起した陰茎を立てた全裸の英才は、菜実の背中に手を回し、ワンピースを脱ぎ去った彼女のブラジャーのホックを探した。見つけられずに焦っているところ、菜実がフロントのホックを外した。さらけ出された乳房の片方をそっと掴んだ英才は、それを優しく揉みながら、菜実の唇に自分の唇を重ね、片方の手で背中を抱きながら、彼女の体に覆い被さった。
 英才の手でパンティが静かに抜かれると、菜実は大きく腿を広げ、潤みを満たし、彼を迎え入れる形にほころび開いた、陰毛の下のラビアを自分から露出させた。自分の目の下の赤条とした眺めに視線を吸われ、鼻翼を膨らませている英才の手を菜実の手が取り、さらけ出された性器に導いた。
 「上から下にでも、下から上に、でもいいから、こすって。女の子は、こうされると気持ちいいの」菜実がどこか唄うような声で言い、英才は、導かれた手を上下にスライドさせた。ごってり、ごってりと粘膜が音を立て、菜実は深く目を閉じた顔を斜めに向け、体を弓のように反らした。
 手の愛撫を一度終えた英才は、どこかで観たものを倣うように、菜実の片方の乳房を揉み搾り、もう片方の乳房を唇で食んだ。それから、菜実の手が英才の陰茎を取り、自分の中へ、彼の腰ごと沈めた。
 英才の体の動きは、初めはいくらかためらいがちにゆっくりとしたものだったが、自分の中心から全身に拡大した甘い感覚に魂ごとさらわれたように、シーツの上で両掌を固く繋ぎながら、次第に烈しいものになっていった。
 英才の精が菜実の胎内深くまで確かに届いたという感を二人で得た時、彼と菜実は、腕と脚を互いの体に強く絡め、まるで一つのもののような姿形を成していた。
 放ったもの、残韻するものを確かめるように一体化した二人は、しばらくその組み姿を留めた。
 その時、菜実は、汗にぬめった英才の頸を腕に包みながら、自分が心の奥底で長い間、語彙に表すことなく望んでいたことの、一つの段階を踏んだ思いを胸に噛んでいた。感じているものは、村瀬に抱かれた時とは異なる充足だった。
 半眼で見上げるシャンデリアが下がる白い天井に、今から自分の行く道の光景が、朧と映ったように思えた時、耳元に英才の泣き声を聞いた。それは、彼自身も、長らく望みながら得られる見通しが立っていなかったことに、今日、ようやくありついたがための、喜びの泣咽だと、菜実にははっきりと分かった。
 「本当にありがとうございました」市川の借家の前で、玄関前に並ぶ早瀬裕子、娘の美春の前で、村瀬は深く腰を折った。それは、自分やその周辺者の手には負えなくなった娘を転がり込ませる迷惑をかけたから、という意味も込めた詫びも兼ねた同時礼だった。
 「いいんですよ」裕子は少しはにかんだように笑って返すと、隣でTシャツの裾を掴む美春の頭に手を載せた。
 「元々は、あいつ自身が、もう大人の年齢にも関わらず、危機管理が出来なくて、そちら様を巻き込んでしまったことが始まりだと思うと、どれだけの迷惑をおかけしたかと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。まして、ご自分のお体を傷つけてまで、他人のはずのあいつを助けてくれたなんて‥」「気にしないで下さい」裕子は言い、梅雨明けの澄んだ午前の空を見た。
 村瀬は、恵梨香が多くを語らないなりに、裕子が非凡な人生経験を持つ人間であることを察知していた。
 「人を傷つける側の子も、傷つけられる側の子も、他人として見ていられないのが私の性分なんです。それで、恵梨香ちゃんに他人のようなものを感じなかったから、自分に出来ることをしただけです。そういう始まり方をした縁でしたけれど、今、恵梨香ちゃんは、私とこの子にとって、他人じゃないんです。家事の手伝いだけじゃなくて、この子の身体介助までやってくれてますから。だから、寿の縁が出来るまで、私の家にいてもらおうと思ってるところなんですよ」裕子は述べながら、娘の頭をぽんぽんと叩いた。
 裕子ともう一度辞儀を交わし、市川南の道を歩き出した。市川駅へ続く商店街ロードの街路樹には、様々な願いの書かれた七夕の札が飾りつけられていた。
 菜実と、また会おう。思いを留めた村瀬は、七月の陽光にさんざめく商店街の道で立ち止まった。
今日の気温は25度ほどで、日傘を差した女性が時折通り過ぎる。八月には、災害級の熱波が到来する可能性があるとニュースは報じている。
あの三里塚の夜から三ヶ月半が経過し、今の菜実がどういった近況にあるかは分からない。ダブルシービーが取り潰しとなり、別の通所を見つけたか、それとも企業に就職したか。まず、そうしたことを知り、それから、今後のことを考えていこうと思った。
村瀬が連絡を控えていたのは、菜実の心境を慮っていたからだ。また、今は、須藤による友情の叱咤も心に留まり、残っている。それは間違いなく正しいのだろう。正しいからこそ、どうするべきかという悩みが抜けない。
境内の石畳を、白草履の足が一歩づつ、しなり、と踏み、本殿へと進んでいた。和髪の上に綿帽子の、紅を点した顔は、何かを憚るような軽い俯きを見せ、袴の姿をした相方が併歩している。その二人の前には烏帽子の斎主が歩き、後ろからは二人の巫女が続き、紅い日傘を新郎と新婦の頭上に差し、速度を合わせて歩いていた。その後ろから、和装と、白ネクタイの背広の姿をした、壮年の男女三人が続いていた。雅楽演奏は、資金的な都合でパスしているようだが、間違いのない幸せをこれから紡いでいくという決心は、二人の姿、足取りに表れていた。
綿帽子に白無垢姿のその新婦は、庇うように、自分の下腹に手を添えていた。
村瀬の携帯がバイブし、非通知が表示されたのは、商店街の喫茶店でナポリタンを食べてアイスコーヒーを飲み、会計を済ませて店を出た時だった。
その非通知着信は、三月に三里塚で死んだ李からのもの以来だった。
「村瀬さん?」通話口から、基本少し高めだが、低く落とした男の声が漏れてきた。
「どちら様でしょうか。村瀬は私ですが」平静を装いながらも緊迫を帯びた自分の声が通話口に反響するのを、村瀬は鼓動を高鳴らせながら聞いた。
「あなたの弟の、義毅さんの縁に繋がる人間だと言っておくよ」「義毅の?」男の答えに、村瀬は呼吸を止めた。
「良かったな。あなたの大切な人と、あなた自身が当事者だった物事が、解決がついて。今日は国会中継が流れてるけど、野党が与党の責任の所在を糾弾して、大荒れだよ」「何が言いたいんだ」村瀬は敬語の言葉遣いを解いた。
「あなたが命懸けで守った人が、今から挙式だ。場所は、幕張の本郷子安神社だよ。生前の義毅さんに言われて、今日まで離れたとこから張ってたんだがな。言いたかったことを伝えられる期限は、今日いっぱいだよ。あんた、行ってやれよ」「本郷子安神社?」「そうだ。税務署の近くにある、さほど大きくはない神社だ」「待ってくれ。あんたの名前を教えてくれ」「残念だけど、無駄話をする間はないんだ。いいか、今すぐ飛んでいかなきゃ間に合わなくなるぜ。急げよ、村瀬豊文さん」通話を切り際の声に、かすかな笑いが混じったように聞こえた。
村瀬は手にしたスマホを下げ、驚倒寸前の顔で数秒ほど立ち果ててから、タクシーロータリーへ足を急がせた。
遠く離れた妙義山の山中で、草叢の上に片膝を着いた松前は、通話を自分から終了させたスマホを足許に下ろした。彼の周りを三人の男が囲み、すぐそばには、人間一人の体がそのまま入る穴が掘られ、一本のスコップが寝せられて置かれている。それは松前が、拳銃を突きつけられ、自らスコップを振るって掘った穴だった。
眉脇に傷のある顔には、微笑に似た表情が刻まれていた。間違いなく道の途中で訪れる最期を悟りながら、いくつかの善行を行うことが出来た、という風の言わんの、涼しい笑みだった。長崎から、暴動の収まった韓国へ逃れることは叶わなかった。
やがて、その肩までを、ナイロン地の袋が覆い、頭部に銃口が当てられた。木々の間に二発響いた銃声が、野鳥達を騒がせ、その群れを四方へ飛び移らせた。
誓詞の読み上げは、漢字の読み取りに困難を持つ英才、菜実を、紅美子が援護した。格子窓があり、木目の壁、床の御社殿だった。それから玉串を祭壇に捧げ、斎主の促しで二拝二拍手一礼を行い、洋一、洋一の養父である島崎、紅美子が続いた。
巫女が、紅白の三方台を手に持ち運び、綿帽子に白無垢の菜実、袴姿の英才の前に置いた。三方台の上には、銀色の台座をしたプラチナリングが収まっていた。
市川から飛び乗ったタクシーは、ニ十分ほどで神社に到着し、村瀬は四千円超の料金をぴったりと支払って跳ね降りた。その運転手の顔が、数年前に病災感染症で死去した喜劇王にそっくりだったことは気にならなかった。
紙垂の下がる赤鳥居を潜り、スクワット、ランニングで鍛えられた脚力、肺活量を駆使して御社殿まで走った。
御社殿の入口扉脇には、島崎様、池内様、という、ここで結婚式が行われているということを表すボードが掛かっていた。扉の前には、アルバイトで雇われたと思われる若い斎主が二人立っている。
「すいません」物も言わずに扉に手を掛けた村瀬に、アルバイト斎主が露骨な迷惑口調の声をかけた。
「困るんすよ。やめて下さい」村瀬はその声かけに、その斎主が未教育の人間であることを察した。
その斎主を裏拳で殴り倒したい思いを呑み下し、木枠の扉をがらりと開けると、綿帽子の新婦と、その指に指輪を嵌めかけていた袴の新郎が肩越しに振り向いて、村瀬を見た。眼鏡をかけ、清潔に刈った短髪をした新郎の顔には、別段驚いた様子はなかった。綿帽子に白無垢の菜実は、優しいキタキツネの眼差しを、振り返った顔から村瀬に送ってきた。
綺麗だと思った。本来、自分が袴、あるいはタキシードを着てそれに寄り添うはずだったものが、という嫉みの気持ちは起こらなかった。
興奮は、鎮まりかけていた。
無言の気が満ちた御社殿の床を踏み、村瀬は新郎と菜実の前に立った。新郎は驚きも、困惑も顔に浮かべてはいなかった。和服の女と、背広の壮年男も同様だった。その男と新郎の顔に見覚えはないが、女は、くみこさん、という、面識のある恵みの家の世話人であることが分かった。
村瀬は言葉なく新郎に辞儀をし、和装の結婚姿をした菜実に向き直った。
「どうしても、君にお礼を言いたかったんだ」村瀬はまっすぐに菜実の目を見て、落ち着きを取り戻しかけた声と言葉を投げた。
「菜実ちゃん。俺は、長い間ずっとずっと、自分を男だと思えなかった。それが、あの時、君と出逢ったことで変わっていった。誰かのために、自分の体を傷つけて、命を懸けて戦うなんてことが自分に出来るとは到底思えなかったものが、自分がそれの出来る人間だと分かったことは、俺の人生で何よりもかけがえのない大きなことだった。どうしてそんなことが出来たかというと、君が持つ、魂の値打ちのためなんだ。人間の醜さは、毎日のニュースを見ていれば、嫌と言うほど分かる。俺も体に刻みつけられるようにして知ってる。人間の悪意っていうものの恐ろしさを」語る村瀬の顔を、菜実は優しく労る目で見上げていた。
「俺は法の外で罪を犯したんだ。あいつらの取り立てに加わって、昔、遠方のバイト先で俺をいじめてた奴と偶然再会した。その時、復讐の念に駆られて、そいつの体も心も滅茶苦茶にするような暴力と辱めを加えた。それだけじゃない。もう八十歳近い、そいつの母親を、バリカンで丸坊主にして、蹴りまで入れたんだ。消えはしないんだ。この罪は」
菜実の顔には、村瀬の話す内容を非難する様子は微塵もなかった。彼女には分からない言葉もたくさん混じっているが、中身は理解していると見える。新郎も、たった三人の参列者も、その言葉を嚙みしめるように聞いているだけだった。
「悪意は、憎しみを呼ぶんだ。憎しみは、さらなる憎しみを呼び込む。これが戦争の終わらない世界情勢の摂理だ。だけど、君の魂には汚れがない。だから俺は、入籍も視野に入れて、一緒にいられるだけの時間を、君と一緒にいようとしたんだ」
村瀬が述べた時、菜実は白無垢の下腹に手を置いた。村瀬の目が、慶び事を分け合うように、ぱっちりと丸く開いた。
「赤ちゃん、いるんだね」村瀬の言葉に、菜実は微笑んで瞼を落とし、小さな頷きを見せた。
 「あと八年したら、お子さんはお祖母ちゃんに会えるよね」村瀬が言った時、菜実は綿帽子の頭を小さく振った。
 「お母さん、もう会えらんないんだ‥」菜実が瞼を伏せたまま、紅を点した唇を動かしてこぼした言葉の意味を拾った村瀬の胸に、生木の痛みが走った。
 「お母さん、死んじゃったの。刑務所さんから病院さんに運ばれたんだけど、助からなかったんだって。クモ膜下出血だったんだって。五月だったの。でも、いいの。紅美子さんと一緒に栃木行って、ちゃんとお顔も見られたし、お墓も教えてもらったから」菜実が事もなげに言った時、村瀬の目は、後ろの神壇へ向いた。
縄が巻かれ、紙垂が下がり、厳粛な飾りつけのされた壇を凝視するうちに、先までの落ち着きが、怒りの思いに消えた。わずかな時間のあと、その怒りに悲しみが交わった。
純法の勧誘員として男達に体を販ぎ、汚い欲望を当てられてきた菜実の時間は、一体何のためにあったのだろう。それで得た金は、全て叔母に騙し取られていた。そんな苦難、悲しみに遭いながら、目標、目的、希望だったものが、何故、こういう形で打ち砕かれなければならなかったのだろう。彼女のあの日々は、何の約束があって存在したものなのだろう。
「村瀬さん、私、お嫁さん、やめる」菜実のはっきりとした発語の声に、村瀬は振り返った。振り返り見た菜実の顔には、本気さが挿していた。
新郎の顔には、動きはなかった。壮年の男女も、何かの言葉を発する気配を見せなかった。
「村瀬さん、私が悪くて、死んじゃうかもしれないことになった。それでも、私見る気持ち変えないで、私のこと守ってくれた。私、村瀬さんと一緒にいる時、幸せだった。ずっとお父さんいなかったから、村瀬さんのこと、お父さんみたい、思ってた。村瀬さんに抱かれてる時、私、あったかいお日様の光の中にいるみたいな気持ちだった。だから、村瀬さんのこと、忘れられない。忘れたくない‥」菜実は新郎を後ろに、村瀬に距離を詰め、腕に彼の首を抱いた。
「村瀬さんでなくちゃ嫌だ! お嫁さん、嫌だ! ずっと村瀬さんと一緒にいるんだ! 村瀬さんと別れるなんで嫌だぁ!」菜実の号泣が、厳かな御社殿の空気を震わせた。熱の涙が、村瀬の肩と胸を濡らした。
村瀬は腹腔から、ダイナモが唸る音に似た声を上げ、歯を噛みしばって、白無垢の菜実の体を抱いた。壊そうにも壊れない強さを保持していることを、すでに見て知っているその体を、壊さんばかりの抱きしめだった。抱きしめながら、もう一度、神壇を睨んだ。
「神様、仏様が本当にいるんだったら、教えてくれよ‥」村瀬の咽び言葉が、神壇に向かって低く放たれた。
「この世にある命が、生きてる間、存分にいい思いをして楽しむ人間と、苦しみ続けて、悲しみ続けて死んでいく人間に分かれてるのは、魂のカーストなのかよ! この子は何のために、自分の心と体を不幸の沼に沈めてきたんだよ! 人の苦しみも悲しみも、神様、仏様のアトラクションなのかよ。こういう人の苦しみは、恵まれた人間に見せるために作られた見世物なのかよ! 信じれば救われるって、そもそも何なんだよ! だったらどうして、この世から涙が消えて無くならないんだ! 安穏とした世界から俺達を見下ろして、人間を使ってもっともらしい教えを広めてる、神様、仏様に言いたいよ! その教えが絶対だって言うなら、罪のない子供が死んでいく戦争を止めて、最初から軍隊も兵器も要らない世界にしてくれよ! いい人が、家や家族や恋人や友達を亡くして泣くような災害もなくしてくれよ! お願いだから、こんないい子に障害なんか背負わせて苦しめて、その挙句に心の支えまで取り上げて悲しませることだけでもやめてくれよ! どうしてなんだよ! この世がこういう造りになってるのは、一体どうしてなんだよ!」
怒りに見開いた眼から涙を噴出させて哭叫する村瀬と、その腕に抱かれた菜実を、三人の参列者と新郎が見つめていた。神壇の脇に立つ老いた神主も、言葉はなく、優しげにそれを見ている。
「村瀬さん‥」アップの髪に金、緑、赤のメッシュを入れた、和装の佐々木紅美子が、互いの体を抱いて泣く村瀬と菜実に、静かに歩みを進めた。
「もう少し泣いてからでいいのんです。お顔を上げて、今日、来てはる人達のお顔、見て下さいな」紅美子の声に、村瀬は濡れた顔を上げた。腕はまだ、菜実の体を抱いたままだった。菜実は啜りしゃくりながら、村瀬の首を抱いていた腕を下げ、両掌を彼の上腕に添えた。
「見て下さい。こちらはんが、新郎の養父さんです」紅美子の返した手が、体格が良く、鋭い付き方をした目に、大変だった昔の苦労を忍ばせた六十代の男を指した。
「それで、こちらさんが、菜実ちゃんのお父さんです」次に、垂らした前髪ともみ上げの白い、中肉中背の五十代の男を見、掌を指した。
「菜実ちゃんのお母さんは、確かに亡くなりましてん、私が刑務所まで一緒に立ち合いました。せやけど、今はこうしてお父さんも菜実ちゃんの近くに戻ってきはりまして、親がちゃんといてるいうことでは、本人もそれほどには寂しゅうないもんやと、私は思うてます。それで、こちらの新郎さんも、菜実ちゃんと同じ療育の、Bの2持ってましてん、支援区分2です。それでも地に足着けて、パン職人として、立派に働いてます」村瀬が菜実の体から腕を離して新郎を見ると、その青年は、しっかりとした立ち姿で、村瀬に頭を下げた。
「幸福な世界を作るんも、壊すんも、所詮、人間のすることやないですか。人間の生きる世界は、人間だけが作るもんです。世界がどない大変なことになっても、それを立て直すんが、人間に与えられた使命とちゃいますやろか。何度も訪れる大変なことを乗り越えて、人間いうもんは、進化していくもんのはずです。菜実ちゃんとあなたはんも深く関わった純法が、今、解体されようとしてはりまっしゃるけれど、これも、人間が力を合わせて行った立て直しでっしゃろ。せやから、今のところ平和が維持されておる世界で、簡単に絶望なんて結論は出すもんやないはずです。人間は、宇宙からすればちまい存在ですねんけど、あっと驚くような力もよう持ってはります」
村瀬は涙に濡れた顔もそのままに、はっと気づいた思いになった。
個人や世界、日本についての、気休めで語られる幸福な未来を否定するなら、三里塚で菜実が見せた戦いぶりは、常識域に留まる考えでは完全に否定されることだろう。だが、四ヶ月前のあの夜、菜実は、必死の思いで体に記憶させた空手で、喧嘩慣れを戦闘慣れにまで磨き上げているはずの凶悪な人間達を次から次へと斃し、戦闘不能にし、さながら優しい顔をした鬼神の様相で、頭目の李までも恐怖させた。
これを実際に行った人間が、支援区分3の知的障害者だった。知的障害者が、自分の大切な人間とその家族を助けるために、悪事に長けたプロと徒手白兵戦を展開し、うち二人の体を、目と睾丸で、不具にした。それで残存の勢力を殺ぎ、行川の手による頂上斬首に力を貸したのだ。その結果を報じているものが、今、連日流れているニュースだ。
村瀬は涙に濡れた顔もそのままに、御社殿の梁天井を仰いだ。話に聞いた菜実の空手の修業がどれほどに苦しいものだったかを想った時、彼女への感謝と尊敬が胸に明るく咲くのを感じ始めた。
 「八千代の団地、借りて所帯持つんですよ。そこに、お父さんも一緒に棲みます」紅美子の声に、村瀬は彼女に顔を向けた。
 「こちらの島崎君ともども障害者です。せやから、これまで見てきた人間として、成年後見人いう形とは違いまっけど、これからも二人の暮らし、子育て、インフォーマルに支援していくところです。この二人には、間違いはあらへんのです。紹介した以上、こちらにも責任がありますさかい。せやから、村瀬さんは村瀬さんで、ご自分の幸せ、求めていくいうことで、いい、思いますよ」菜実を見ると、涙で化粧が落ちた顔のまま、島崎というらしい新郎に肩を抱かれ、手のハンカチで顔を拭いてもらっていた。
 その時、入口扉がさっと開き、長い刺股を一本づつ持った神職二人が、斎主を後ろに従えて入ってきた。神職の男は、腰を落として刺股を構え、村瀬を取り押さえるタイミングを計っている。
 「押さえたら、通報‥」神職の一人の声が村瀬の耳に入った。若い斎主は、手に携帯を握りしめている。
 「どうぞ、安心して下さい」紅美子が村瀬に向けた言葉には、静かな自信が籠っていた。
 「この子も、島崎君のことも、しっかり幸せをサポートをしますさかいに‥」紅美子が言い、村瀬は視線を新郎の目に定めた。
 「菜実を‥」言葉を噛ませて、村瀬は掌で涙を拭った。「菜実を、頼む‥」噛んだ言葉を言い直すと、新郎は、全てを承諾したという真剣な顔で、頷きを村瀬に送ってきた。
 「村瀬さんでいいんですよね‥」菜実の父と紹介された男が、入口扉に足先を向けかけた村瀬に、訴えかけるような名前問いをかけてきた。
 菜実の父親は、涙で顔を光らせていた。
 「これまで大変な、辛くて、苦しくて、悲しい思いをしてきた娘を、短い間かもしれないですけれど、大切にしてくれて、ありがとうございました」父親は詰まった声を搾るように言って、掌で赤い顔を覆った。
 その時、村瀬の目前を、紙片のようなものがひらひらと舞った。それは、去年のハロウィン前、茜に染まった習志野の公園で、二人の出逢いを祝うように現れ、菜実の胸に留まったものと同じ、黄色い羽根の蝶だった。
 自分、新郎の養父、新郎、菜実、紅美子の周りを飛ぶ蝶を、村瀬の霞んだ目は追って見た。蝶は新郎の前にホバリングし、ハンカチを持った右手の甲に留まり、ほどなくして離れ、村瀬の肩に留まった。あの時は、村瀬の肩から次に菜実の胸に留まり、「蝶々のブローチだね」と自分のかけた声を覚えている。
 あの日の茜が、思考の中のスクリーンに蘇るように思い出された。今の菜実は、自分に本当の幸せを与えることの出来る、間違いのない相手との人生を歩み出したところ。
 村瀬が入口扉に向かって歩き出しても、蝶は彼の肩にその体を載せていた。振り返ると、菜実、新郎、紅美子、養父、菜実の父の五人が、整然と並んで、村瀬を見送っていた。菜実は涙の中にも、自分への感謝を込めた笑みを口許に薄く浮かべているように見えた。村瀬は、それを永遠に記憶に留めるように、菜実を肩から見つめて、小さく手を振って、さようなら、という言葉を唇から送った。菜実も手を振り返してきた。それから顔向きを扉に戻し、歩み始めた。退職をきっかけとした、自分自身の新しい人生へと向かうように。
 刺股を構えた二人の神職は、村瀬の何かに畏怖したかのように、刺股の先端部を降ろした。若い斎主は、腰を抜かしかけた体勢になっていた。それを背に、村瀬は、境内の石畳を踏み、鳥居のそびえる正門へ向かい、歩みを進ませ、涙を今一度拭って、七夕時の晴れ空を仰ぎ見た。
その時、肩の蝶が離れ、しばらくまとわりつくような舞を見せてから、方角としては南のほうの宙へと去り、姿を遠ざけた。
 村瀬はその残像を留めながら、銀行からスーパー、その次の転職を、胸の中ではっきりと決めた。
 一つの生涯勉強としても、理解を一層深めていこう。菜実のような人、愛美の娘のような子供を、よりよく知るための道を、これから歩もうと。定年までの、この先約十五年の時間は、そのためにあるのだ、と。
 境内では、先まで御社殿で起こっていたことなど露も知らない参拝客達が歩き、立ち話をし、写真やムービーを撮影したりと、土曜午後の時間を楽しんでいた。村瀬はそれを視界の片隅にちらりと見て、前を直視しながら、赤い鳥居へと進んだ。
~作如是~
時代は、世界、日本のいくつかの局地的災害、世界の軍事情勢の緊張を報道し、ミサイル発射、ゲリラ攻撃、地震速報のアラートを数回鳴り響かせながら、年代を進めた。
あの日から、六回目のハロウィン時季節を頭に数えながら、彼は洗面台の鏡に自分の顔を写し、鏡の中にいる自分と視線を合わせた。
以前は嗜好であったトレーニングを自分の体をいじめ抜くものに変えた結果、頬がこけ、輪郭の線がシャープになっている。体からは贅肉が削がれ、林檎を握り潰す握力が、その体が得ている。
あれ以後、ネット、書籍で人間の心理や体の動きの基本、人体急所を研究し尽くし、徒手、または得物を使用した暗殺術を徹底的に練った。動画を何度も観て、空手家やボクサーを刃物で仕留めるスキルを予行演習した。
シャープに削げた頬に、にまりとした笑いが浮いた。
あれから教団の正式な職員という扱いで会計管理部に奉職し、心を入れ替えたように真面目な仕事をこなして信用を得、その間に、自分の全思考、精神は教団のためにあるものとなった。以前にだらだらとつるんでいた人間達は、みんな、関係を解いた。
あの日、自分の目前で坊主頭にされ、蹴りを入れられた母親は、程なくして錯乱し、認知症状態になり、精神科病棟で死んだ。
以来、一人でこの蘇我の家に暮らしている。孤独の寂然は感じてはいない。それは、古い因縁を持ち、その因縁から自分に暴力の創と恥辱を刻印し、母親を死へ追いやった男への憎悪と殺意が、心の支えたり得ていたからだ。
教団を動かしていた中枢の人間が死亡し、芋蔓の逮捕、摘発、ひいて解散命令、以後、彼は特別養護老人ホームの介護士として真面目に勤務しながら、恩讐の男の所在を追っていた。
この年間、根気強く検索した結果、同姓同名の医師や学者、声優の中に、まぎれもないその男を、県内に数軒の支部を構える空手会派ホームページの指導員紹介写真に見つけた。男が所属する教室の所在地も掴んだ。職場も分かった。北習志野駅を最寄りとする場所にある、カレーを売りにするカフェという形態を取る、店舗型就労継続支援事業所のスタッフをしている。
決行の日どりを頭に留めながら、肩から襷を掛け、手には数珠を巻き、壁に掲げた金沢聖の近影写真、その下の祭壇の前に正座して、一時間半かけて、二十品の経を照教し、破法の折にはいかなる如何なる神罰をも受く、という尊教の誓いを数度復唱した。それから作法に則った動きで祭壇を離れると、刀棚に掛かった脇差を取り、鞘を払った。
来週水曜。柳場直樹は、窓から差し込む秋空の光を禍々と反射する、青味を帯びた銀の刃身に鋭く細めた目の視線を這わせながら、村瀬、と呟いた。その名の怨敵の魂を、刃の奥へ封じ込めるように。
髪にはだいぶ白いものが浮いているが、汗の滲んだトレーナーの胸元、上腕には筋肉の膨れが、長袖越しにも分かる。十月半ばの水曜だった。その日は、勤務して六年目になる就労継続支援事業所に有休を申請していた。
十月に入っても、九月の暑さがなかなか去らず、半袖の人もちらほらと目立つ、午前の時間だった。村瀬は、ハミングロードでのランニングを、ウォーキングに変えて、両手のペットボトルを振りながら、東習志野五丁目付近を歩いていた。
向かいから、買物袋を提げ、T字杖を着いた女が、遅い足取りで歩いてやってくる。その後ろから、自転車や、近年普及の進んでいる電動キックボードが追い越して去っていく。
ワンレングス風の分け方をした髪は、ブラウンの染めの中に白が挿している。服装は、黒のブラウスと黒のスカートで色を統一していた。今の村瀬に遠くない齢頃だが、見えるとすれば、彼よりも行っているように見える。
その女が、生の疲れ、苦悩から、顔にすでに媼(おうな)の雰囲気を浮き上がらせている美咲だと気づいた時、村瀬は、何かを言わずにはいられないという風に足を止めた。
 村瀬の視線に気がついた美咲は顔を上げ、元夫と目を合わせると、一度合わせた目を伏せ、会釈をし、杖を着いて、花見川区の方面へと歩んで進んだ。
 村瀬に見送られる美咲の後ろ姿が斜め数メーター離れてから、杖を持つ手が力を失って肘から曲がったようになり、体が傾いだ。美咲は右手の杖を滑らせて、左のめりに転倒し、落ちた買物袋から、牛乳のパックと、何点かの食料品が転がって撒かれた。
 村瀬は駆け寄り、左肘を路面に着いて体を支えている美咲の脇に鍛練用のペットボトルを置き、彼女の腰に腕を回した。
 「立てるか?」村瀬は声かけし、美咲の腰を抱いて、自分の体ごと彼女を立位にした。
 「ありがとう‥」その時に美咲が言った礼は、一緒にいた期間、村瀬が美咲の口から聞いたことのない言葉だった。
 バス停近くのベンチに二人並んで腰かけた時、村瀬は美咲に自販機で買ってやったジュースのプルタブを起こして、そっと手渡した。自分の分は、コーヒーを買った。
 「脳梗塞で左半身麻痺。三年前からなの」さらりと述べた美咲の抑揚は、かつてよりもしっとりとし、女らしく穏やかなものだった。
 「今、どうやって暮らしてるんだ」「発症する前までは、製菓工場で働いてたけど、今は身体の3級が下りて、生活保護もらいながら作業所に通ってる。保護費と工賃、それに障害基礎年金を足して、今、作新台のアパートに住んでるのよ」美咲が言い、二人の間に黙が流れた。二人の前を、路線バスが地響きを立てて通り過ぎた。
「知らないはずだよな。俺達には、もう孫がいるんだ」村瀬の打ち明けに、美咲の顔が上がり、元夫を見た。
 「恵梨香だ。上が男で、今、五つ、下が女で二歳で、二人とも保育施設に預けられてる。親が共働きだからな。あいつの旦那、俺の義理の息子は障害者のジョブコーチで、あいつはグループホームの世話人として働いてる。二人とも福祉職だ。それに、俺もね。にわかには信じられないだろうけど、君の子不孝がもたらした運命に立ち向かう勇気を、情の深い他人からもらって、自分の人生を切り拓いていったんだ」
 美咲の表情に、少しずつ明るみが挿していった。それは笑顔に繋がりそうなものだった。
 「博人は‥」「博人は、障害枠雇用で、特別支援学校の環境整備部員として働いてて、一時期、俺の東習志野の家にいたんだけど、今はグループホームに入ってる」村瀬の述べに、美咲は、はっきりと喜びのものと分かる光を目に汲んだ。
 「そういうことを喜べる気持ちが持てたのは、自分が障害持って、やっとなのよ」美咲は言い、ハミングロードの非舗装路に目を馳せた。
 「あなたも覚えてるよね。私はお金のある家で育ってきたけれど、自分の親が嫌いなまま、小学校、中学、大学って成長していったの。つまり、人が自分の中に愛っていう感情を持つための基盤がなかったのよ。そういう自分を拾い上げて、救ってくれる人を求めて、それは体の関係から始まるものだと考えて、遍歴を重ねてたの。それで、最後にあなたにたどり着いて結婚の縁になった時は、私は本当は嬉しかった。だけど、お金はあっても親、兄弟の愛がない家で育った私は、人に頭を下げることも、本当の心を言葉や態度に表すことも出来なかった。だから、社会的な不利を抱えた、弱い立場にいる人達を自分の敵として設定することで、心の均衡を保とうとしてたんだ。それで、あの時、あの千葉のレストランで、母子で来てたあの人達に八つ当たりの怒りをぶつけたの。だけど、栃木での経験と、それから自分自身がたまたま襲った病気のためにこういう体になって、同じ緑色の手帳を持ったことで、自分が長い間捨てようとしなかったものの見方の恥ずかしさ、あの時に、あそこであの人達に吐いた言葉の恐ろしさが理解出来たの」とうとうと話す美咲の横顔には、現在とこれからへの寂が滲んでいた。
「それに、栃木では、知的障害者の人も何人も服役してたんだけど、その中に、子供におもちゃを買ってあげたくて、強盗殺人を犯して、無期刑、打たれてる人がいたのよ。その人とは同じ雑居房だったんだけど、彼女とぽつぽつ話をするうちに、そういう人達の立場、気持ちが分かり始めたんだ」「待て‥」村瀬は身を乗り出した。
「その人は、何っていう名前の人だ」「池内靖子っていう、私達と同年代の人だった」美咲の答えに、村瀬は息を止めた。
在ると仮定する目に視えない世界が統治する、自分達の棲む世界は狭い。その狭い世界で、因縁は確かに繋がっている。
思いを胸に留めながら、数年前にその娘である若い女と深い関係を築き、その結婚式にまで乗り込んだことは、今日の話からは略そうと決めた。
 「電車、バスで、私に席を譲ってくれたり、荷物を持ってくれたりする人もいれば、邪魔なものを見る目で見てきたり、罵声を浴びせてくる人もいるわ。だからこそなのよ」美咲はコートの胸から下げた、赤地に十字とハートマークが白く染め抜かれたヘルプマークの札を、村瀬に見せるようにつまんだ。
 「美咲。家に居座って、二番目の君の夫になった男については、今、どう思う?」「江中?」「そうだ。あいつがあのあとどうなったかは、君は知らないはずだ」村瀬が言うと、美咲が隣から顔を寄せてきた。
 「あいつは、持ち金の一切を失って、物乞いになった。物乞いをしてるところを俺が見つけて、恵梨香の恨みと、博人が受けた悔しさを、その体にきっちりぶち返した。そのあとでどうなったかは分からないけれど、惨めな状況で暮らしてることだけは確かだ。今も、これからも、ね。その時に俺がくれてやった千円で、おおかたパンとお茶でも買ったんだとは思う」
 村瀬が語り終えると、美咲は、杭で留められたように村瀬の目を見つめていた視線を外し、ハミングロードの路面に戻した。睫毛の下の目には、後悔の悲しみと、自分の心の在り方が起こした事象への深い反省が見られた。
 悲しみが宿った目のまま、美咲は、村瀬の買ってやった乳酸系のジュースを飲み干した。
 「好きだったのよ。本音では‥」美咲は右手の杖に力を込め、ベンチから腰を離した。
 「豊文さん。あなたのことよ」美咲の言葉を受けた村瀬は、自分が去る作新台の方向へ足を向けた美咲を仰ぎ見上げた。
 「あいつにお金をあげたことには、あなたの人間性がしっかりと出てる。昔から、あなたはそういう人だった。私がどんなに求めても得ることが出来ないものを持ってた。そういう所が。でも、私は、感情ばかりが先に立つ性格の成り立ちから、あなたのその優しさを粗末にしたのよ。だから、今、そのつけを支払ってるの。それは、私の命がある限り、支払い続けなきゃいけないようになってる‥」「待て」作新台の方角を登って、杖を着いて歩き出した美咲を、村瀬は呼び止めた。
 「連絡先を交換しよう。ラインでいいか」美咲の背中に向かって言った村瀬の手には、ウエストポーチから出された携帯が持たれている。
 「子供が君を赦してくれるかどうかは今はさておいて、困った時には助けてやることも出来る。俺の今の奥さんは、そういうことに理解のある人だ」斜め前に回り込んだ村瀬が言うと、美咲は、ほうれい線が浮き出して、唇にも皺の刻まれた顔を伏せた。
 「奥さんは、どんな人?」美咲が伏目のまま問うた。
 「プロの画家だ。画廊を通じて、自分の描いた絵を販売してる。個展も開いてる」「そうなのね」寂しげに呟いた美咲の頬に、小さな笑みが浮いた。
 「あなたにお似合いの人よ。私よりも、ずっと、ずっと」美咲は笑みの顔を向け、ハミングロードの黄土を杖で着きながら、極めて遅い歩速で、すでに老いの出た後ろ姿を、村瀬の目の前から遠のかせていった。村瀬はそれを見送った。車道の喧騒が彼の頭蓋の内に遠く響き、自転車やボードの走る姿、歩行者の行き交いが、それも遠いものを見るように目に映った。
 「鼻くそほじると気持ちいい♪ 鼻くそほじれば極楽だ♪ 丸めた鼻くそ、鼻毛つき♪ 迷わずお口に入れましょう♪」今日も道野辺の本社に、エアギターを交えた高々としたロックンロール調の歌声がきんきんと響き、利用者、利用児童の笑いが沸いていた。
合同会社ラブリンは株式会社に昇格し、「グっちゃんのお庭」は船橋、八千代にも事業を展開していた。現在の取締役は、義毅が生前に信頼していた、アルバイトから入った男が務めており、まどかは道野辺の本社に社会福祉士事務所を併設し、時折グっちゃんのお庭を手伝いながら、夫が遺したものの見守りに当たっている。
社会福祉士事務所では、若干名のスタッフも雇っており、まどかは変わらず堅実な業務をこなしながら、義毅の血を分けて誕生した息子を養育している。
今、今年六歳になる村瀬紅(くれ)央(お)が唄っている歌は、語彙表現的に地域の知り合いである年長の少年達から伝わったものと思われる。
「一億一身、魔除けの形相、鼻血が出るまでかっぽじれ♪ ワオ!」エアのギターを掻き鳴らし、サビらしい箇所を唄うと、擬音化された昭和二十年代風のリズムを口ずさみながら、肩をかくかくと上下させるオリジナルダンスを披露し、その乗りが利用者、児童達全体に伝播する。「自走榴弾砲!」「やめなさい!」そばのまどかが、ズボンとパンツを下ろしかけた息子の頭をはたいた。
「女の子もいるのよ。セクハラになっちゃうよ」母親に諭された紅央は、べっと舌を垂らして、さほど罰悪げでもない表情を見せた。
「ねえ、紅央君。クソマンジュウロックンロールは、今日は唄わないの?」訊いたのは、今、小学四年生に成長した中村樹里亜だった。彼女はローレル的に少しぽっちゃり加減の少女になっていた。ここに来るようになったばかりの頃にその表情に刻み込まれていた深い悲しみ、暗い怯えの色は、今は霧が晴れたように全くない。
隣の椅子に座る義姉の新奈は、今、中学一年生で、後ろでまとめた長い髪が白い肌に映えて似合う美しい少女に成長している。
小学校いっぱいまで空手を習っていたが、勉強に専念するため、現在は退会していると聞いている。
「Ah~、Ah~♪ クソクソマンジュウ、ロケンロール♪ Oh~Oh~♪ マンジュウ、クソクソ、ロケンロール♪」紅央はツイスト風に腕を揺らし、尻を振って踊り狂い、まどかは呆れて絶息した。その周りで、障害を持つ利用者達、訪れている児童達も笑っている。
乳児の頃には妙にクールで、あやしても笑うことがあまりなく、お座りが出来る頃になって、名前をよんでも振り向くことがなかった。その姿にはニヒリズムさえ漂っていたものだった。
二歳児の時に受けた発達検診で、多動傾向の子供だということが分かり、まどかは、職業上よく知っている、障害というものを前提に据えた教育をしてきた。それでも、近所の商店の真前で、段ボール箱を置いた“店”を構えて、その上に家から持ち出した財産価値のない物を並べ、下半身裸のフルチン姿で身振り手振り巧みに商品の解説を行ったりという営業妨害をやり、どこで覚えてきたのか、通っている幼稚園では、同じ下半身裸になって手を後ろで組み、足を開いて立つ応援団立ちをして、天は人の上に人を、という福沢諭吉の論語を唱えるという狂態染みた奇行を繰り返し、それが止む様子はない。また、先日の発表会では、南欧風ドレスの衣装を着て、手に花を持って踊る女子園児の出し物の列に、真っ裸で乱入して、白いししゃものような陰茎をぷらぷらさせながら、モンキーダンスともツイストともつかない踊りを園児、父兄一同の前でお披露目するという行動もやってのけている。
子供のうちに私を困らせるなら、困らせるだけ困らせて、将来はその明るい素養を生かしつつ、最低限の常識だけは弁えた人になってほしい、と、今のまどかは願っている。
なお、その生まれの顔姿は、目の動き、特徴的な赤い鱈子唇、身のこなし、仕草と、どれを取っても義毅と同一だ。一卵性といっていいまでに。
西側の壁に掛かる絵の中の、蝶を肩に留めた少女は、笑いに包まれたグっちゃんのお庭の光景と、温かく一体化しているように見えた。
スタッフが白玉ぜんざいのおやつを作り、トレーの上に一つづつ置いているカウンターの上には、ソフトモヒカンリーゼントの髪をした義毅の、睨むような顔をした写真が掲げられているが、その顔が、お前の自己責任の結果で出来た子供だ、と真面目に怒りながら言っているように思える。
なお、彼の殺害犯はまだ判明しておらず、事件は、六年目の今も解明されてはいない。
自分の生家と言ってもいい東習志野の家、現在の所帯に鍛練を終えて帰ると、愛美が寿司桶の中の酢飯をへらで混ぜており、互いに「ただいま」「お帰りなさい」を目礼で交わした。
居間には、テレビをじっと鑑賞している賜希の背中姿がある。表情は豊かで、この世界に在るもの全てに愛情を注ぐような眼差しをし、それを体のアクションにもよく表現するが、基本的に言葉は自分から発さないという特性特徴を持っている。だが、描くことの才覚は母親譲りで、年賀状や暑中見舞いのはがきでは、その年の干支の秀逸なイラストを担当し、また、個人的趣味でもイラストを描き貯めている。四年前に特別支援学校を卒業、今、習志野市の地域新聞社で編集補佐兼イラストレーターとして雇用され、働いている。
五年前に互いに子供がある状態で再婚した時、愛美は自分の育った習志野台の家を売り、それで得た金と二人の貯蓄が、村瀬の家の外壁塗り替え、耐震補強、床下への制震装置設置に充当された。それは地震びびりの愛美のためも同じだった。
村瀬はその時すでにマスオマートから、A、Bの両方が併設された、北習志野の就労継続支援事業所のスタッフに転職していた。屋号は「きらり」という。愛美は自身の絵の販売を始めた所だった。今もまだ、メジャーな存在ではないが、彼女の描いたものを欲しがる顧客に絵を卸すことで、それなりに固い収入を得ている。
今は幸福だが、この幸せが、凶悪な人間達が仕掛けた罠がきっかけになって得られたものであるという矛盾が、ふと時々、村瀬の心を苛む。
それは、菜実との出会い、一緒にいる中で感じてきた幸せとて同じだ。今、自分が福祉職の端くれとして、知的、精神、発達を抱える若者達の支援に当たっていることのスタートラインも。その給与で、二番目の妻、継子と暮らしていることも。
「きらり」は会社としてはホワイトだが、時折葛藤を覚えることがある。純法の取り立てに脅迫づくで同行した先の老いたやくざがこぼした嘆きを、日々の支援の中で思い出す。支援という名目の過保護な干渉が、一般でも充分にやっていくことの出来る者達の夢を奪うこともまかり通っている。昔は画一的な夢を、健常、少々の頭っ足らずを問わず、関係なく見ることが出来た。
それが今は‥
利用者がわがままを言ったり、怒ることもよくある。そういった人間のナチュラルな感情の動きに対して、職員という立場の者達は、抑え込みの要素を持つ折衝を敷かなければならない時もままある。
利用者を擬物化することで福祉の仕事というものは成り立っている、とは須藤の弁だが、これは「見る」という仕事を完遂させる上で外せないものなのか、と悩む。
それでも村瀬は、入職時の指導に従い、信頼というものに基づいた関係性というものを徹底重視した関わりを続けてきた。同僚、上司には合わないと感じる人間もいるが、頑張りの賜物で、利用者達とは良好な関係を維持している。
「ごち‥」愛美、賜希と三人で食べ、掻き込み終わったちらし寿司の皿をと味噌汁の碗を持ち、村瀬は略した食後挨拶をして立ち上がった。
「今日は少年部の昇級審査だから」村瀬は言いながら、自分の皿と碗を洗った。
 黒帯の道着が入ったバッグを背負って家を出る際、いつものように愛美が玄関まで見送った。
「何だか、これから何日かは、特別に気をつけたほうがいいような予感がするのよ」そよりと言った愛美に、村瀬は小さく笑って見せた。
「あなたのことで」言葉を切った愛美の表情には、危機の警戒喚起を促すものが浮いている。
「何言うんだ。俺なら大丈夫だよ。伊達に一から習い直して、二段取って先生やってるわけじゃないからさ」「賜希が私に言ったの。刃物持った黒い霧の塊みたいなものが、お父さんを陰から狙ってる夢を見たって」「そんな夢のお告げなんてもんは、俺が自分で外してやるよ。昔の俺ならともかく、今の俺ならそれが出来る。気にするなって、賜希に言っといて」
残して歩き出した村瀬を、玄関から路地にでた愛美が見送った。振り返ってその顔を今一度見ると、現在の夫に向けて馳せる心からの案じが出ていた。
船橋本町文化会館の講堂に入ると、雑巾がけの清掃を行っている後藤という指導員が立ち上がり、「押忍」と挨拶し、村瀬も返した。
講堂の中心部では、黄帯を締めた幼少の男児が一人、平安の型を切っていた。
「後藤ちゃん、あの子は‥」村瀬に問われた後藤は、雑巾を手に立ち、端正な顔に神妙な表情を浮かせた。
「ああ、彼は元々八千代の支部に登録してたんすけど、親がこの辺に戸建買ったとかで、越してきて、今日からこっちで学ぶらしいすよ。で、彼も今日、試験です」後藤は答え、雑巾がけを再開した。
村瀬は男児に視線を戻した。今、切っている型は平安の二段だが、その動きは、まだ幼い黄帯の少年からかけ離れたものだった。ただ舞うだけではなく、立ち合う敵をきちんとイメージしている目配りと動き方で、白や黄の幼児によく見られる散漫さがない。気合は、大人までを圧倒するような、肚からの裂帛だった。
「こんにちは」男児が最後の挙動を終える頃を見計らって、村瀬は声をかけた。男児は村瀬の目を見て、こんにちは、と返してきた。はっきり、しっかりとした声勢だった。
「この教室で先生をしてる、村瀬です。お名前を教えて下さい」村瀬は言って、男児の目の高さに腰を屈めた。
「しまざきえいとです」男児は名乗り、村瀬は隅の簡易机へ走り、今日の昇級審査受験者リストを取った。その中に、「島崎詠砥」という名前と、九級の試験を受ける旨が書かれていた。
島崎という凡庸な苗字は全く気にならなかったが、近距離で、まじ、と見た顔には、誰かを思い出させるものがあった。それに、八千代から来た、という後藤の説明にも、何かが引っかかる。
目尻の下降した顔には、幼くして、性質的な優しさが相となって表れている。
まさか、という心の呟きが、鼻からの短い笑いとなって吹いた。その笑いは、今の自分が家庭人に戻り、それなりの年数を経た人間だからこそのものだった。
三十分の間に、今回の試験を受ける、五歳から十二歳の色帯の児童達が入ってきた。年齢の幼い児童には、保護者が同伴している。村瀬は児童達一人づつに声をかけ、それから保護者と話をした。
「お父さん、お母さんは、今、来ていらっしゃるのかな」一人で佇み立っている詠砥に訊いた。
「もう少ししたら、来る。今、お買い物に行ってるから」詠砥が答えた。先までとは違い、幼児らしい、抑揚の安定しない、下の足りていない口調だった。
「そうだ、今、何歳なの?」「僕、六歳。幼稚園の年長組」詠砥の答えに、村瀬は逆算の思考を働かせた。
下腹に手を添えた菜実の、綿帽子に白無垢の姿を回想したが、また、まさかという否定がよぎった。
村瀬は両親の氏名を訊き出そうと一瞬思ったが、個人情報に接触してしまうことになるためにそれをやめた。
知りたい衝動を抑えながら審査開催の号令をかけた時、一組の親子らしい大人と子供が、ストッパーをかけて開放している扉から入ってきた。
「おい」横暴な発声の男の声が講堂に反響した。見ると、四十代と見られる男と、その息子らしい少年が立っていた。
父親の男は、茶色に染めた髪のサイドと後ろをフェードさせたヘアスタイルをし、紫ヒョウ柄の上下という服装をし、脇には高級感のあるセカンドバッグを抱えているという身なりだった。顎の下には、白い髭を生やしている。
小学校高学年に見える息子らしい少年は、マンバンというらしい、サイドと後頭部を刈り、残った襟足を結わえた髪に、だぶついたジャージという姿だった。だが、その姿に反して、態度は小さくすくみ上ったもので、俯いた顔の目は瞬きを繰り返し、口の端は垂れ下がり、今にも泣き出しそうな顔をしている。また、体つきは平均的なローレル指数を満たしていない痩せすぎの体だった。
このビジュアルスタイルは、自分の意志でしているものではないと、村瀬は勘づいた。
「出入りは自由なのですが、本日は少年部の昇級審査です。見学されるのであれば、椅子にお座りになって」「いいよ。俺は立って見っから、こいつ、強くしてくれよ」父親は村瀬の言葉の腰を折って、おどおどと目を瞬かせている息子を指した。その口からは酒の臭いがした。
「お名前は」「永松(ながまつ)だよ。道野辺の孝之(たかゆき)っつって、鎌ヶ谷界隈で俺の名前知らねえ奴は潜りだよ」永松と名乗った男は、自慢げに言って、胸を反り返らせた。「息子さんのお名前は」「竜の武士って書いて、竜士(りゅうし)だよ」永松は得意げに述べた。            
「それでは、始めの素振り、移動に参加させてみますか。このあとは昇級の審査になりますので、見学のほうへ回っていただくことになりますが、ご了承をお願いしたいのですが」「それでいいよ。だから、さっさと始めろよ」永松は命令でもするような口調で言い、隣の後藤が竜士を促し、列の二番目、端に並ばせた。
村瀬が号令をかけ、その場での正拳突きが始まった。素振り、移動では、いつもと同じことをやらせる。そのあとの審査では、三種類の型と組手をやらせ、防御力、攻撃力の成長を見る。組手の相手は、本人と同級か、あるいは級が上の者が務める。切磋琢磨による向上を促すためのシステムだ。
竜士は殴り方、蹴り方を知らない。まるで平拳のように第二関節を突き出した拳の握り方をし、腰の入っていないパンチをふにゃりと繰り返し出し、蹴りは、ただ、ちんたらと脚を上げているだけのものだった。それ自体は、知らない者には当然のことだが、村瀬は竜士の背負うハンディキャップを感じ取った。
同じものを感じたらしい後藤が脇に着いて、拳の握り方と出し方、蹴り方を親切にティーチングしたが、竜士は変わらなかった。
その場での正拳、裏拳、手刀、前蹴りを短く終わらせ、村瀬は移動の号令をかけた。白から茶の帯を締めた児童達の中で、竜士は遅れがちにその動きを倣った。五分ほどの移動が終わった時、彼は息を切らしていた。基礎体力が、同年齢の子供達の平均からだいぶ下回っているらしい。
村瀬は竜士に同情の念を持った。それは、かつて自分が深く関わった人と同じく、家庭、周囲の環境の如何で、本人の背負っているものが無視され、気持ちの一つも理解されない世界に棲むことを余儀なくされているというところでだった。
令和も十年代に入った今も、こういう子供や若者は、福祉の手で発掘されきってはいない。同じ福祉職として、村瀬は変わらないこの現状を嘆かわしく、情けないという思いを抱くのを禁じ得ない。
移動が終わり、審査が始まった。永松親子には、壁際へ移り見学してもらうことになった。
まず、一人づつに平安を含む型を三種類行わせ、それから組手へ進む。
型は、二挙動以上間違えたら失格となる。組手では、攻撃、防御両方の向上を見、その上で、本気さ、真剣さというものを総じて見る。今日は師範代の櫂端が、主任設計士の仕事の都合でいないため、任された村瀬と後藤には一層の責任が求められる。
失格者を出さないためには、常日頃からの責任感を携えた指導が必要だ。
一組づつの組手審査が始まった。玄道塾少年部の組手は、透明アクリルのフェイスガード面、オープンフィンガーグローブを着用したライトコンタクトで行う。
最初の一組は、小学校三年の緑帯の男子同士だった。ともに集中が行き渡った真顔で、ガード越しの顔面を打ち合い、体の小さなほうの少年が、相手の胸に掌底を決め、村瀬はその子供をウィナーとした。少年二人が握手をして離れてすぐさま、小六の紫帯と少五の緑帯、女子同士が打ち合った。先の少年達は動きが少し拙いものがあったが、その女子達は真剣味ひときわで、型を成した突き、蹴りを応酬した。
その時、それを見、監督する村瀬は、現在の自分からすれば、昔と言っていい時間に感じてきた眼差しの温かみを受けていることに気がついた。
それは色にたとえると、白と桃色の中間で、時々茜が混じる感じのするものだった。
勃起を誘う温かさ。自分では遠いと思う、肌の心地。
それはない、という思いを胸によぎらせつつ、開放された扉の左右に置かれたパイプ椅子に座って、我が子の奮闘を見守る保護者達に、ふっと目を馳せ見た。
永松は腕組をしてそれを眺めている。その顔には、明らかな嘲笑が浮いている。竜士は、怯えた目をさまよわせて立っているだけだった。
その彼に椅子を進めている後藤に、永松がうるさそうに文句をつけている。
十脚ほどのパイプ椅子に腰かけている保護者達の中に、黒縁眼鏡をかけた父親と、その隣に寄り添って座る母親で間違いない、スカートタイプの紺色スーツ、真珠のネックレスをした、肩に届かない長さの黒髪をした女がいた。
見覚えを強く騒がせるその女が、村瀬に視線を据えていた。村瀬はそれに応えて、女の目を見た。彼の視界の外れでは、女子と女子が激戦を交え、グローブの拳がフェイスガードを叩く小気味良い音が響いている。
 キタキツネに形容が当てはまる顔をしたその三十代の女は、村瀬を優しく労る目を、審査の監督に当たる彼に向けていた。
 菜実ちゃん‥村瀬は世の中の狭さに感慨しながら、七年前の時間に愛し合いを共有していた女の名前を呼ぶ形に唇を動かし、三十代半ばの年齢に成熟した菜実は頷きを送ってきた。懐かしさ、蘇った愛しさに、村瀬の目が霞み始めた。
 四番目に、詠砥の組手審査が回った。村瀬は彼と、上級である紫帯を締めた小学校低学年の少年を組ませた。
その少年は、詠砥の足捌きに翻弄され、攻撃を当てることが出来なかった。結果、足払いをかけられて尻餅を着いたところを、顔面に突きを決められ、詠砥の勝利となった。今回の審査に失格者はいないと、村瀬は判断していた。
 「何だこりゃ。雑魚空手の雑魚道場じゃねえかよ、こんなもん」一通りのペアが組手審査を終え、児童達の熱気が立ち込める講堂の静けさを、嘲笑混じりの声が割った。
後藤がむかっとなっていることがはっきりと分かった。この男は村瀬とは正反対に、血気盛んで短気な性格向きをしていることは、付き合っている年数上よく知っている。
今にも詰めかかり、しまいに殴りつけそうな勢いを、顔と、体の恰好に表している彼を、村瀬は、俺に任せて、と目と頷きの合図で制止し、穏やかな歩調で永松に歩み寄った。
「相手の前歯叩き折って、あばらぶち折って、骨盤砕いて、金玉潰して半殺しにして引きずり回さなきゃ、空手とは言えねえよ。おめえ、剛道の稽古とか見たことねえべ」永松はまた嘲笑した。
「あそこは半端ねえぞ。死人が出るまでやる所だかんな。ここもそれだけのことやってみせろよ。そん時に、こいつ、入門させてやっからよ」永松は息子の顔をまた指した。息子の竜士は、おどついた顔を伏せただけだった。
「お仕事は何をされていますか」自分に続くようにして後ろから詰めてきた後藤を腕で制し、村瀬は問いかけた。
「アパレルの、海江田商会の倉庫だよ。それが何だっつうんだよ」「学業や仕事を持ちながら武道を習うということの意味は、理解されておりますでしょうか」村瀬は声を静めた。
「関係ねえよ」「関係ない、とはどういったことでしょうか」「喧嘩に強くなれねえ空手に、何の意味があんだよ」永松は酒が臭う口を近づけ、凄むように言い放った。
「どうか聞いて下さい。聞いて、ご理解されることをお願いいたします。確かに剛道会館はフルコンタクト空手の中では、稽古は苛烈と言われていました。でも、それは過去の話です。昔の時間には、武道の道場というものは、血の気が多く、肉体的にも盛りにある者達のために開かれていたと言っても過言ではありませんでした。本当の、潰す、潰されるという世界だったことと思います。その中で、上に昇っていった人もいますが、怪我や、怪我による障害を負って、生活、その後の人生に支障をきたしていった人達も少なくはないはずです」
永松はぼさっとした顔持ちになった。村瀬は、自分が今話していることを、目前の永松がどの程度理解し、噛み砕くことが出来ているのかという疑問を抱いた。
「憧れが先に立つ子供の頃や、血気のある若い時分に強さを追い求める気持ちを持つことは、罪ではありません。だけど、第一にしなければならないものは、自分の将来に繋がる勉強や、自分や、自分の家族がご飯を食べていくための仕事であり、社会生活のはずです」
村瀬の述べを、永松は鼻で嗤った。それは彼がすでに論理的に追い詰められているが故の虚勢に見えた。
「先程、喧嘩が、と、おっしゃいましたけれど、玄道塾では、子供達を含む生徒達には、喧嘩に勝つ方法などは一切教えません。何故なら、自分が女や仲間の前でいい恰好をするためにある、または、人の財産、尊厳などを奪うためにある暴力面の強さには、守る力というものが携えられていないからです。私の若かった頃のお話をすれば、ダンベルで鍛えた上腕二頭筋を叩いて、仲間とつるんでお酒の勢いに任せて、飲み屋街の通りで喧嘩の挑発を行うとか、気に入らない同僚アルバイトを殴って辞めさせたとかが、自慢の調子で語られていました。殺すぞ、などという怒声も飛び交っていました。だけど、それらはみんな弱さの表れでした。それらの力では、大切な人を守ること、誰かを助けることが出来ないからに他ならないからです。この次元で強さとして語られるものは、私達が目指す、自分を守り、他人を守り、助け、尊び、心を磨き、社会に貢献する人材を養うという武の道とは似て非なるものです」
齢が幼児域にある児童は、自分達がまだ理解し得ない言葉にぽかんとし、年長の少年少女達は、突如挿入された寸劇染みた展開に見入り、保護者達は聞き入っている。児童の中でも唯一、村瀬の伝えたいことを理解に努めようとしているように見えるのは、詠砥だった。
「お前、よほどの坊ちゃん育ちなんだな。そんな綺麗ごとの能書きなんか糞食らえだよ」永松は吐き捨てた。
「今、俺が着てる服と、この指輪と時計、全部でいくらかかってっと思うよ。当てたら偉えぜ」「分かりません。高級なものには、私は縁がありませんので」紫ヒョウ柄上下の胸元をつまみ、頑丈そうな造りをした、風防部分の大きな金の時計を掲げ、指に嵌めている指輪をかざして言った永松に、村瀬は答えた。
「中古車一台分だよ」永松は満足げににっと笑ったが、村瀬の目には、服を含む彼のまとっているものは、激安を謳う量販店チェーンで常に売られているものに見えた。身に着けるもので金持ちを装うことなど、それらしく見せようと思えばいくらでも出来るものなのだ。
「これはみんな、俺がガキの頃から喧嘩に明け暮れて、体ぁ張ってきた褒美みてえなもんなんだよ。男の値打ちは、喧嘩が全てなんだよ。喧嘩でのして、勝ち上がってきた奴だけが、上等の服着て、いかした車転がして、上玉の女引っ連れて、美味いもん食って、バーカウンターがあるようなでかい家に住むこと、許されるんだ。他は何っつうかは知らねえよ。けどな、これはこれまで一度だって崩したことがねえ信念なんだよ。だから、こいつをさ‥」永松は竜士を横目で見た。
「金も女も、仕事も権力もほしいままに出来る、トップの漢にしてえんだ。そのために、今、いろんな道場とかジム、回ってるとこなんだよ。こいつのためにさ」永松の顔に傲悦とした笑いが浮いた。彼は他者の話は聞かず、自分の言いたいことばかりと訥々と話すたちらしい。これも障害の一特性であることを、村瀬は職業上知っている。
「それは恐ろしい思い上がりの、その上、勘違いをされた考え方と社会観です。そういう考えをされている限り、死ぬまで飢えることになりますよ」村瀬がぴしゃりと言うと、永松の眉が怒りの形に吊った。脇の竜士は助けを求めるような目で周囲を見回すばかりだった。
「何が勘違いだよ! これは俺がてめえの人生で実証してきたことだぜ!」永松は声を大きく荒らげ、村瀬に顔を詰めた。
「おい、ここで俺と勝負しろよ。ガキどもと、その親の目の前でタイマンだ。坊ちゃん空手の先生と、鎌ヶ谷に永松ありと呼ばれた最強喧嘩師のな。てめえがさっき言ったことはよ、立派な喧嘩売りだぜ」
村瀬の後ろに立つ後藤が、ずんと前に出ようとしたところを、村瀬がまた腕で制した。肩から振り返り、ウインクのように片目をつむった。同じ土俵に立つに値しない相手だ、と、目で伝えたつもりだった。
「おい、お前らぁ」永松は、出る術なく立って、成り行きを見ている児童達の前に立ちはだかった。
「こんな防具なんかつけて、おすおすやってるような、遊びみてえな空手、やめな。こんなんだったら、剛道とか、総合とか、ムエタイ行って、相手を身体障害者とか死人にするぐれえ徹底的にぶち回す力、鍛えろよ。若えうちにさ」
言いながら、児童一人づつの顔を覗き込む永松に、村瀬は、一時、子供達をどこかへ移し、永松を叩きのめす考えをよぎらせた。
村瀬が永松の背中に歩を詰めかけた時、詠砥が両腕を広げ、子供達の前に立ち塞がった。それは子供達を守ろうとする態度だった。
「何だ。俺はお前らをここでどうするとかは一言も言ってねえぞ。俺はただ、お前らに、今からばりばりに喧嘩慣れして出世して、花道歩いてもらいてえだけなんだよ。これは俺の親心だぞ」きっと下から睨む詠砥を見下ろした永松が言った時だった。
パイプ椅子に座る菜実が腰を上げ、永松に歩み寄った。華美すぎない化粧の載ったキタキツネの顔には、慈しみだけが湛えられていた。
「何だ。あんた、このガキの親か」「そう。この子、私の子供です」永松の問いに菜実は答えた。村瀬が七年ぶりに聞く菜実の声は変わってはいなかったが、発声と、語の区切り方が、あの頃よりもはっきりしているように思えた。
菜実の後ろから、彼女の夫が来て、村瀬と、妻子、永松の中間に立った。
「私達、夫婦で療育手帳の障害、持ってます」菜実は後ろの夫を手で指した。
「あなた、私達と一緒です。あなただけじゃない。お子さんも障害です」菜実が静かに言うと、髪が逆立ちそうな怒りが、永松から立ち昇った。それは上がった両肩、眉、目、握った拳に表れていた。
「何だ、こらぁ、この糞アマ! てめえ、舐めやがって!」舌を巻き立てて怒号した永松が、菜実のスーツの上腕部裾を掴みにかかった。体には、がちがちに力が入っていることが分かった。
永松のその行動は、一見にも分かる素人のものだった。
菜実は、自分の腕に伸びた永松の手首を捉え、その腕を頭から潜り、背後に回り込んだ。永松の腕の関節は菜実の下腕に圧され、ひしがれ、上体が前のめりになった顔は苦痛に歪み、先までの威勢を消し飛ばした悲鳴が上がった。それは一瞬以下のコンマの時間に行われたことだった。
堪えきれない苦痛に、永松は口から唾液を噴出させ、言葉も失った叫喚を発しながら、菜実からぶら下がった状態で、床に膝を着いた。
「あなた、これまで誰かから、尊敬っていうの、されたこと一回もない。尊敬は、その人必要だからいなきゃ駄目っていうの心です。それの喜び知らないから、暴力で人、威す。ここの空手、間違いないの。何かを馬鹿にして笑うっていう考えは、道場には持ち込んじゃいけないの。道場は神聖な場所だから。そういうの、分からない、分かろうとしない人、赦せないの。子供通わせて、自分も空手やってた人として」菜実は永松の腕をさらにひしいだ。悲鳴を上げる永松の体は、額が床に着くばかりに伏せられていた。
児童達はただその光景を見守るように見つめ、保護者達の席からは、はらはらした小さな声が上がっていた。
「菜実ちゃん、やめろ!」本当に折りかねない菜実の勢い、気魄を目の前に見た村瀬は叫んでいた。
「おばさん、やめて! やめてよ!」その次に叫んだのは、竜士だった。まだ変声前の声だった。村瀬ははっとなって彼を見た。
菜実はそこからさらにひしぎを強めた。
「痛い! 痛いよ! ごめんなさい! 赦して!」永松が涙に濡れた顔で、命乞いの号を発した。菜実は、次第にひしぎを弱め、やがて、腕にかけていた関節技をするりと解いた。永松は、床に鼻を押しつけるようにして這った。
「見なさい。なっちゃいけない大人の見本だ。社会人としてのね」村瀬は、這いつくばって泣き声を立てる永松の醜態を手で指し、児童達一人一人の顔を見ながら、言い聞かせるように言い、よかったら何か話してごらん、という促しを、竜士に目で送った。
「お父さん、気が弱くて、嘘つきなんだ」怯えた顔もそのままに、こぼすように言った竜士の発音は、もごもごとして聴き取りづらいものだった。
その顔に刻み込まれている怯えは、日常へのもののさることながら、自分自身の前途への恐怖、不安も含まれていると村瀬は察した。今、自分の前に這って、尺取虫のような恰好で啜り泣いている父は、子供である自分の気持ち全般を汲んでくれるような親ではない。つまり、全てを自分の肩に抱えなくてはいけないのだ。それにより、親が死ぬまで、その人生を親に左右され、振り回されなければならない。親子で障害を、という菜実の指摘に間違いはない。
「お父さん、仕事がないの。会社に入っても、いつもすぐに辞めさせられちゃうんだ。だから、お母さんが夜、男の人相手する仕事してるんだ」竜士は目端、口端の垂れた顔のまま、可能な限りの語彙を搾り出すように述べた。
彼の母親が、夫と子供を養うために身を挺している仕事は、具体的にそれが何かと訊き出すまでもなく分かる。
こういう子供の地獄は、いつの時代まで続くのか。思うと、胸に差し込むものは暗澹としたものばかりだが、自発というものも可能性を含むことがあると村瀬は信じたい。軽度児者の場合、その自発が、自分に助けの舟を出す人間関係を呼び込み、たとえ少しであっても自分をまともな道へ軌道修正し、何かを変えることがある。
それは、あの三里塚の夜までは、ただ受けるだけの生を送っていた菜実が、人間関係の恵みを得たことで思考に自発を起こし、結婚、二度目の出産、育児という人生の段階を踏み、それが彼女に知的刺激を与え、わずかとはいえ語彙力が向上し、自分の思うことをはっきりと伝えられる女に成長した様を、たった今、目前に見たからこそだ。また、必要な時に発動させなくてはいけない怒り、というものも習い、覚えていた。
だから、竜士には、まだ救いがある。
「そういうことまでは、人前じゃ話さなくたっていいんだ」村瀬は、竜士の恒常的な緊張をほぐしてやるように語りかけ、今回試験を受けた児童達に向き直った。
「これから書類審査に入りますが、今回、全員合格の見込みです」村瀬が言うと、子供達の間から、わあっとした喜びの声が上がった。保護者席からは拍手が上がった。
「これで今日の昇級審査は終わりです。それでは、皆さん、着替えの必要な人は着替えて、今日は解散です。色の変わった帯は、次回の練習の日にお渡しします。お疲れ様でした」村瀬が頭を下げると、児童達は、ありがとうございました、と返した。
親同伴なしで帰る子供には、気をつけて帰りなさい、と声をかけ、それから保護者と短い話をし、座り込んで立ち上がらない永松と、その父親をおろおろと見ている竜士の前に立った。菜実と、夫の島崎、子供の詠砥も、そのそばに立っていた。
「永松さん」村瀬が頭上から声を落とすと、彼の目下にへたばっている、推定障害支援区分2の中年男は、まだ涙を光らせる顔を緩慢に上げた。
「私にも、もう三十前になる娘と息子がいます。息子は福祉の支援を受けて、仕事をして暮らしていて、娘はもう結婚して、所帯を持ってて、子供もいます。娘は、子供の頃にいろいろな不幸に遭ったということもあって、ある時期まで、誤った身の守り方に凝り固まっていました。それが変わって、母親を務めている現在に至っていますが、それは、自分を心から思ってくれて、守ってくれる人に出逢ったことが大きかったんです。玄道塾には、人を排除するという考え方はありません。それまでが間違っていても、それを正して進み直すということは、何歳になってからも遅くはないんです。だから、もしよろしければですが‥」「うるせえ‥」永松は村瀬の言いかけを遮って、力無い吐き捨てを返した。
「ちょっと待ってなさい」村瀬は竜士に言い、デスク脇に置いてある自分の鞄へ小走りした。保護者が礼を言い、後藤と村瀬が頭を下げ、児童達が帰っていく。
村瀬は鞄から、義妹が経営に関わる、グっちゃんのお庭のパンフレットを出した。
パンフレットを手に歩み寄ってくる村瀬を、竜士は、先までの怯えが少し晴れた顔で見ていた。菜実の顔持ちは変わらず、優しいキタキツネ、そのままだった。彼女の夫も、表情穏やかに、すっとした姿で立っている。
「家に帰ったら、読んで。よかったら、遊びに行くといいよ」村瀬が優しい声をかけ、手渡されたパンフレットの紙面を、竜士の目が這った。
「子供が、障害者の人達と一緒に、お話したり、ゲームをしたりして遊ぶ所なんだ。鎌ヶ谷だよね。だから、近所だ」村瀬が言い、竜士はまだ不安げな顔を上げた。
「怖い所じゃないから、大丈夫だ。ものすごくはっちゃけてて面白い、私の甥っ子もいるからね」村瀬の簡単な説明に、竜士はパンフレットを持った手を下ろし、入口扉のほうに体を向けた。
「だいじょぶですか?」菜実に声かけされた永松は、消沈した横顔を見せ、俯きながら立ち上がった。
「痛いのしたの、ごめんなさい」永松は、菜実の詫び言も耳に入っていないように肩を落としたまま、扉へと歩き出した。小さく縮み上がった背中を遠ざける永松を、パンフレットを持った竜士が追った。その一組の親子が消えるのを、村瀬、島崎、菜実、詠砥が最後まで目追いした。その消え際の姿は、寂傷としたものだった。
 村瀬は、まだ残っていた親子と短く話をし、頭を互いに下げ、次回から紫の帯を締めることになった少年が、母親と一緒に退室するのを見送った。それから、菜実夫妻、詠砥の許へ歩を戻した。
 村瀬は、深い辞儀をした。その辞儀は、主として島崎に宛てる気持ちだった。自分が、年齢その他の制約から、一緒に人生を歩み得なかった人を、確かに幸せにしてくれた人間への感謝、敬意を込めていた。
 島崎も辞儀を返した。それは、期間そのものは瞬くような束の間ではあったにせよ、今、自分が愛を注いでいる相手を助け、そばに着いていてくれた人間への礼と思えた。
「また会えるなんて思いませんでした‥」「私、いつか会えると思ってました」村瀬の言葉に、菜実は相反する答えを返した。
「あの結婚式の時は、すみませんでした。非常識にも乗り込んでしまって、それだけでなく、取り乱して、警察沙汰手前の騒ぎまで起こしてしまって‥」村瀬の詫びに、島崎は、手を振って、いや、と返した。その様子を、後藤が、防具などの道具を片付けながら、ちらちらと見ている。
「菜実のことを、とても大切にしてくれて、命懸けで守ってくれた人だということは、お話を聞いて、知っていましたから」言った島崎の眼鏡越しの目は潤んでいた。
「菜実ちゃん、今は、仕事とかは‥」「詠砥君産んでから就労移行支援さん卒業して、特例子会社さんに就職したの。その会社さんの、スマートホン作る部署でお仕事してるんだ。指導員さん、厳しい時もあるけど、みんな、いい人。あと、今、私達、私のお父さんと一緒に暮らしてるの」菜実の答えに、村瀬は目頭が熱を持つのを感じた。
菜実は長い間、職場というものを含む周囲の人間関係に恵まれなかった。少なくとも、恵みの家のスタッフが入れ替わり、「ささきくみこさん」のような人と出会うまでは。
それも如是が働いた結果だった。今の自分が愛美と家庭を築き、ここで空手を教える立場となっていることも、七年前のハロウィン前の日に、吉富からの恫迫と侮辱を受け、傷つき果てている時に、特攻拉麵の若者達による準暴行の沙汰に遭遇、その時の虫悪から安らぎを求め、その作用として、菜実との縁が生じた。
それは、罪を作り、かつ死に瀕する淵を歩くという縁の作用ももたらした。だが、その結果、今、若い時分にはあれほど自信を持てなかった空手をここで教える立場となっている果報も得ている。
愛美と、賜希との家庭生活を送っていることも、同じ、本末究寛等だ。
両親に眼差しで守られた、道着に上着を着た詠砥が、床でミニカーを走らせて遊んでいる。やはりまだ幼児ということもあり、稽古を離れると集中は切れるようだ。
走らせているミニカーは、外車らしいデザインだったが、それを見た村瀬は、李が後部座席で反り返っていたリンカーンコンチネンタルを思い出した。
その命を摘み取った行川は、あれからどうなったのだろう。残党の報復で死んだか、今もどこかで命を保って暮らしているのかは庸として分からない。それを知る術は、村瀬にはない。
受けた彼の拳の衝撃、痛み、あの花見川区らしい自然更地で、顔面に相討ちの追い突きを決めた彼の体に拳、キックを叩き込んだ時の手応えが、頭に蘇生した。対象物を射る、あの「の」の字の眼には、確かな悲しみの色があった。それは、利己ではなく、己に犠牲を挺した利他の悲しみに見えた。
過去と今、その今を起点とする未来は、同じ陸地の続きで、切ろうにも切ることは出来ない。
そもそもの「因」であった吉富も、今はどうやって暮らしているのだろう。彼への憎しみも、まさにその憎しみを経たからこそ消えた。
過去というものに根ざした自分の今は、どういう未来へ進もうとしているのだろう。それは。
賜希が母の愛美を通して自分に伝えさせた、刃物を持った黒い霧、か。
 「先程もお伝えいたしましたが、詠砥君も合格見込みです。これから、指導員としてご成長をお見守りさせていただくことになりますので、今後ともよろしくお願いいたします」村瀬は、関係性の変わった元恋人とその夫に挨拶を改め、また辞儀をした。
 「こちらこそ、よろしくお願いします」島崎が辞儀をし、挨拶を返すと、菜実もそれを倣って腰を折った。
 村瀬は親子を会館の外まで見送った。
 「車ですので‥」島崎は言って、菜実、詠砥とともに、駐車スペースに停めている軽ワゴン車のオートキーのボタンを押した。普通免許の欠格条項から知的障害者が外されて久しく経っているが、周りに助けられながら、かなりの努力を自分に課したのだろう。
 市場の方面へその姿を遠のかせる軽ワゴン車が見えなくなっても、村瀬はそこに立っていた。
 そこへ後藤が来た。
 「何だか、長いお話してたみたいだったみたいすけど、村さんとどういう関係の人達っすか?」訊いた後藤に、村瀬は笑顔を向けた。
 「友達だよ」「友達?」村瀬は答え、まだ審査関係書類の処理が残っている会館へ踵を戻した。そのあとに後藤が続いたが、彼は村瀬の返答に合点の行っていない顔をしていた。
 祝日の水曜、菜実は夫の英才、長男の詠砥とともに、柏の葉キャンパスにある大型ショッピングモールにいた。家の冷蔵庫が不具合をきたしたため、新しいものを買うため、電化製品店で購入の手続きを済ませた。
 レストラン街のアジアンダイニングで食事をし、詠砥を遊ばせるためにゲームコーナーへ行った。
 電子アレンジの音楽が交差する、おもちゃ箱のような空間に入り、詠砥のクレーンゲームに付き合っている時、菜実は、確かに自分を見ている男の視線を感じ、太鼓ゲームのほうを振り返った。
 英才は、喫煙所に電子タバコを一服しに行っていて、菜実、詠砥の二人だった。
 詠砥と同じくらいの年齢程度をした女児が、アニメソングに合わせてばちを振るって太鼓を叩き、その父親で間違いないと思われる男が立っている。男は、長い間探していたものを見つけたような目で、菜実に視線を集中させている。丸めの輪郭に細い眼形をした中肉中背の男で、年齢は三十代半ば、菜実と同じ年代だった。
 その男は、ちょっと遊んでなさい、という風な声を娘に短くかけ、クレーンゲーム機前の菜実に、ぽかっと口を開いて歩いて寄ってきた。
 その時、菜実は、男が何者かであるかを記憶の中からサルベージした。
 自分に何も言わず、いずこへかへ失踪めいた転居をし、今だに行方の知れない叔母。その叔母に、自分で絶縁を突きつけ、柏の一角にある立ち飲み屋を出たあと、ダブルデッキで、一目惚れの告白をし、手持ちの付箋に連絡先を走り書きし、渡してきた若者。名前は根島健。
 その時は、言うなれば無視を貫く形になった。それは彼を嫌いだからではなく、連絡する理由、動機がなかったからに他ならなかった。
 派手さを抑えたオータムカジュアルの服装をした健は、クレーンゲーム機の前に立つと、どこか疲れを滲ませた笑顔を菜実に向けた。
 「お久しぶりです。覚えてますか」その第一声にも、仕事、家庭の疲れが浮いていた。菜実は言葉はなく、微笑の顔でゆっくりと頷いた。
 「あれから世の中ではいろいろなことがあって、僕自身の状況も変わりまして‥」健は言いながら、後ろで太鼓のばち振るいに夢中になっている娘を見遣った。
 「連絡、期待してたんですけど、しかたないですよね。個人的な事情などもあったことでしょうから‥」菜実は言葉では答えなかった。ただ、それほど悪い気はしていなかった、という旨は、笑みの表情で伝えた。
 そこへ女が入ってきて、一曲目のプレイを終えた健の娘に何かの声かけをした。行くよ、と言っているように菜実には聞こえた。
 男のようにごつい顔と体をした大女だった。その女は、菜実の前に立ち、せめてもう一言、二言だけでも何かを話そうとしている様子の健の後ろにどかどかと迫り、「ねえ」という不機嫌な声を浴びせた。
 女は彼の妻のようだった。
 「ゲームなんかで油売ってる場合じゃないよ。早く行かないと売り切れちゃうじゃん。安く値引きされてるんだからさ」女は低い声でまくし立て、健は気弱な顔で頷いた。
 あの日の彼は、彼なりの勇気をもって、菜実に対して積極的なアプローチを試みたが、それが無視されたことにより、自分の理想には程遠い縁に捕まってしまったことは明白だった。
 健の妻は、彼の上着の裾をむんずと掴み、力任せに彼を引いて、ゲームコーナーを出た。健が菜実を振り返ることはなかった。娘がばちを置き、そのあとに続いた。
 彼は自分の運命、人生をすでに受け入れきっているのだ。
 人生の在り方は様々だ。結果的にその相手を選んだ自己責任は、生涯に渡って買い切らなくてはならない。
 詠砥の操作するクレーンが、そこそこのサイズをした縫いぐるみを釣り上げ、それが受け口に落ちて出た。漫画を原作とする、異世界にスリップした二人の戦闘機パイロットが、限られた武器で魔物や怪獣と戦って生き残りを計るというストーリーの、高視聴率を叩き出しているアニメに登場する「キノコが進化した高等生物」という設定のキャラクターで、名前を「ムルース」という。その通り、キノコ型の大きな頭部をし、丸い目と小さな体が可愛い。劇中では、お坊ちゃま口調の流暢な日本語を話すのだが、そこにその異世界の謎が隠されているのだ。
 詠砥がムルースの縫いぐるみを手に取り、半はしゃぎをしているところへ、健が喫煙所から戻ってきた。
 「これ、取ったよ」詠砥はムルースの縫いぐるみを掲げ、健は、その高さに腰を屈めた。詠砥の隣に立つ菜実は笑顔だった。
 「今日は魔道國がやる日だね」健は、そのムルースが登場するアニメの番組名を言って、詠砥の頭に手を置いた。
 責任、という言葉は、人生の中でどれほどの意味を含むのだろう。語彙を化さない思いを巡らせながら、菜実は、これから寄ることになっている子供服売り場へ、夫、息子に続いて踵を進ませた。
 館内放送は、八千代市からお来しのミウラユウイチ様、という呼び出しをかけていた。すれ違った若いカップルの男が、「創造主がさ‥」という会話振り出しを発していた。
 運命というものは、どこで何者が握っているのだろう。菜実は、また語彙にならない思いを頭に抱きながら、夫と、縫いぐるみ片手の息子を追った。
~バニシング・ポイント~
 その祝日水曜、村瀬の勤務する「きらり」のある習志野台では、「ウェルビーズ・オータムフェスタ」と題した祭りが開催されていた。場所は高根木戸駅近くにある公園で、船橋市内の社会福祉法人、NPO法人、福祉会社が食べ物や遊戯の屋台を出店していた。
 白を始めとする、色とりどりの大小様々なテントが、休日を楽しむ人でさんざめく公園に並び、食べ物屋台からはグリルの煙が上がり、肉や粉物を焼く美味しい匂いが秋空の下に漂っている。
 両手に持ったへらを器用に操作して、鉄板の上で焼きそばを焼く村瀬の前に、女らしい人間が立った。いらっしゃいませ、と言いかけたが、並んだ列から小さな顰蹙の声が上がった。
 その女は列に割り込んだようだ。
 ソフトな注意をしようと思い、顔を上げた村瀬は、あっとなった。女の顔に、時代の流れ的にはともかく、今の自分にとっては大昔の日に確かに会ったエピソードを経ている人間だったからだ。
 七年越しに近くで顔を見る生田絹子は、黄色いパジャマ姿で、「いくた」とマジックで平仮名書きされたスリッパを履いた姿だった。あの時、ブラウンのお洒落染めをしていた髪は白くなり、乱れたざんばらだった。後ろに並ぶ客達が露骨に嫌な顔をしている。
 鉄板に伸びた絹子の手が、まだ焼けていない焼きそばをぐしゃりと掴み、それが歯の欠損した口に運ばれた。
 「お客様‥」隣のスタッフが駆け寄り、なおも焼きそばに手を伸ばそうとしている絹子の腕を、声かけしながら抑えるや、歪んだ顔から、きい! という奇声が上がった。後ろに並ぶ客達は唖然となっている。
 「泥棒だ!」絹子が金切り声の言葉を張り上げた。「こいつ、泥棒だ! 私のお金を取りに来たんだよ!」焼きそばの切れ端を口周りにつけた絹子は、物事の前後を無視した支離滅裂な内容の言葉を叫び、スタッフを振りほどくようにして暴れ始めた。
 村瀬は屋台を出て、身元の分かるものをつけているかを確認にかかった。腰から下がった札が揺れている。手に取り、見ると、生田絹子と振り仮名入りであり、船橋遊楽苑という特別養護老人ホームらしい入居先と、その電話番号が書かれていた。
 「ここに入居してるらしい。私が連絡するから、お店、よろしく」村瀬は女性スタッフに言い、携帯を懐から出した。
 このすぐ近くにある特養のようで、事業所名が車体に書かれた社用のライトバンが走りつけてやってきて、黄色いユニフォーム姿のヘルパー達が、奇声を発し、あらぬことを口走る絹子を押さえ、生田さん、帰りましょうね、と説得し、なおも暴れ、ばたつく彼女の四肢を、まるで豚の丸焼きを持つように持ち、車へ運んだ。ヘルパー達の腕からぶら下がった絹子は、泥棒を殺せ、と叫び続けていた。その光景に、振り返った人々の呆気に取られた視線が集まった。
 「ご迷惑を‥」と辞儀をし、詫びの挨拶をしたヘルパーに、いえ、と返した村瀬は、運び去られるその姿を目で追った。
 絹子を乗せたライトバンが消えた。この媼が、七年前の時間に一時関わった人間であることなど、同僚に明かす必要はない。
 自分などが、たとえ望んでも持つことの出来ないものを持った人だったと思う。プロの愛人、性別を変えればプロのヒモということになるわけだが、普通の人間が真似ようとすれば、人生をそのまま転落させることが関の山である生き方を振り、それを介護施設の世話にならざるを得なくなる老いの病に罹るまで続けてきた。あの手繋ぎ式で、こんなものは人を陥れることの幇助、大人なら自分の身は自分で守れと説教をぶち、退室していく後ろ姿には貫禄が満ちていた。
 しかし、無常にして無情なものが世の中であり、人の一生だ。あの一本筋の通った自由人は、認知症を発症し、身内もいない以上、特養の壁の中で最晩年を迎えなくてはならない運命にある。
 今日、突如と、ひょんに起こった再会。これは目に視えない世界が下した判断による縁の働きだと思いながら、屋台に戻り、また、へらを振るい始めた。隣に立つ女性利用者は、先の出来事をきょとんとなって見ていたが、何事もなかったように、高い客呼びの声を響かせている。
 自分では、失くしたものとした縁であっても、切願が、その縁をまた繋ぐように造られているのが、因縁の世界だ。少なくとも自分はそれにより、時間を経て、生徒の保護者という形を成した菜実との縁をまた繋ぐことが出来た。
 だが、その追いが、憎しみの的に縁を接続することもある。人型をした黒い霧、について、該当するものが強いてあるとすれば。思い、思ったあとで否定した。
 あの男は、自分の加えた凄惨な暴力と凌辱の私刑で、今、命があるとしても、すでに生きながら死んでいるも同じの生を送っていることだろう。しかし、諸行の無常を想えば、自分の知らない所で、自分が想像もし得ないことが起こっていることも否定は出来ないかもしれない。
 それでも、今、自分が送っている暮らしそのものに、それのもたらす凶事が襲う気配は見えていない。
 祭りは十八時に撤収作業などが全て終了し、そのあとは、北習志野のアーケード街にあるビストロで打ち上げ、食事会になった。愛美にはその旨の連絡を済ませているが、彼女は、今日は賜希と二人でスーパー銭湯へ行き、そこで食事すると言っている。
 打ち上げがお開きになったのは、二十時過ぎだった。村瀬は店を出て、少し酔い覚ましをしてから帰る、と同僚スタッフに言い、スーパーの角を曲がり、駐輪スペースの自販機でホットの紅茶を買い、奥の公園へ進んだ。
 小高い人工丘とブランコ、シーソーなどの遊具、何点かのベンチのある、わりと広い公園だった。
 数十メーター向こうの住宅街寄りのベンチに、影の見え具合で老齢者と分かる男が一人いるということ以外の人気はなかった。
 村瀬は道路側のベンチの腰かけて、畳んだ折り畳み傘を置き、キャップを開けた紅茶を啜った。程よい熱さが喉から胃に巡り、厚い雨雲が覆う、星のない夜空を瞳孔に映した。朝のテレビでは、今日夜から未明にかけて強めの雨足、という予報を、お天気キャスターが読んでいた。
 マグナムワインの酔いが、血管、運動神経の端々にまで重く落ちていた。今日は少し、格闘家としては不覚悟な飲み方をした。そのことについて、さしての反省はしていなかった。
 菜実の得た幸せ、今の自分の幸福。お互い、苦しみと悲しみの荒渦に揉まれた果てに見つけたそれに、申すことはなかった。自分は、愛美を生涯に渡って離さない。菜実は、島崎の妻、詠砥の母としての人生を全うする。それこそが、その縁を繋いでくれた神仏への報恩だ。
 村瀬は、無いという前提で考えていた神仏の見方を改める気持ちになっていた。それは、神とは博愛、仏とは、慈しみであり、人の形をした実体はないが、信じる心が想いとして結晶化し、世の中に様々な現証を起こすものだろうという結びになる。それでも、霊魂、霊界と呼ばれるものは在ると思える。ただし、従来からイメージされてきたものとは大きく異なるものかもしれないと、今の村瀬には思えていた。
 
 この現世のような形で見聞し、触知することの出来る世界に肉体の在る時間は定められている。その間に、与えられたこの世での生を使って、何を成すか。
 その生の使い方として有効なものとは。無駄なものとは。
 考えが巡った時、ポールライトの灯りの隅から、一人の人間が現れた。村瀬が目を遣った方向には、長い布袋を持った男の姿があったが、酔いと相まって体の隅々まで行き渡っていた幸福感は、それに対する警戒信号を働かせなかった。
「村瀬」黒のニット帽に黒のナイロンジャージという姿をした男の口から名を呼ぶ声が発せられ、布に入った鞘から、刃渡り三十センチの刃が抜かれた。立ち上がれという信号を、村瀬の脳が肉体に司令しかけた時、男は全体重をかけ、座っている村瀬の体にのしかかった。
脇差の刃が、腹部の皮膚、脂肪層、筋肉を割って、腸まで押し込まれたことが分かった。刃の刺突力には鍛え抜いた男の筋力を感じた。腹腔から胸部にまで、さながら火が起こったような熱が広がった。
末期を前にした呼吸を刻みながら、村瀬は男のジャージの襟首を掴んだ。男の顔を確認した村瀬の目に、狂いはなかった。睨み下ろす男は、若い日の自分を山荘バイトの折にいじめ抜き、七年前の報復制裁で心身を襤褸のようにした男だった。驚きは、苦痛とともに目の前に迫った命終ともども、さほどには覚えていなかった。その事なげな今の心境が作られている心的理由は、捩り合わされた因縁の糸の存在を今日の日に改めて知ったこと、また、己を含む人間の命尽というものが、多々としてあえなく訪れることがあると悟っていたことにあった。
「‥おい、柳場‥よく聞け‥」村瀬は怒涛のような呼吸の中、呼びかけながら、柳場の襟首を万力の力で掴み、ベンチの隣に転がし倒し、座位にした。最期の渾身力だった。刃はまだ、村瀬の腸を断ち割って深く埋まったままで、二つの体がひと振りの刃で繋がれている状態だった。
「‥幼稚園か‥そこらの頃‥お前も‥いつも目をきらきらさせて‥人生の未来を夢見てたはずだろう‥人生のどこかで‥それに立ち返ってな‥まっすぐな生き方しようと思ったことは‥お前には、一度もなかったのか‥ただの一度も‥」村瀬の嗄れて震える声を受けた柳場の眦と口許は、さらなる怒りに吊った。彼の喉は、憎しみを呑み込みかねたように激しく蠕動している。
「‥いや‥どだい‥無理だよな‥傍からは‥視えない愚を抱えて生まれてきた‥お前みたいな‥奴には‥今‥これから‥お前の行き着く先は‥もう決まったも同じだけどな‥それは‥お前の脳には‥反省という機能が‥付属‥されてないからだ‥だから‥こうしてる今も‥お前に殺されたも同然に‥命を断った‥女の子を悼む気持ちの一つも‥お前は‥持っちゃいない‥持てはしないんだ‥かけらほどもな‥男女‥問わずに‥他人に‥思いやりの気持ちを持つこともなしに‥大人になっても‥自分の欲望だけを満たすことを第一に‥してきた‥つけを‥これから一生かけて支払わなきゃいけなくなったんだぞ‥分かってるのか‥柳場‥あの時‥俺がお前に加えた仕打ちも‥お前が‥送ってきた‥生き方の‥つけ払いだ‥これからも‥一生‥お前は‥それを‥」村瀬が残そうとした言葉を遮り切ったものは、さらなる三回の刺突だった。脇差の刃は、村瀬の肝臓、脾臓、最後に肋骨の間を潜って、肺臓にめり込んだ。
村瀬は、一挙に遠のいた意識の中で、これが弟の命を奪った直接の死因であったことを思い出した。
襟首を掴んだ手から力が失われ、村瀬の後頭部と背中がベンチの座面に付き、やがて、痙攣する上体が芝生の上にずるりと落ちて下がった。座面は血に浸され、背もたれも、赤い塗料を散らしたように汚れていた。そこへ足勢の強い雨の粒群が落ち、公園の夜景色を霞め始めた。それは、ほどない時間のうちに、ベンチの前に仁王立ちになった柳場、涌き上がる血もそのままに、くっと目を開いて、仰向けの半身をベンチから垂らした村瀬を洗った。
「尊教純法、万歳! 我らが金沢聖大法裁様は偉大なり! 尊教の功徳は永遠なり!」ベンチの前で脇差を手に、雨粒が迫り落ちる空を仰いだ柳場が叫んだ。この世における意識が切れる手前にある村瀬の目は、柳場が逆手に柄を持った脇差を、躊躇なく己の喉首に突き立て、その刃先が盆の窪からびゅっと飛び出す様を捉えた。流れ出した血は、すぐさま、夜の街を叩き鞣す雨に洗われた。
雨の中、跪き、前のめりに崩れていく柳場の姿が、滅末の一景として村瀬の網膜に焼きつけられた。全ての罪咎を洗い流す、甘露の法雨。その雨弾が、村瀬の眼に流れ込み、視界を奪った。その雨に、自分の罪、因縁が洗浄されていく感覚に、肉体の苦痛が中和される思いがした。その時、全ての力を失った体がベンチから転がり落ちた。柳場は、頸後ろから刃身を突き出し、生命を消失させた肉体を緑地の上に留めていた。雨は降り荒みの激しさを増した。今の時間に、本末究の働きに決済された、二人の男が背負う因縁を、芥ほどのミリ数も残すことなく洗い流すように。洗い流した上で、十方の仏前に化生させるかのように。
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