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契約
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昔大好きで恋焦がれていた人の隣に、敵意なしに二人で並んで立っている。
今はもふもふの毛の太った猫の瞳が煌めき、猫の奥にジョシュアを感じる。私は死んではいなくて、ジョシュアと共に生きている。
皇太子の妻になってからは3年たった。その間一度も感じたことのなかった温かいふわふわとした気持ちを感じる。初恋の人は、太った猫になっても隣に立っていてくれるだけで、変わらず私の気分を高揚させてくれていた。今は私は狐なのに。
おかしなことだけれども、私が狐になったタイミングで初恋の人が猫になり、運命共同体のような連帯感を勝手に私は感じた。
実のところ、おそらく私は心の奥底では今でも彼のことが大好きなのだろう。裏切った私が今言うことではないけれども。
私とジョシュアは昔の記憶を遡った。昔、呪文を諦めるギリギリまで二人で魔法経典や術例を調べ尽くしたのだから。
――猫と狐になってしまう術例はなかったと思うけれど。似たようなものはなかったかしら?
「あっ……獣の術例?」
「そうだね。『日没とともに元の姿になりしも……星満ちる頃に再び獣になりて……』そんな文章が騎士から魔法師になった人の日記にあった」
「そうだわ。もしそうなら、日没前後のしばらくの時間は人の姿に戻れるのかもしれないわ」
私とジョシュアは顔を見合わせてうなずいた。思わず笑顔になる。猫と狐の姿でうなずいたり笑顔になったりしているのだけれども。
少しほっとしたところで、どうしても聞きたかったことを聞いた。
「ねえ、さっきのことだけれども。あなたは本当に私を殺すつもりだったのかしら?」
「いや、昔のよしみでもう一度抱き合えないかと」
私は無言になった。私は嬉しいような複雑な気持ちでいた。
もしリリアに襲われなかったら、どうなっていたのかしら?
私は心の中でそっと考えた。
考え事をしていた私は、金髪の長い髪の毛をふわふわとなびかせて歩いてきた男性の腕に優しく抱き抱えらて、「グレース夫人」と耳元でささやかれた。
金髪の男性は刺繍の施された金の衣装を着ていて、引き込まれそうな優しい瞳で猫になった私をみおろして微笑んでいる。
彼の指が優しく私の背中を撫でる。私の体の緊張がほぐれる。心がときめくのは、彼が私を抱き上げているからなのか、太った猫になったジョシュアが一緒にいてくれるからなのか。
私は今朝からずっと命の危険を感じていた状態からふっと守られているうような気持ちになった。心に安堵感が満ちてきて、幸せのため息が思わず漏れた。彼には不思議な魅力があるようだ。
「ようこそ、グレース夫人、ジョシュア当主。私は円深帝といいます」
円深帝という男性はにこりと微笑んで、私とジョシュアに挨拶をした。彼の声は私の耳にはとても心地よく聞こえた。時と今置かれている状況を忘れてしまいそうな魅力があった。
今頃リリア・マクエナローズ・バリイエルは、村中、街中の、山中の狐と猫を手当たり次第に探しているに違いないだろう。
彼女には私とジョシュアがどっちがどっちだか分からなかったのだから。大切なバリイエル王朝の君主が、猫なのか狐なのか。それが分からず頭を抱えて探し回っているに違いない。
「グレース夫人とジョシュア当主は術を使いましたね?術の残り香を纏っています。となると、見返りの金塊を納める必要があります。金塊の契約を私と結ぶ必要があります」
円深帝は私とジョシュアの顔を交互に見つめながら言った。私は円深帝の腕の中から円深帝の澄んだ瞳を見上げた。
――綺麗で嘘のない瞳をしているわ。この人のことを信じられるような気がする。
「わかりました。金塊の契約を結びますわ」
「承知した。金塊の契約をしよう」
私とジョシュアは即答した。
呪文を使ったのならば、3年前に諦めた金塊の契約を果たさなければならないのはよく理解できた。それがどういうものかは全く想像がつかなかったけれども。
「わかりました。ならばこの世界とあなたの世界の結界は今のあなたたちの自室です」
円深帝は伝えた。
「獣なりとて結界の出口を伝い……人の時代の自室を……」
「そうだわ。確かにあの騎士から魔法師になった人の日記にそんなことが書いてあったわ」
「そうです」
円深帝は、私たちが魔法経典や術例を調べていることに満足したように深くうなずいた。
「私のはリジーフォード宮殿の皇太子妃の部屋よ。もう一つはさっき呪文を唱えたノーキーフォットの街にあるバウズザック伯爵家のジョシュアの部屋ね」
「よく調べていますね。大変結構なことですよ。呪文を使うには真剣に取り組む必要がありますから」
「金塊の契約を果たすならば、この世界では自由にいつでも人の姿になれます。元の世界で人の姿になれるのは、その日の日没から一刻半のみとすします」
金髪の男性は私たちに告げた。
――元の世界にもやはり毎日少しは戻れるわ。これならやっていけるかもしれないわ。
私は男性の言葉に力づけられて何とかなりそうな気持ちになった。一度死んでしまった身からすれば、ありがたいことに命は助かった。また生きることができる。
それに1日に数時間は人の姿にも戻れるのはとても良いことに思えた。猫のジョシュアを見ると、彼も少し元気になったように見えた。どん底から希望が見えたような感じだろう。
――頑張って契約を果たすわ。
「どう契約を果たすか彼女の意見に従うように」
金の衣装を着た男性は、私たちの横にいつの間にかやってきた非常に地味な様子の女性をチラリと見てにっこりとした。男性の言葉にはほのかに温かみが感じられた。私は彼の腕に包まれて、雲の上にいる様な救われた様な包容力を感じてうっとりした心地だった。
「今は私たちには金はない。愉快なことではないが、恐ろしいほど金がない。心して稼ぐように」
私を腕からそっと下ろすと、円深帝は私の頭を撫でてくれた。そしてにっこりと笑って姿を消した。
「良いですね?心して金を稼ぐようにという最後の言葉が一番大事ですよ?」
地味な格好をした女性は狐と猫の私たちに小声でささやいた。大金持ちの生まれの私たちにはピンとこなかったのだけれども。
私たちは仕方なくうなずいた。フィッツクラレンス公爵家の長女として生まれ、グレース皇太子妃として過ごしていた私に金を稼ぐようにと言ってもまるで響かないとは考えないようだ。ジョシュアも、バリイエル王朝の君主となるべき家に生まれ、チュゴアート王朝でも大金持ちの伯爵家の後継なので、『金を稼げ』と言われても響かないだろう。
契約を果たそうと意気込んだはいいものの、『金を稼げ』と言われて私は一抹の不安を覚えた。この騒ぎの結末は金を稼げによって左右されるとなると、不安しかない。
地味な女性は、そんな私たちの戸惑いにはお構いなしのようだった。
「そろそろあなたたちの世界の日没ですよ。まずは元の世界で済ませたい用事もあるでしょう。今日はまずは用事を済ませて戻ってくるのが良いと思うわ。言われたように元の姿に戻れるのは1刻半だけですよ」
「ええ。わかりました」
「今は楽にしていいわ。元の姿に戻ろうと思ったら、戻れるはずだから」
私は元の姿に戻りたいと願った。すぐに猫はハッとするような美貌を誇るジョシュアの姿になった。私も自分が皇太子妃の姿に戻ったことに気づいた。だが、私のドレスはボロボロに破れていて、体が丸見えだった。
「いやっ!」
私はすぐに再び狐の姿に戻った。人間の姿に戻っても、身につけていたものはリリアにドレスを引き裂かれたそのままだった。
――リジーフォード宮殿の皇太子妃の私の部屋に戻って替えのドレスを持ってくるしかないわ。
「ジョシュア、都でバリイエルの君主宣言をしましょう。城の私の部屋への結界を使いましょう。宮殿に行くのよ」
私はジョシュアの瞳を見てささやいた。
「分かった。君は狐のままの方がいいよ。元の姿ならば、捕えられて殺されてしまうだろうから」
そういうと、ジョシュアは狐の私をそっと抱き抱えた。私はジョシュアの温かな腕の中に抱き抱えられて、思わず心がふわりと浮き立ってしまった。円深帝とは違う、強烈なときめきに私は自分の体が浮揚するのを感じた。
――ばかな私だ。私は今は狐よ。何を浮き立っているのよ。
自分で自分を叱咤したけれども、心がざわめいてしまうのはどうしようも抑えきれない。王家に嫁ぐ時に封印したはずの私の心は、大好きなジョシュアと一緒になって再びジョシュアに強烈に惹かれてしまっている。
自分で裏切ったはずの初恋の人は相変わらず私の心を捉えて離してくれない。
今はもふもふの毛の太った猫の瞳が煌めき、猫の奥にジョシュアを感じる。私は死んではいなくて、ジョシュアと共に生きている。
皇太子の妻になってからは3年たった。その間一度も感じたことのなかった温かいふわふわとした気持ちを感じる。初恋の人は、太った猫になっても隣に立っていてくれるだけで、変わらず私の気分を高揚させてくれていた。今は私は狐なのに。
おかしなことだけれども、私が狐になったタイミングで初恋の人が猫になり、運命共同体のような連帯感を勝手に私は感じた。
実のところ、おそらく私は心の奥底では今でも彼のことが大好きなのだろう。裏切った私が今言うことではないけれども。
私とジョシュアは昔の記憶を遡った。昔、呪文を諦めるギリギリまで二人で魔法経典や術例を調べ尽くしたのだから。
――猫と狐になってしまう術例はなかったと思うけれど。似たようなものはなかったかしら?
「あっ……獣の術例?」
「そうだね。『日没とともに元の姿になりしも……星満ちる頃に再び獣になりて……』そんな文章が騎士から魔法師になった人の日記にあった」
「そうだわ。もしそうなら、日没前後のしばらくの時間は人の姿に戻れるのかもしれないわ」
私とジョシュアは顔を見合わせてうなずいた。思わず笑顔になる。猫と狐の姿でうなずいたり笑顔になったりしているのだけれども。
少しほっとしたところで、どうしても聞きたかったことを聞いた。
「ねえ、さっきのことだけれども。あなたは本当に私を殺すつもりだったのかしら?」
「いや、昔のよしみでもう一度抱き合えないかと」
私は無言になった。私は嬉しいような複雑な気持ちでいた。
もしリリアに襲われなかったら、どうなっていたのかしら?
私は心の中でそっと考えた。
考え事をしていた私は、金髪の長い髪の毛をふわふわとなびかせて歩いてきた男性の腕に優しく抱き抱えらて、「グレース夫人」と耳元でささやかれた。
金髪の男性は刺繍の施された金の衣装を着ていて、引き込まれそうな優しい瞳で猫になった私をみおろして微笑んでいる。
彼の指が優しく私の背中を撫でる。私の体の緊張がほぐれる。心がときめくのは、彼が私を抱き上げているからなのか、太った猫になったジョシュアが一緒にいてくれるからなのか。
私は今朝からずっと命の危険を感じていた状態からふっと守られているうような気持ちになった。心に安堵感が満ちてきて、幸せのため息が思わず漏れた。彼には不思議な魅力があるようだ。
「ようこそ、グレース夫人、ジョシュア当主。私は円深帝といいます」
円深帝という男性はにこりと微笑んで、私とジョシュアに挨拶をした。彼の声は私の耳にはとても心地よく聞こえた。時と今置かれている状況を忘れてしまいそうな魅力があった。
今頃リリア・マクエナローズ・バリイエルは、村中、街中の、山中の狐と猫を手当たり次第に探しているに違いないだろう。
彼女には私とジョシュアがどっちがどっちだか分からなかったのだから。大切なバリイエル王朝の君主が、猫なのか狐なのか。それが分からず頭を抱えて探し回っているに違いない。
「グレース夫人とジョシュア当主は術を使いましたね?術の残り香を纏っています。となると、見返りの金塊を納める必要があります。金塊の契約を私と結ぶ必要があります」
円深帝は私とジョシュアの顔を交互に見つめながら言った。私は円深帝の腕の中から円深帝の澄んだ瞳を見上げた。
――綺麗で嘘のない瞳をしているわ。この人のことを信じられるような気がする。
「わかりました。金塊の契約を結びますわ」
「承知した。金塊の契約をしよう」
私とジョシュアは即答した。
呪文を使ったのならば、3年前に諦めた金塊の契約を果たさなければならないのはよく理解できた。それがどういうものかは全く想像がつかなかったけれども。
「わかりました。ならばこの世界とあなたの世界の結界は今のあなたたちの自室です」
円深帝は伝えた。
「獣なりとて結界の出口を伝い……人の時代の自室を……」
「そうだわ。確かにあの騎士から魔法師になった人の日記にそんなことが書いてあったわ」
「そうです」
円深帝は、私たちが魔法経典や術例を調べていることに満足したように深くうなずいた。
「私のはリジーフォード宮殿の皇太子妃の部屋よ。もう一つはさっき呪文を唱えたノーキーフォットの街にあるバウズザック伯爵家のジョシュアの部屋ね」
「よく調べていますね。大変結構なことですよ。呪文を使うには真剣に取り組む必要がありますから」
「金塊の契約を果たすならば、この世界では自由にいつでも人の姿になれます。元の世界で人の姿になれるのは、その日の日没から一刻半のみとすします」
金髪の男性は私たちに告げた。
――元の世界にもやはり毎日少しは戻れるわ。これならやっていけるかもしれないわ。
私は男性の言葉に力づけられて何とかなりそうな気持ちになった。一度死んでしまった身からすれば、ありがたいことに命は助かった。また生きることができる。
それに1日に数時間は人の姿にも戻れるのはとても良いことに思えた。猫のジョシュアを見ると、彼も少し元気になったように見えた。どん底から希望が見えたような感じだろう。
――頑張って契約を果たすわ。
「どう契約を果たすか彼女の意見に従うように」
金の衣装を着た男性は、私たちの横にいつの間にかやってきた非常に地味な様子の女性をチラリと見てにっこりとした。男性の言葉にはほのかに温かみが感じられた。私は彼の腕に包まれて、雲の上にいる様な救われた様な包容力を感じてうっとりした心地だった。
「今は私たちには金はない。愉快なことではないが、恐ろしいほど金がない。心して稼ぐように」
私を腕からそっと下ろすと、円深帝は私の頭を撫でてくれた。そしてにっこりと笑って姿を消した。
「良いですね?心して金を稼ぐようにという最後の言葉が一番大事ですよ?」
地味な格好をした女性は狐と猫の私たちに小声でささやいた。大金持ちの生まれの私たちにはピンとこなかったのだけれども。
私たちは仕方なくうなずいた。フィッツクラレンス公爵家の長女として生まれ、グレース皇太子妃として過ごしていた私に金を稼ぐようにと言ってもまるで響かないとは考えないようだ。ジョシュアも、バリイエル王朝の君主となるべき家に生まれ、チュゴアート王朝でも大金持ちの伯爵家の後継なので、『金を稼げ』と言われても響かないだろう。
契約を果たそうと意気込んだはいいものの、『金を稼げ』と言われて私は一抹の不安を覚えた。この騒ぎの結末は金を稼げによって左右されるとなると、不安しかない。
地味な女性は、そんな私たちの戸惑いにはお構いなしのようだった。
「そろそろあなたたちの世界の日没ですよ。まずは元の世界で済ませたい用事もあるでしょう。今日はまずは用事を済ませて戻ってくるのが良いと思うわ。言われたように元の姿に戻れるのは1刻半だけですよ」
「ええ。わかりました」
「今は楽にしていいわ。元の姿に戻ろうと思ったら、戻れるはずだから」
私は元の姿に戻りたいと願った。すぐに猫はハッとするような美貌を誇るジョシュアの姿になった。私も自分が皇太子妃の姿に戻ったことに気づいた。だが、私のドレスはボロボロに破れていて、体が丸見えだった。
「いやっ!」
私はすぐに再び狐の姿に戻った。人間の姿に戻っても、身につけていたものはリリアにドレスを引き裂かれたそのままだった。
――リジーフォード宮殿の皇太子妃の私の部屋に戻って替えのドレスを持ってくるしかないわ。
「ジョシュア、都でバリイエルの君主宣言をしましょう。城の私の部屋への結界を使いましょう。宮殿に行くのよ」
私はジョシュアの瞳を見てささやいた。
「分かった。君は狐のままの方がいいよ。元の姿ならば、捕えられて殺されてしまうだろうから」
そういうと、ジョシュアは狐の私をそっと抱き抱えた。私はジョシュアの温かな腕の中に抱き抱えられて、思わず心がふわりと浮き立ってしまった。円深帝とは違う、強烈なときめきに私は自分の体が浮揚するのを感じた。
――ばかな私だ。私は今は狐よ。何を浮き立っているのよ。
自分で自分を叱咤したけれども、心がざわめいてしまうのはどうしようも抑えきれない。王家に嫁ぐ時に封印したはずの私の心は、大好きなジョシュアと一緒になって再びジョシュアに強烈に惹かれてしまっている。
自分で裏切ったはずの初恋の人は相変わらず私の心を捉えて離してくれない。
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