我が辞書に不可能はある~皇帝ナポレオン令和の日本で恋に落ちる

西暦1804年。
 フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト、35歳。

 戴冠を終え、栄光の頂に立ったはずのその瞬間――彼の視界は、突如として白く弾けた。

「何だ……?」

 轟くような音。揺れる大地。
 次の瞬間、ナポレオンは見たこともない場所に立っていた。

 石畳ではない平らな道。奇妙な箱のような乗り物が唸りを上げ、空には見たこともない柱や建物が突き刺さっている。行き交う人々の服装も、言葉も、何もかもが理解できない。

「ここは……どこだ」

 皇帝である彼にとってさえ、それは未知そのものだった。

 そのとき――

「うるせぇよ、てめぇ! 少しは俺の気持ち考えろよ!」

 鋭い怒鳴り声が通りの向こうから響く。
 目を向けると、ひとりの若い女が数人の若者に囲まれていた。地味な色合いの服をまとい、派手さはない。だが、姿勢は凛としていて、怯えの中にも品があった。

「だから、俺と付き合えって言ってんだろ」

「やめなさい、常盤木くん。教師にそういうことを言うものではありません」

 落ち着いた声。しかし相手は聞く耳を持たない。

「教師教師うるせぇんだよ!」

 男が腕を掴もうとした、その瞬間。

「控えろ」

 低く、場を制する声が響いた。
 全員が振り向く。そこに立っていたのは、この国の者とも思えぬ異様な男。眼光と気迫だけで、その場の空気を変えていた。

「婦人に対して無礼が過ぎるぞ」

「はぁ? 誰だよ、おっさん」

 侮辱だと悟ったナポレオンは眉をひそめる。男が肩をいからせて近づくが、ナポレオンは一歩も退かない。

「退け。さもなくば、後悔するぞ」

 その一言で、不良たちは思わずたじろいだ。目の前の男が、数え切れぬ死線を越えてきた者だと本能で悟ったのだ。

「……っ、なんだよ!」

 吐き捨てるように去っていく若者たち。静けさが戻る。

 ナポレオンはゆっくりと女を振り向き、そして息をのんだ。

 風に揺れる艶やかな黒髪。白く整った顔立ち。慎ましやかな装いの奥にある、凛とした気配。
 その美しさは、宮廷の貴婦人たちとも違っていた。もっと静かで、もっと気高い。

 ――美しい。

「……ヤマトナデシコ……」

 思わず、そんな言葉が口をつく。
 女はきょとんと彼を見た。

「え……?」

 ナポレオンは目を離せなかった。

「ビューティフル……いや、違う。貴女は――大和の美人、というべきか」

 常磐京子、25歳。
 彼女はまだ知らない。目の前の異国風の男が、かつて世界を震わせた皇帝ナポレオンその人であり、この出会いが自分の平穏な日常を根こそぎ変えてしまうことを。
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