『風の背を追って』

 定年を迎えた元教師・佐伯祐一は、半年ほど前に最愛の妻・千景を失った。
 家には妻の声の残響だけが漂い、カーテンの隙間から吹く風が、その不在を痛みとして思い出させる。
 生きる意味を見いだせなくなった祐一は、ある朝、ふとカメラを手に取り、海辺の町へと向かう。
 行き先も目的もない。ただ、風の吹く方へ歩こうと思った。

 その道の途中で、一匹の犬が彼のあとをついてくる。
 白と茶の毛並みをもつ雑種犬――どこかの飼い犬のようで、けれど首輪もない。
 追い払っても、少し離れたところでただ見守るように座っている。
 その眼差しに、祐一は次第に亡き妻の面影を重ねていく。

 犬と旅を続けるうちに、祐一は忘れていた景色と向き合う。
 かつて妻と訪れた町、写真館に残された一枚のネガ、風の道と呼ばれた並木道――
 それらはまるで、妻が置いていった“心の地図”のようだった。

 やがて祐一は気づく。
 この旅は、過去を探すためではなく、もう一度“いま”を生きるための道行きだったのだと。
 犬はやがて彼の前から姿を消す。
 しかし祐一の中には、確かにあの温もりと、風の匂いが残っていた。

 ――風は見えない。
 けれど、それが吹くたびに、人は前を向くことができる。

 『風の背を追って』は、
 “喪失の痛みを抱えながらも、静かに歩き出す勇気”を描いた、
 一人と一匹の小さな再生の物語である。
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