研ぎ師浅葱
「この刃は、女子供を斬ってはおらぬ――」
時は文久三年。山陰の小藩、三万二千石の伊砂見藩。城下の西町職人町で、ただ一人の藩抱え砥ぎ師として生きる青年、浅葱十郎太。彼には、亡き父から受け継いだ類まれなる眼力があった。刀身に残された微細な傷、血脂の拭い跡、研ぎ減りの具合といった痕跡から、使用者の太刀筋や手入れの癖、斬った対象までも精緻に読み解く、究極の職人技「刃文読み」である。
ある日の明け方、十郎太の元に持ち込まれた一振りの刃。時を同じくして、城下では筆頭家老の弟が暗殺されたという瓦版が飛び交い、不穏な空気が立ち込めていた。やがて十郎太は、藩からの内々の依頼によって、下手人が使ったとされる脇差を研ぐことになる。しかし、静けさに包まれた研ぎ場でただ一人、蝋燭の灯りを頼りに刀身に向き合った十郎太は、そこにあるはずのない微かな痕跡から、事件における致命的な矛盾を読み取ってしまう。
真実を隠蔽しようとする藩政の暗部が蠢く中、十郎太の周囲もにわかに騒がしくなっていく。密かに男装して夜廻りをする幼馴染の女剣士結花。裏の顔を持つ謎めいた呉服問屋の女主人鵲。そして、九年ぶりに姿を現した脱藩浪人である兄弟子、月城九郎兵衛。それぞれの思惑と過去が複雑に絡み合う中、十郎太の推理は、一人の侍の単なる暗殺事件という枠組みを超えて、伊砂見藩の全体を激しく揺るがす深い闇へと繋がっていく。
それは同時に、十年前に不審な死を遂げた研ぎ師の父と、忽然と姿を消した母の過去に直面することでもあった。権力者たちが刀を振るって隠そうとした真実を、ただ黙々と刃を研ぐことで暴いていく十郎太。亡き父の遺言を胸に秘め、決して自らは刀を抜かずに戦う職人の姿を描いた歴史ミステリー。神聖な研ぎ場から、幕末の動乱を映し出す真実の波紋が広がっていく。
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