拝啓、まだ名前も知らないあなたへ ~代筆係の没落令嬢は、文通相手が雇い主だと気づかない~
「あなたにだけは、嘘をつかないと決めていたのに」
五年前、戦時中の慰問の手紙をきっかけに始まった、名前も顔も知らない相手との文通。
互いの名前を明かさないという約束のまま、手紙は教会を通して、今も届き続けている。
伯爵令嬢リゼット・フォンテーヌは、父の死と身に覚えのない借金で家を失った。
幼い弟の学費のために選んだ仕事は、北の辺境を治めるグレイヴァルト辺境伯家の「代筆係」。
雇い主のヴィクトルは、戦の英雄にして「氷の辺境伯」と恐れられる人。無口で、笑わず、屋敷の中でも黒い手袋を外さない。これまでの代筆係は、ひと月ともたずに逃げ帰ったという。
「言った通りに書け」と言う雇い主と、「おっしゃりたいのは、こういうことですよね」と書き直す代筆係。
ぶつかりながらも、少しずつ距離が縮まっていく昼間の屋敷。
そして夜、リゼットは丸くくだけた字で、手紙の中の「あの人」にだけ本音を打ち明ける。
――新しい雇い主の方が、少し怖いです。
けれど、彼女はまだ知らない。
その手紙が届いている先が、中庭をはさんだ向かいの執務室だということを。
戦で右手を痛めた辺境伯が、左手で不器用な返事を書いているということを。
屋敷では端正な公文書の字を書き、手紙ではくだけた癖字を書く令嬢。
人前では手袋で傷を隠し、手紙の中でだけ優しくなれる辺境伯。
毎日顔を合わせているのに、互いの「もうひとつの顔」に気づかない二人の、手紙と現実が交差する二重の恋。
読者だけが知っている秘密に、どうか何度でもじれったくなってください。
すれ違い、気づき、それでも最後に届く一通の手紙まで。
中庭ひとつ分の距離を、ひと月かけて届く恋の物語。
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