本能寺の恋~諸説あり~
織田信長といえば、本能寺の変。
歴史に詳しくない者でも、一度は聞いたことがある名だろう。
天下統一を目前にした覇王が、家臣・明智光秀の謀反によって炎の中に消えた――それが、世に広く知られた話である。
だが、もし本能寺に、変とは別の名で呼ぶべきものがあったとしたら。
たとえば、恋と。
そんなこと、あるはずがないと人は笑うだろう。
天下人と家臣。
しかも、後に刃を向けることになる二人の間に、そのような情が入り込む余地などないと。
明智光秀も、かつてはそう思っていた。
主君・織田信長は、烈火のごとき人であった。
苛烈にして奔放。
笑う時は子どものように無邪気でありながら、怒れば周囲の空気まで凍らせる。
誰にも従わず、誰よりも先を行き、誰よりも孤独な人。
近う仕えながらも、その胸の内だけは読めぬ。
いや、読んではならぬのだと光秀は思っていた。
けれど、仕える年月が重なるにつれ、光秀の胸には名づけようのない違和が降り積もっていった。
ふとした仕草が、妙に目に残ることがあった。
杯を取る指の細さ。
風に乱れた髪を払う横顔。
鎧の隙間からのぞく、思いのほか白い首筋。
戦場では鬼神のように恐ろしいその人が、月明かりの下では、どういうわけか別の面差しを見せることがある。
むろん、口に出せるはずもない。
織田信長は男であり、主君である。
そこに疑いを差し挟むなど、無礼どころの話ではなかった。
だが一度芽吹いた違和感は、捨てようとするほど根を張った。
ある夜、京の宿所にて。
酒宴も終わり、家臣たちが引いた後で、光秀は廊をひとり歩いていた。
庭には薄く月がかかり、初夏の風が簾を揺らしている。
その静けさの中、不意に一枚の襖がわずかに開いているのに気づいた。
灯りが漏れていた。
主の居間であった。
見てはならぬ。
そう思いながら、足が止まる。
中では、人の気配がひとつだけした。
信長であろう。
次の瞬間、微かに咳く声が聞こえた。
昼の鋭さを失った、妙にかすかな声だった。
光秀は思わず、隙間に目をやってしまった。
黒漆の具足も、威を張る羽織も脱ぎ捨てられていた。
月のように白い肌が、灯りの下にあった。
長く落ちた髪が肩をすべり、細い背を隠しきれずにいる。
光秀は息を呑んだ。
見間違いかと思った。
いや、そうであってほしいと願った。
だが、その願いとは裏腹に、胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
織田信長は、何者なのか。
その答えに指先が触れかけた時、ふいに室内の人影が動いた。
鋭い気配が走る。
「……誰じゃ」
低い声が、闇を裂いた。
光秀は、凍りついた。
歴史に詳しくない者でも、一度は聞いたことがある名だろう。
天下統一を目前にした覇王が、家臣・明智光秀の謀反によって炎の中に消えた――それが、世に広く知られた話である。
だが、もし本能寺に、変とは別の名で呼ぶべきものがあったとしたら。
たとえば、恋と。
そんなこと、あるはずがないと人は笑うだろう。
天下人と家臣。
しかも、後に刃を向けることになる二人の間に、そのような情が入り込む余地などないと。
明智光秀も、かつてはそう思っていた。
主君・織田信長は、烈火のごとき人であった。
苛烈にして奔放。
笑う時は子どものように無邪気でありながら、怒れば周囲の空気まで凍らせる。
誰にも従わず、誰よりも先を行き、誰よりも孤独な人。
近う仕えながらも、その胸の内だけは読めぬ。
いや、読んではならぬのだと光秀は思っていた。
けれど、仕える年月が重なるにつれ、光秀の胸には名づけようのない違和が降り積もっていった。
ふとした仕草が、妙に目に残ることがあった。
杯を取る指の細さ。
風に乱れた髪を払う横顔。
鎧の隙間からのぞく、思いのほか白い首筋。
戦場では鬼神のように恐ろしいその人が、月明かりの下では、どういうわけか別の面差しを見せることがある。
むろん、口に出せるはずもない。
織田信長は男であり、主君である。
そこに疑いを差し挟むなど、無礼どころの話ではなかった。
だが一度芽吹いた違和感は、捨てようとするほど根を張った。
ある夜、京の宿所にて。
酒宴も終わり、家臣たちが引いた後で、光秀は廊をひとり歩いていた。
庭には薄く月がかかり、初夏の風が簾を揺らしている。
その静けさの中、不意に一枚の襖がわずかに開いているのに気づいた。
灯りが漏れていた。
主の居間であった。
見てはならぬ。
そう思いながら、足が止まる。
中では、人の気配がひとつだけした。
信長であろう。
次の瞬間、微かに咳く声が聞こえた。
昼の鋭さを失った、妙にかすかな声だった。
光秀は思わず、隙間に目をやってしまった。
黒漆の具足も、威を張る羽織も脱ぎ捨てられていた。
月のように白い肌が、灯りの下にあった。
長く落ちた髪が肩をすべり、細い背を隠しきれずにいる。
光秀は息を呑んだ。
見間違いかと思った。
いや、そうであってほしいと願った。
だが、その願いとは裏腹に、胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
織田信長は、何者なのか。
その答えに指先が触れかけた時、ふいに室内の人影が動いた。
鋭い気配が走る。
「……誰じゃ」
低い声が、闇を裂いた。
光秀は、凍りついた。
あなたにおすすめの小説
居候同心
臨時廻り同心風見壮真は実家の離れで訳あって居候中。
本日も頭の上がらない、母屋の主、筆頭与力である父親から呼び出された。
実は腕も立ち有能な同心である壮真は、通常の臨時とは違い、重要な案件を上からの密命で動く任務に就いている。
この日もまた、父親からもたらされた案件に、情報屋兼相棒の翔一郎と解決に乗り出した。
※完結しました。
与兵衛長屋つれあい帖
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
上司、快楽に沈むまで
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
織田信長IF… 天下統一再び!!
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
滝川健四郎の事件帖 〜名奉行・大岡越前に見込まれ江戸の難事件に挑む〜
享保十七年。武州多摩郡の陣屋手代・滝川健四郎は、根っからの百姓である。農政を仕込まれ、算勘にも人の話を聞き出すことにも長けている。ただひとつ、欠けたところがあった。女の顔と、匂いを、覚えていられない。
嵐の翌朝、多摩川に異形の水死体が上がった。
羽村で出会った娘。二年後、代官の屋敷で再会した女。そしてさらに二年後、江戸日本橋で、大店の主人ばかりを狙う姿なき女――。
沈丁花、菫、白檀。三つの香りが、ひとりの男の前を通り過ぎていく。健四郎が気づいたとき、すべては終わっている。
大岡越前が南町奉行を務めた享保の世。百姓と武家のあいだに立つ男が、三つの事件と三つの香りに出会う、捕物三部作。
ログインすると感想の投稿ができます。