声を失った少女 小説一覧
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1
「はじめまして」としか、言えなかった。
「はじめまして」
声を失った彼女は、震える手でそう書いた。
けれど、それは二人にとって――二十七回目の出会いだった。
二十四歳の燈は、若年性の記憶障害を抱えている。
朝になるたび、昨日の出来事が少しずつ薄れていく。壁一面の付箋と、未来の自分へ残す録音だけが、失われていく日々をつなぎ止めていた。
ある夕暮れ、燈は海辺で、声の出ない女性・凪と出会う。
凪は燈の好きな味を知っていた。
薬の時間も、部屋の物の場所も、忘れているはずの幼い頃の癖さえも。
「僕たち、本当に初対面ですか」
その問いに、凪は答えない。
ただ悲しそうに笑い、彼のそばに居続ける。
四時十四分で止まった腕時計。
青いリボンの結ばれた古いレコーダー。
壊れた木馬。
海辺で拾い集められた青いガラス。
そして、存在しないはずの弟――海。
レコーダーの水音の向こうから、幼い声が聞こえる。
「……お兄ちゃん」
忘れている燈と、すべてを覚えている凪。
二人が白い灯台へ辿り着いたとき、十年前の海難事故に隠された真実が、止まっていた時間とともに動き始める。
なぜ凪は声を失ったのか。
なぜ燈は弟の存在を忘れたのか。
そして凪は、何度忘れられても、なぜ彼を見つけ続けるのか。
これは、記憶を取り戻す物語ではない。
たとえ何もかも忘れても、もう一度、同じ人を好きになれるのか。
何度でも「はじめまして」から始まる、喪失と再生の純愛ミステリー。
感想数 0
文字数 73,389
最終更新日 2026.08.12
登録日 2026.07.31
2
『聖女の鍵盤』― 休符で重なる,私たち ―
ある火曜日の朝,ソプラノのソリストだった少女は,声を失った。
前兆はなかった。
ただ,口を開いたとき,音のない空気だけが喉を通り抜けた。
心因性失声という診断を,彼女は穏やかに受け取った。
泣かなかった。
怒らなかった。
その代わり,伴奏者としてピアノの前に座ることを,自ら申し出た。
歌えないからこそ,見えるものがある。
息を吸う前の沈黙,肺が膨らむ気配,制服の胸元が微かに擦れる音。
合唱部員たちの声の裏側を,彼女は鍵盤を押しながら,皮膚で聴いている。
廊下を必ず一度振り返るアルトの澪,楽譜を議論で埋め尽くす部長の遥。
彼女たちの呼吸から,生活と感情を読み取りながら,主人公は音楽室の放課後をひとつひとつ,積み重ねていく。
声がなくても,届くことがある。
楽譜の余白に書いた一文が,指揮棒の一拍が,鍵盤の一音が,言葉になる。
歌えない少女が,休符の中に見つけた,静かで確かな充足の物語。
感想数 0
文字数 35,128
最終更新日 2026.05.03
登録日 2026.03.29
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