逆徒由比正雪譚
駿河国由比ヶ浜にかつての住人弥右衛門と息子の喜平次がやって来て、私の命の恩人だと吉岡次郎之介と妻の早苗を紹介し、ここで染め物屋をすることになったのでよろしくと言った。あばら屋となっていた弥右衛門の旧家は建て直され、翌年には女の子が生まれ夕と名付け、11年後には男子が誕生し、治三郎と命名した。だが夏の終わり、地震と津波が襲って来て大きな被害を被った。夕も津波に飲み込まれる寸前だったが、次郎之介の機敏な動きに助けられ危難を逃れ、父は尊敬の対象になった。そして翌年、大阪の陣が切って落とされ、かつては石田三成の家臣だった次郎之介は夕に後を託し、大阪に向かった。だが豊臣は滅亡し、次郎之介は戻って来なかった。
男の子二人が三歳になると、夕による教育が始まった。基底は徳川憎しと大義の確立である。だが治三郎にはその気が全くない。ホラを平気で振りまく。対して久米之介は真面目そのものである。だが祖父の命の恩人の孫だから忠義を尽くせと言う親の方針には疑念を持っていた。彼の悩みは治三郎に対する忠義は虚であり、優しく接してくれる夕に対する思いは実であることだった。治三郎の虚言癖は止まることを知らず、遂には時の最高権力者徳川家光に対する誹謗となり逮捕されたが、喜平次の工作で釈放された。夕は修行を命じ久米介という家来付きで仏門に入った。だが坊主見習いとなって得たものは悪所通いだけであった。
三年後、寺を辞したが、久米之介は自称楠木正成の血を引く者だという楠木大膳なる怪しげな老人と知り合い、家に連れ帰った。夕は胡乱なやつと危ぶんだが、幕府を倒すためには江戸に行かなければならない、その時がやって来たのだと思い江戸行きを許した。大善の持つ楠木正成の兵法書と幟を我が物にせんと狙う治三郎、二人まとめて有り金全てを奪おうと企む大膳、治三郎では夕様の言う大義は確立出来ない。ならば私が成り代わって実現させようと思う久米之介、それぞれの思惑を秘めて三人は江戸に旅立った。
二百六十余年もの幕政の基礎を築いた知恵伊豆こと松平信綱は累々たるキリシタン信者の屍を見ながら、次なる標的に的を絞っていた。キリシタンはこれで闇の中に潜むであろう。外様大名は牙を削ぎ落とすであろう。残るは武人派南海の龍こと徳川頼宣、たとえ御三家だろうとも安寧を脅かす者は許さない。
知恵伊豆は『楠木流軍学 張孔堂』の門を潜り、由比正雪の登場を待った。やがて三十代半ば総髪の人物が出てきた。静かな出だしである。だが次第に激してくる。
客も高揚し、「然り!」などと声を挙げている。「虚に生きるべきではない。虚に走るはたやすく、実に止まるは困難を要する。だが恐れてはならぬ。それが誠の武士道である。大義に生きよう」
知恵伊豆の射るような視線を浴びながら正雪は自らも陶酔していた。
戦いの幕はまだ切られたばかりである。
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