「KI」の検索結果

全体で2,726件見つかりました。
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 時は戦国時代、下総結城の地に「結城晴朝」を城主とした小国があった。晴朝は織田信長より一つ年上であり、まさに戦国時代の真っただ中に生きた人物である。多分に漏れず小国は他国からの侵略が絶えない。当時の上杉、武田、北条は列強であり武力兵力は絶大であった。しかし晴朝は列強に攻められ様とも、長い間、結城の地を守り抜いている。当然、勇猛に刃を交え戦ってきたが、和議を以っての解決もしたのだ。武勇もあれば知恵もある猛者であった。所が、天下人になった豊臣秀吉の養子であった、豊臣秀康が突如結城家の養子に入る事となる。当然晴朝は隠居させられ、質素な暮らしを強いられてしまう。他にも秀康に対する、晴朝の不満が更に募る事例もある中、関ヶ原の戦に挑む両者。はたして結城晴朝は徳川家康に加勢するか、石田三成に加勢するのか。  この物語は、年月日を含め、史実に基づき構成してあります。あくまでもフィクションではありますが、登場する人物の史実による『生き様』から推察して、決して!無きにしも非ず。史実は捻じ曲げておりませんので、古書文献が残っていないだけかもしれません。
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文字数 46,013 最終更新日 2024.06.03 登録日 2024.05.26
――頃は明治 絵描きの話をしよう―― 明治二十二年、ひとりの少年が東京美術学校に入学するために上京する。 岡倉天心の「光や空気を描く方法はないか」という問いに答えるために考え描かれていく彼の作品は出品するごとに議論を巻き起こす。 伝統的な絵画の手法から一歩飛び出したような絵画技術は、革新的であるゆえに常に酷評に晒された。 それでも一歩先の表現を追い求め、芸術を突き詰める彼の姿勢は終生変わることがない。 その短い人生ゆえに、成熟することがない「不熟の天才」と呼ばれた彼の歩んだ道は決して楽ではなかっただろう。 その人は名を菱田春草(ひしだしゅんそう)という。 表紙絵はあニキ様に描いていただいたものです。
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文字数 121,438 最終更新日 2023.06.18 登録日 2023.05.17
 元禄十三年秋、広島藩浅野家家臣徒目付の藤村数馬は、実父沢村次郎右衛門の死によって心ならずも公儀隠密の役目を継ぐことになる。数馬には、三歳年下の愛しい妻美寿々がいた。美寿々は現在妊娠中で、出産予定日は、来年の三月半ば過ぎだった。同年、晩秋、数馬は藩の上役で大目付の三枝から、秋山文六左衛門と云う男を上意討ちにしろと命を受ける。秋山を討ち果たした数馬は、徒目付組頭に昇進。  翌元禄十四年、美寿々が長男長太郎を出産したその日、三月十四日、江戸城松の大廊下で赤穂藩主浅野内匠頭が、高家筆頭吉良上野介に刃傷に及ぶ。事件に対処するため、数馬は三枝と他の藩士たちと赤穂へ向かう。大石内蔵助を説得するためだ。数馬の繋ぎ役月舟尼こと於倫は、大石の身を護れと命じ、三枝からは大石を斬れと云う相反する命令を受ける。無二の親友青木幹之助も数馬同様公儀隠密で二人して大石を護り、三枝たちを斬る。全ては美寿々と幼い我が子を護るための行動だった。  翌元禄十五年、数馬は幹之助とともに川崎平間村の軽部屋敷に逗留する大石の許を訪れ、そこで同朋の井本善兵衛と妻美寿々の兄宇佐美慎之介に正体がばれ、激しい戦闘の末、幹之助と義兄慎之介は死亡する。その後数馬は、三次浅野家屋敷近くの南部坂で吉良方の刺客と戦闘の末、絶命する。  二十年後の享保七年、再婚した美寿々の許へ謎の僧侶が現れ、数馬の形見の品、千手院和泉守守正の業物と梅の飾りが付いた簪を渡す。美寿々は、何も真実を知らないまま、最愛の良人数馬の形見を見て泣き崩れる。全ては数馬の思惑通り進み、家族の命は救われたのである。
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文字数 82,032 最終更新日 2024.05.18 登録日 2024.05.18
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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文字数 330,779 最終更新日 2023.09.07 登録日 2023.05.31
1894年、明治時代―― 東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった頃、後の世で「空手」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。 ティーの修業者達にとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。 誇り高き武人達は、時代に翻弄されながらも戦い続ける。 拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生! ・検索キーワード 空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真カラテ(極真会館、大山道場)、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道
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文字数 127,763 最終更新日 2024.01.06 登録日 2022.06.08
時は明治─ 残党は何を思い馳せるのか。 ※改稿したものをKindleする予定ですが、進まないので一時公開中
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文字数 30,085 最終更新日 2019.08.15 登録日 2019.08.13
※エブリスタからマルチ投稿 水野忠邦と土井利位の不思議な関係 弘化元年《こうかがんねん》(1844年) 冬 冬の寒さで冷え込む江戸城。 登城《とうじょう》を果たした幕臣たちは、身分に応じて割り振られた詰所《つめしょ》に入るのだが、一人だけその列から離れ、入側《いちがわ》から濡縁《ぬれえん》に立ち、曇り空を見あげている男がいた。 男の名は水野忠邦《みずのただくに》。病に倒れた水野は、とある男と自分の人生を比較する。 自分とはなにもかも正反対の男、土井利位《どいとしつら》。 雪華《せっか》を愛するこの男は、天が雪を降らす限り、決して絶望することはない。 参考引用文献 天保の雪 著:市原麻里子 天保図録 著:松本清張 人物叢書 水野忠邦 著:北島正元 水野忠邦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A6 土井利位 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E4%BD%8D
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登録日 2024.05.27
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