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「君は何もしていない」
夜会の真ん中で、婚約者のユリウス様はそうおっしゃいました。百人からの貴族が聞いている前でした。
わたくしがヴァルトハイム公爵家に入ったのは三年前、花嫁修業という名目でのことです。朝は五時に起きて使用人に一日の指示を出し、厨房に献立を通し、帳簿をつけ、領地から上がってくる陳情を仕分けて、出入りの業者と値段を詰めて、社交シーズンの招待状を百二十通手配しました。去年もその前も、同じことをしています。誰にも申し上げたことはありません。一度も訊かれませんでしたので。
ですから「何もしていない」というお言葉は、たぶん正しいのだと思います。あの方の目には、本当に何も映っていなかったのでしょう。
承知しました。では明日から、本当に何もいたしません。
鍵束をお返しして、帳簿をお返しして、わたくしは屋敷を出ました。引き継ぎ書は書いておりません。どなたからも求められませんでしたから。
三日後、公爵家の朝食は誰も時間を知らないまま冷めていったそうです。一週間で出入りの業者が消えて、二週間で使用人が七人辞めたと聞きました。わたくしはそのころ北の辺境におりましたので、全部あとから人づてに知ったことです。
ところでその辺境の領主様は、わたくしの顔でも家柄でもなく、三年前にわたくしが書いた帳簿の字を見て「これを書いたのはあなたか」とおっしゃいました。三十二歳の、やたらと落ち着いた方です。
これは、やって当たり前だと思われていた女が、自分の名前で呼ばれるようになるまでの話です。
※本作品は小説家になろうでも掲載しています。
文字数 44,763
最終更新日 2026.10.05
登録日 2026.10.02
メルメデート辺境伯家の次女、リリス・メルメデート。十六歳。
元騎士団長の父、領地を富ませた才女の母、領軍を率いる兄、王国騎士団の若きエースである姉。 何かを成し遂げた家族の中で、リリスだけが何者でもなかった。
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そんなある日、持ち込まれたのは顔も知らない侯爵家嫡男との縁談だった。 「このまま誰かの奥さんになって終わるのは、嫌」
置き手紙を残して国境を越えたリリスは、隣国アルヴェリアで身分を隠して冒険者登録をする。 実技試験では試験官を驚かせる火力を見せるが、下された評価は「実戦なら味方を焼く」。
未熟な炎と、使いどころを選ぶ実家のお金と、決して明かせない辺境伯家の名。 手札はいびつでも、使い方次第で戦える。
何者でもなかった令嬢が、自分の名前で認められるまでの冒険譚。
文字数 16,296
最終更新日 2026.10.05
登録日 2026.10.05
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