ライト文芸 働く女性 小説一覧
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件
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標高1,000メートル。
スイッチバック駅のホームに,小さなパン屋がある。
店の名前は『こもれび』。
古い待合室を改装した,天窓から光が差し込むだけの,ささやかな場所。
停車時間は,わずか5分間。
急勾配を登る列車が,進行方向を逆転させるために,ここで一度だけ息を止める。
その5分間だけが,乗客と店主が触れ合える,唯一の時間だ。
店主の麦は,元・都内有名店のパン職人だった。
完璧な層を折り込み,完璧な発酵を管理し,完璧なパンだけを世に出そうとした。
そうやって追い求めた果てに,自分自身が「過発酵」を起こして,崩れた。
逃げるように辿り着いたこの駅で,麦は毎朝パンを焼く。
高原バターのクロワッサン。
ミルクたっぷりの白パン。
ドライフルーツのカンパーニュ。
やって来るのは,どこかに欠けたものを抱えた人たちだ。
挫折を押し込めたまま出張へ向かうサラリーマン。
育児の孤独の中で,自分の輪郭を見失いかけている若い母親。
「正解」を探して,地図にない場所へ来てしまった少年。
麦は多くを語らない。
ただ,その人が手を伸ばしたパンを,丁寧に袋に包む。
人の「心の欠落」は,その人が選ぶパンの種類に,静かに滲み出る——麦はそう知っている。
5分間が終われば,列車は山を下りていく。
麦にできることは,焼きたての熱が手のひらに残るほんの一瞬に,何かを手渡すことだけ。
それでいい,と今の麦は思っている。
かつての自分が,過発酵で崩れた生地のように,修復できないものもあると知ったから。
ここは終点ではなく,折り返しの場所。
後退することが,次のルートへの転換になる——スイッチバックが,そう教えてくれている。
痛みを知る大人のための,山の上の,5分間の物語。
文字数 7,119
最終更新日 2026.03.31
登録日 2026.03.27
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鍋奉行が家に来た。
私の食生活を請け負うと、わけの分からん言い分を述べて。
自分を鍋師だと豪語する。とびきりおいしいご飯を作る。生活費も出してくれる。ただその男は、自然消滅したはずの元彼で。
鍋師などという聞いた事もない職も、相手が大学時代に付き合っていた元彼だということにも、多少は目をつぶってもいいと思ってしまっている自分に少し腹が立つ。
ただ、社会に出て数年もすれば、それなりに働き方というものも分かってくる。
代わりに、私はそれなりに色々なものを犠牲にしたと思う。三十路に片足突っ込んだような年齢になっても彼氏の一人いないし、余暇を楽しむほど何かに熱中している訳でもない。
ほどほどのお金を得て、ほどほどの暮らしを送っていることに、ちょっとした寂しさはあるけれど、大きく不満はない。そんな生活。
四月になって、今年も代り映えの無い年度が始まるかと思っていたが、そうではなかった。
何年も前に分かれたはずの元彼が、旅行鞄いっぱいの大金を持って私の目の前に現れたのだ。
彼は言った。
「俺に毎日、お前の飯を作らせてくれ」と。
鍋師、という職業があると彼は言う。
鍋と共に歩み、鍋の深遠に到達するために生涯を捧げる者。それが鍋師であり、そのための作法を鍋道と呼ぶのだと。師範の位を持つものに与えられる、鍋奉行という称号を得るために、日夜修行に励んでいるのだとも。
鍋師として半人前である彼が一人前と認められるためには、三ヶ月間、他人の食事を賄わなければならないのだと言う。そこで白羽の矢を立てたのが私だったのだ。
私は強く思った。
なんだその荒唐無稽なデタラメは、と。
文字数 121,254
最終更新日 2023.04.30
登録日 2023.04.29
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